第16日 彼女のあしあと

 ぼくはぼくである。「おれ」ではない。男の一人称としては「おれ」が多いけれど、ぼくはぼくを貫き続ける。それは全部彼女のせいだ。

 幼稚園や保育園に入る前、男は一人称として「ぼく」を使うことが多い。だけれど幼稚園の途中か、少なくとも小学校に上がる前には「おれ」に変わっているのが大半だ。ぼくの友人たちもそうだった。ぼくだって御多分に漏れず「おれ」にしようとしたことがある。


 いつものように幼稚園の砂場で幼馴染の彼女と遊んでいた或る日。まあ、五歳やそこらの時の会話なんてぼくはほとんど覚えていない。何を話していたのかわからないけれど、概ねこんな会話だったと思う。

「いちばんおっきい山をつくろう」

「いいね、ふじさんよりも高くしよう」

ぼくらは砂で山をつくっていた。小さい頃、誰もが一度は通る道だと思う。今どきの子供はしないのかもしれないけれど。

「ねえ、トンネルもつくろうよ」

「うん、つくろう」

  砂場で山をつくったら一回は貫通させたいと思うはずだ。もはや砂場の醍醐味と言ってもいい。ふたりで反対側から山に穴を穿っていく。淡々とした作業ではあったけれど、幼き日のぼくにとってはとても楽しかった。

 何が契機だったか今のぼくには知る由もないけれど、その時ぼくは「おれ」になりたいと思った。確か、前から燻っていた思いが急にむくむくと膨れ上がったという感じだった気がする。たぶん友人たちがこぞって「おれ」になってきていたんだろうね。とかく、さり気なく「おれ」を使ってみることにした。

「おれ、そろそろはんぶんくらい掘れたかも。そっちはどう?」

 同じく山に穴を開けていた彼女はぱっと顔を上げた。

 その反応は正しい。今までずっと「ぼく」だった友人が急に「おれ」に変わったら誰しも驚くはずだ。

「おれ?」

 彼女がきょとんとしてこちらを見ている。でも、ここで折れたらぼくの「おれ」人生が終わる。ぼくは確固たる意志を持って彼女を見つめ直した。

「うん、おれ」

 ふーんと彼女は興味なさそうな生返事をした。

「へんなの。きみはぼくのほうがにあってるのに」

 その時彼女の指とぼくの指が触れ合った。トンネルが貫通したのだ。かと思うと、ほとんど同時に砂の山は瓦解した。大きな穴を開けすぎたのかもしれないが、時、既に遅し。

 ――へんなの。

 砂場の山が崩れると同時に、ぼくの「おれ」に対する自身ががらがらと崩れ落ちていくようだった。だってこの時期はまだ自我の形成期で、純粋な「へんなの」という言葉の重みは今よりも随分と重いのだ。

「あーあ、くずれちゃったね」

 ぼくの気持ちなんてつゆほども知らずに彼女は山を残念がる。

「そうだね。……ぼくもざんねん」


 ぼんやりしか覚えていない幼年期だが、ここだけはまあまあ鮮明に記憶していた。それはそうと、高校生になった今もぼくは変わらずぼくだ。あの時の彼女の言葉がぼくに刺さっているから。たぶん当時の彼女には如何なる意図もなかったのだろう。でも、ぼくがおれにならなかった主な理由はあの日の出来事だった。彼女と出会っていなければぼくはおれだったかもしれない。

 知らぬ間に彼女のあしあとがぼくに深々と刻まれている。その事実にぼくはほんの少しだけどきどきした。どちらも無自覚のうちにつけてつけられた足跡。


 今ぼくは高校生だから、彼女とはかれこれ十年くらいの付き合いになる。高校生になった彼女はぼくに問うた。

「ねえ、きみはどうして自分のことをぼくというの? 男子はおれという人が多いのに」

 ああ。彼女はこういう人だ。結局ぼくは幼き頃から彼女に振りまわされているのかもしれない。

「……さあね。ぼくのほうがしっくりくるからかな」

 彼女は納得したというように表情を綻ばせた。

「確かに。きみにはぼくのほうが似合ってる」

 ああ。良くも悪くも彼女という人は変わっていない。それに少しだけ安堵というか何だか不思議な気持ちになった。


 ぼくも彼女に何かあしあとを残しているのかもしれないと思うと、少しくすぐったかった。

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