第3話
目を覚ましたチリは、片っ端から本にあたってみた。前日のものが何かの嘘かのように、文字は文字としての機能を取り戻している。なんだ、夢だったのか――。
夢などではない。そう突きつけるように、文字たちが動く。だがそれは、昨夜と比べれば大人しいもの。ダンスパーティというよりは井戸端会議くらいの喧しさである。
チリは、はれぼったい目を何度もこすりながら、本を読んだ。
文字の精霊。
その存在は言うまでもないものとなった。文字を構成している線が狂喜乱舞しているのだ。どうして文字に意思がないと言えるだろう。
そう言ったものの記述はないだろうか。チリは調べることにした。
86400秒。
2888分。
そして、72時間が経過した。
調査開始から数えて4日目になっても、さっぱりわからない。そもそも文字の精霊という概念が「文字禍」にしかなかった。いや、類似しているものならあるのだ。バベルの塔以前の人類が使用していた共通言語や、ヒトを死へと駆り立てる言語……。
だが、それらは結局のところ、言語だ。文字の力というよりは音声としての力と言える。
チリの求めているものとはズレていた。
結局、チリはダイニングメッセージにもあった「文字禍」という作品に戻ってくるのだった。
今度は本屋で買ってきたものだ。真新しい紙が発する独特な香りを楽しみながら、チリは本を開く。
文字になにがしかの意思があるというのはわかった。では、新しいものと旧いもので違いはあるのだろうか?
そんな疑問に駆られたチリはぺらりぺらり、紙をめくる。
文字は動かない。読めども読めども、文字は決まりきった形を保持したまま微動だにしない――かと思われた。
チリは目をぱちくりとさせた。文字がブレて見えたのだ。
「あれ……」
寝不足かあるいは文字を凝視していたからか、疲れ目にでもなってしまったのか。文字が二重に見えた。
よくよく見たら、文字は動いていた。動いているというよりは震えているという方が正しいかもしれない。
それは、だるまさんが転んだで鬼に見つめられ、体を硬直させているような様に似ている。
チリが文字から目をそらせば、ホッとしたように文字は震えるのをやめる。バッと文字に目線を戻せば、動き出そうとしていた文字たちが石化されたみたいにカチンコチンに固まるのだった。
この文字たちはどうやら恥ずかしがり屋らしい。
つまるところ、文字たちは性格のようなものを有している。全部を確認したわけではなかったが、チリはそう結論付けた。
とにかく、文字たちには違いがある。同じ文字であっても、形が一緒であっても、その性格によって見え方は違うというわけだ。
「なんだか人間みたい」
文字も進化しているのかもしれない。人間が文字を獲得し、神によって共通言語を失い細分化された言語は独自の進化を遂げてきた――それと同じように文字そのものも時代とともに進化している。
ふとチリは、人間みたいと思うと同時にウイルスみたいだとも思った。
「――ウイルス?」
チリは首を傾げる。どうしてそう思ったのか、チリにもわからなかった。直感といえばそうかもしれないし、何かの本で読んだ内容が頭をよぎったのかもしれない。だが、ウイルスとは……。
文字がウイルスだとした場合、遠い遠い人類の祖先に感染したということになる。その後、文字は多種多様な言語へと細分化され、今では文字を持たない人間はいないといっても差し支えないほどにまで広がっている。
その様はまるでパンデミックのよう。
そう考えると、文字ウイルス説というのもあながち間違いでもないのかもしれない。
だが同時に、うすら寒くもなる。
チリの目に入ったのはあすかが残していった、ダイニングメッセージをコピーした紙だ。そこには、文字に対する恨みつらみが事細かに書かれている。つるるとした紙に打ち込まれた文字はピクリとも動かない。
あすかは言った。文字の精霊はいるのかと。文字がウイルスで、何らかの意識を持っているのだとしたらそれは文字の精霊だと言えないだろうか。
そして、意思があった場合だ。自分のことをバカにされたと気づいた文字の精霊は怒り、ヒトには計り知れない力でもって、バカにしてきた不敬な者を殺害した。
そう考えれば説明はつく。つくのだが……。
チリはため息をつく。そんなことがあり得るのだろうか。言葉の精霊らしきものを目の当たりにしながらチリは、いまいち信じられずにいた。
――文字がそんなことをするのかなあ。
だそうだ。
彼女にとって、本というのは生まれたときから身近にあふれていたもので、両親の次に好きなものと言ってもよかった。ちなみにその次に好きなものはない。暫定二位である。
だから、文字が人を殺すとは思いたくなかったし、できることならそんなことはしないでほしい。
文字がウイルスとして、人間に感染していった。それによって、たくさんの諸症状が出ているというのは「文字禍」にある通り。
でも同時に、文字を得たことによって言葉が生まれた。言葉によって人類は血みどろの歴史を残すことができるようになったし、相手を貶すこともできるようになった。依然として戦争は続いているが、相手のことを理解できるようになったのである。
確かに悪いこともあるだろう。でも、いいこともあった。
そのことを忘れたらいけないだろう。
うんうん、とチリは頷いた。自分自身に言い聞かせるように。
とはいえ、あすかのオーダーは死因に文字の精霊が関与しているかどうかって話だった。
関与していると断言することはできなかった。文字に不思議な力があるとも限らないのだ。たまたま地震が起きて、本棚が倒れてきただけなのかもしれない。そこの因果関係を証明するものはなに一つだって存在しないのだ。
だから「そういう力はあるかもしれない」という不正確なことしか、あすかには話せそうになかった。言おうと思えば、死んでしまったご老人たちと同じように言葉の精霊を非難することもできたろう、だけどもチリはそうしない。
だって、本がひいては文字というものが好きだから。
あと、死にたくない。
「あ――」
不意にチリの体がぐらりと揺れた。バタンとチリは埃っぽい床へ倒れ伏す。グラグラと酒を飲酒したときみたいに視界が揺れている。いや揺れているのは視界ではなく、周りそのものが揺れているのか。
突き上げるようなあるいはゆすぶられるような衝撃は数秒あるいは数分あるいは数時間続いた。
地震。
チリの脳裏を、あすかから教えてもらったことがよぎる。被害者はすべて、地震によって倒れた本棚や書籍の下敷きとなって亡くなったとか。
――ワタシもそうなってしまうのだろうか。
そこはかとない不安はあっという間に本棚に隠れて真っ黒に塗りつぶされたのだった。
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