第2話

 あすかが店を出て行ってすぐ、チリは店を閉めた。まだ夕方だったが、気にしない。はやく閉めようが遅く閉めようがやってくる客の数は変わらないのだ。


 本を日焼けから守るため、分厚い遮光カーテンが張られた店内はすでに、夜の朝日が押し寄せてきている。


 そんな中であすかは日に焼けて「文學界」を手に取ると「文字禍」に目を通し始める……。


 物語はこうだ。文字の精霊を調べてほしいと言われた男が、その存在を知り、危険性を訴えたところ、災難に遭ってしまうという話。短い話だからあっという間に読み終えてしまった。


 次に何を読もうか――チリは本棚に目を向ける。だが、何を読んだものかさっぱり見当つかない。文字の精霊を紹介している本があるわけではない。ネクロノミコンやナコト写本でもあればいいが、そういう奇書の類は、あいにくこの本屋にはなかった。


 文字の精霊とやらの手掛かりといえば、ダイニングメッセージにあった「文字禍」くらいしかなく、チリはボロボロになった雑誌のページをじっと見つめることにした。


 縦に並んだかすれた文字。ただでさえ見にくい黒い字は周囲が薄暗いこともあって、ほとんど見えないといっても差し支えはなかった。チリは文字を舐めでもするかのようにこれでもかと顔を近づけ、文字を見ていた。近すぎて、文章はほとんど頭に入ってこないくらいだ。


 文字の止め・伸び・払い、かすれ具合、古本特有の芳しい臭さまでありありわかる。


 そうやって文字の一つ一つに目を向けていたら、ふいに、文字が動き出した。


 実際には動いてなんかない。印字されたものが動くはずがないのである。チリもそう思っていた。


 文字は線の一本一本に分かれ、手を取り合ったかと思えばダンスし、縦横無尽に駆け巡る。駆け巡ったと思ったら、ぶん殴りあいをし、肩を組み合ってまたダンス……。


 文字はすっかり意味をなくし、線の集合体と化していた。文字を文字ととして認識することができない。踊り狂い創作ダンスのようなふるまいをするそれらに、意味なんて求められるわけがない。


にびんぶげべんぶがばみびてべるぶわばよぼにんげんがみているわよ


みびせべつぶけべてべやばろぼうぶみせつけてやろう


 そんなことを言っているかはわからなかったが、ラインたちの饗宴をチリは食い入るように見つめていた。


「そんなこと……」


 驚愕から、チリの口からそんな声が漏れた。驚きすぎたあまり、手にしていた雑誌を落としてしまった。


 静寂が占めていた店内に、バサバサという音が轟音のように轟く。


 しばらくの間、チリは茫然としていた。さっきのは何かの見間違いだろう、きっとそうに違いない。


 雑誌を拾い上げようとした。表紙には「文學界」とある。だが、チリにとってはその文字すら、意味がわからない。その文字たちは別にダンスパーティーをしてはいなかった。


 だが今や、文字は文字としての役割を失ってしまったかのように、点と棒が組み合わさったものに成り果てていた。


「なにこれ」


 チリは困惑していた。この地球に生まれ落ちて十六年、読書を欠かさなかった日は一日だってない。いや、実際にはある。あるが、文字がこういう風に見えるのははじめてのことだった。


 目をこすっても本をこすっても、本で服をこすっても、何をしても変わらない。


 手当たり次第に本をとっては読んでみる。やはり、文字は文字ではなかった。


 自由気ままな記号たちを見ていると、チリは頭が痛くなってきた。脳みその奥の方がアイスクリームを食べて叫んでいるみたいに、キンキンとした。


「落ち着けワタシ」


 山積みとなった本の隣で、チリは深呼吸。


 吸って吐いて吸って吐いて吐いて吐いて吐いて……。


 何度目かの呼吸ののち、何とか落ち着くことのできたチリは、目の前の本棚へと目を向ける。真っ黒なその本棚は、チリが生まれるよりも前から存在していたもの。


 それが本棚ではなく、立てかけられた板二枚と横板四枚、それからいくつかの木釘によって構成されたものとしか認識できなかった。


 チリの隣にあるのは本棚であったが、本棚ではなかった。皮をはがされ切断され、磔にされた哀れな犠牲者だったのである。


 いや、壁もコンクリートと鉄筋が組み合わさったものに過ぎず、自らの服を見れば、無数の細い糸が縦横に張り巡らされたものにすぎなかった。だがそれ以上に、自分が骨と肉と血で水で構成されていることに驚愕した。


 チリは悲鳴を上げ、同時にチリは意識を手放した。


 ふらりと倒れたチリは本の山へと激突し、本の雪崩が起きた。


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