第13話 集会前夜
「フリッツ様、今日のクッキーは、ちゃんと美味しくできましたわ!」
たっぷりとバターを入れたクッキーからは、空腹をくすぐるいい匂いがする。
それに今日は、シンプルなクッキーの他に、レーズンを混ぜたものも作ってみた。
「紅茶も用意していますの。一緒にどうかしら?」
カトリーヌの顔をしばし眺め、フリッツはゆっくりと頷いた。
それだけで、飛び上がりたいほど嬉しい。
「では、すぐに居間へお持ちしますわ。くつろいでお待ちくださいませ!」
初めてのクッキー作りに挑戦してから、今日でちょうど一週間。
あれから毎日作っているおかげで、クッキー作りだけはかなり上達した。
怪我の功名、ってやつだわ。最初に失敗した時は、本当に悲しかったけれど。
フリッツは黒焦げのクッキーも食べてくれたし、次こそは美味しいものを作る、と言ったカトリーヌを応援してくれた。
毎日クッキーを作るようになったのは想定外だっただろうけれど、今のところ食べるのを拒否されたことはない。
やっぱり、フリッツ様はとても優しい方だわ。
まだ、完全に打ち解けたとは言えない。昔に比べると表情は硬いし、距離だってある。
でも、本気で拒まれたことはない。
紅茶を持って居間へ行くと、フリッツは既にテーブルにおいたクッキーを食べていた。
「紅茶をお持ちしましたわ」
「……ありがとう」
カトリーヌが注いだ紅茶を、フリッツがゆっくりと口に運ぶ。それだけのことで、胸がいっぱいになった。
ここで暮らし始めてから、フリッツについて分かったことがいくつかある。
毎日見回りに出かけていて、街の様子を観察していること。
困っているロレーユがいたら、手を差し伸べてあげていること。
朝は早く起きるけれど、あまり意識がはっきりしていないこと。
紅茶には、少し多めに砂糖を入れること。
これからもきっと、どんどんフリッツのことを知っていける。そう思うと、カトリーヌは自然と上を向けるのだ。
「美味しいよ」
「本当に?」
「うん」
カトリーヌも皿に手を伸ばし、自分が作ったクッキーを食べてみる。美味しいのは、きっと自惚れじゃないはずだ。
「それより、明日の準備はもう万全なのかい?」
「……その、まあ、なんとか。原稿はできていますもの」
以前、アウリールが集会を開くと言っていた。
それが明日だ。明日の昼過ぎに、大々的な集会を開くことになっている。
「大騒ぎになるかもしれないね。さすがに、警備隊の数も多いだろうし」
「ええ」
「緊張する?」
「……はい」
大勢の前で話すのは初めてだ。それに明日は、自分が魔法を使えることや、第二王子の罪について話さなければならない。
そして、民衆が自分を支持したくなるように振る舞う必要がある。
わたくしに、そんなことができるのかしら。
「明日は、私も近くにいるから」
大好きな人の微笑みと、優しい言葉。
すごく嬉しいはずなのに、それだけで満足できない自分がいる。
ここにきてから、わたくし、どんどん欲張りになっている気がするわ。
「君なら、きっと大丈夫だよ」
昔のように、名前を呼んでほしい。そう思うのは、カトリーヌの我儘なのだろうか。
◆
「眠れませんか」
部屋の扉が開いて、コップを持ったマリアが入ってくる。マリアと目が合うと、全身から力が抜けていくような気がした。
「ええ。やっぱり、明日のことが不安で」
窓の外はもう暗く、曇っているのか、月すらも見えない。
明日に備えて眠るべきだとは分かっているのに、なかなか眠気がやってこないのだ。
「ホットミルクです。よろしければどうぞ」
「ありがとう。もらうわ」
息で冷ましながら、ホットミルクを飲む。
深呼吸を繰り返すと、少しだけ落ち着くことができた。
「飲み終わったら、横になろうかしら」
今目を閉じても、そのまま眠れるとは思えない。けれどこのまま座っているより、横になって身体を休めた方がいいはずだ。
飲み終わったコップをテーブルへおこうとした時、不意に手が揺れた。
いや、違う。
揺れているのはカトリーヌではなく、床だ。
「地震……!?」
揺れはおさまらない。幸いなことにこの部屋には割れるようなものはないが、外からは大きな物音が聞こえる。
なんとか壁に手をつき、マリアへ手を伸ばした。
◆
ぎゅ、とマリアの手を握ってから、どれくらいの時が経っただろうか。
ようやく揺れがおさまった。
「……大きい地震でしたね」
「ええ。本当に、驚いたわ」
外は大丈夫かと慌てて窓の外を見てみても、暗くて何も分からない。
その時、部屋の扉が大きな音を立てて開いた。
「フリッツ様……!」
「……無事でよかった」
それだけ言うと、すぐにフリッツはカトリーヌへ背を向けた。
「待ってくださいませ、あの……!」
「話は後にして」
礼を言おうとしたところを、焦った声で遮られた。
「フリッツ様?」
「……ここから少し離れた場所に、小さな集落がある。住んでいるのは貧しいロレーユたちばかりなんだ」
フリッツの顔が青い。もう地震はおさまったのに、彼の手は震えている。
「こことは違って、自然豊かなところなんだよ。だから……」
すう、とフリッツは息を吸い込んだ。話をしながら、なんとか冷静さを取り戻そうとしているように見える。
「地震の影響で、土砂崩れが起きるかもしれない」
「えっ!?」
「建物も古いから、壊れたっておかしくない」
「そんな……」
「様子を見に行かないと」
歩き出したフリッツの手を、カトリーヌは慌てて掴んだ。
「危ないところに行ってはいけませんわ!落ち着くまで、ここにいるのが一番ですもの……!」
危ないところに行って、もしフリッツになにかあったら?
考えるだけで恐ろしい。
「危ないから行くんだよ。それが、私たちの役目だから」
「役目……」
「困っているロレーユがいるのなら、放っておくことはできない」
フリッツの瞳は力強く輝いていた。きっと何を言ったところで、彼の意志は揺るがないのだろう。
「兄上!急いでくれ!」
バタバタと足音を立てて、アウリールがやってきた。眠っていたのか、夜着にガウンを羽織っただけの格好である。
「うん。もう行く。……君は、ここを動かないで」
二人の背中が、どんどん遠ざかっていく。
気づけば、カトリーヌは叫んでいた。
「待ってくださいませ!」
二人が同時に振り向く。
「わたくしも行きますわ。土砂崩れが起きそうだって言うなら、きっと、わたくしにできることがありますもの!」
カトリーヌは、土の魔法を使うことができるのだ。
もちろん、土砂崩れを全て止めるような、大きな力はない。けれど些細なことでも、カトリーヌにしかできないことがあるはず。
「……わたくしの魔法が、役に立つはずだわ」
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