第10話 黒髪の美少年
「中、開けてみる?」
カトリーヌの言葉に、マリアが素早く頷く。
茶筒をすりかえ、二人は急いで離れへ戻ってきたのだ。今でも心臓がうるさくて、指先が震えている。
「開けるわよ」
もし、何もなかったらどうしよう。そう思いながら、カトリーヌは茶筒を開けた。
「……紙?」
中に入っていたのは、丸まった羊皮紙だった。茶筒から取り出し、紙を広げてみる。書かれていたのは、複数の人物の名前だ。
「なにかしら、これ」
名前がずらっと書いてあるだけで、他にメッセージのようなものは見当たらない。
「名簿、ですかね?」
「何の?」
マリアは黙り込んで首を傾げた。
名前の書かれた人物に特徴がないかを考えてみるが、よく分からない。男がやや多いが女の名前もあり、規則性を見出すことができないのだ。
「知っている人の名前、ないんですか?」
「わたくしの知り合いの少なさを知って言ってるの?」
「……そうでした」
はずれ姫のカトリーヌは、社交界への参加を許されたことがない。当然、友人どころか、知り合いすらろくにいないのだ。
「でも名前からして、貴族の方もいますよね?」
「ええ、そうね。苗字だけなら聞き覚えのある人もいるし……」
「それに、ただの手土産じゃないことは確かですよね?」
マリアの言う通りだ。
これは第二王子が、茶筒に隠してこっそりとあの商人へ渡したもの。
そんなことをするなんて、後ろ暗い何かがあるに違いない。
「マリア。念のため、いくつか写しを用意してくれる?」
「分かりました」
「明日にでも、これはフリッツ様のところへ持っていきましょう。なにか分かるかもしれないもの」
それにこれを持っていけば、よくやったと褒めてもらえるかもしれない。
「はい。それに、ずっと手元に持っておくのも、少し怖いですしね」
家に帰れば、おそらく商人は茶筒の中身が入れ替わっていたことに気づくだろう。カトリーヌが怪しまれることはないだろうが、不安は取り除いていた方がいい。
「それにしてもあの人、誰なのかしら」
「あの、黒髪の美少年ですよね?」
「ええ。たぶん、わたくしより少し年下くらいの子よね。前に見かけた時は、楽師かと思ったのだけれど……」
ただの楽師だとすれば、それほど長く宮殿に滞在するだろうか。
「客人かもしれませんね」
「そうね」
だとすれば、誰の客人なのだろう。
沈黙が部屋を支配し始めた時、不意に玄関の扉がノックされた。
離れは二階建てだが、カトリーヌたちはいつも一階にいる。宮殿に比べれば狭いところだが、それでもマリア一人で手入れするには広いからだ。
だから、玄関を叩く音はすぐに分かる。
「……こんな時間に?」
いや、こんな時間じゃなくたって、離れを訪ねてくる人なんていない。はずれ姫と親しくしたところで、いいことなんてないから。
けれどノックは止まらない。覚悟を決めて、カトリーヌたちは玄関へ向かった。
◆
ゆっくりと扉を開ける。既に外は暗くなり始めていた。
警戒して、扉を全ては開けない。マリアはカトリーヌの横で、護身用の棒をぎゅっと握り締めた。
「……誰?」
「外は寒いから、中へ入れてくれるとありがたいんだけど」
「貴方は……!」
思わず、扉を全て開けてしまう。そこに立っていたのは、茶筒をくれた少年だったのだ。
「……分かったわ。入って」
カトリーヌ様、とマリアが慌てたような声を上げる。不安な気持ちも分かるが、追い返すわけにもいかないのだ。
彼は、カトリーヌたちが商人の茶筒を入れ替えたことを知っている。
何のために彼がここへきたのかは分からないけれど、無碍に扱うことはできない。
それに、なんだか、悪い人じゃない気がするのよね。
美しい見た目に騙されているだけなのかもしれないけれど……。
少年は優雅に一礼し、離れに足を踏み入れた。
じっと観察すると、少年が着ている服がそれほど上質な品ではないことに気づく。しかしどこか独特な色合いで、異質な雰囲気がある。
「へえ。これが、はずれ姫の家か」
少年は無遠慮に室内を見回して呟いた。
この子、わたくしがはずれ姫だと分かって手を貸したんだわ……!
「悪くないな。ここは静かだ」
「ここは、って……」
「宮殿の中はいつも騒がしい。あんなところじゃ、落ち着いて演奏もできない」
くすっ、と少年は笑った。その表情が妙に艶やかで、ざわざわと心が騒ぐ。
「……貴方はいつも、宮殿にいるの?」
「いることもあるし、いないこともある」
そう答えると、少年は近くの椅子に腰を下ろした。
まるで自分の家にいるみたいに、落ち着いた態度だ。
「なんでさっき、わたくしたちを助けたの?」
「ああ、そのことか。恩を売ろうと思ってな。だからこうやって、わざわざ話をしにきた」
恩を売る?わたくしを、はずれ姫と分かっていながら?
「第二王子の動きが怪しいことには、俺も気づいてた。そして最近、お前たちが第二王子を調べていたことにも。でも、いきなりはずれ姫が第二王子を怪しむなんておかしいだろう」
紫色の瞳が、真っ直ぐにカトリーヌを見つめている。
「何があったのかまでは分からないが、何かあったのは確実だ。そこでとりあえず、恩を売ろうって思ったわけだ。それに俺も、第二王子は嫌いでね」
「恩を売るって……わたくしたちに、何を要求するつもりなの?」
別に、と少年は微笑んだ。そして立ち上がる。
「さあ?まあ、とりあえず今日のところは、第三王子に貸し一つ、ってことで」
「えっ?」
驚いて何も言えないでいる間に、少年は立ち去ってしまった。追いかけるわけにもいかず、遠ざかっていく背中を部屋の中から眺める。
「今、第三王子って、言ってましたよね」
「……ええ。第三王子と、どんな関係なのかしら」
第三王子・クリストフ。母親の身分が低いせいで、宮殿内での地位が最も低い王子だ。
部屋にこもっていることが多く、一部ではひきこもり王子、などと揶揄されている。
「分からないことだらけですね、カトリーヌ様」
「ええ。一つずつ、目の前のことに対処していくしかないわ」
冷たい風が部屋に入ってくる。カトリーヌはそっと溜息を吐いて、静かに扉を閉めた。
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