旅する身延線

増田朋美

旅する身延線

なんだか昼間はものすごく暑いのに、夜になると寒くなって、風邪をひく人が続出しているらしい。それだけではなくて、どこかの国家では戦争が始まってしまったと言うし、全く世の中どこへ向かうんだろうかと、考えてしまわざるを得ない状況だった。そんな中、先の見えない状況で、それに耐えられない人も少なからず居るだろう。その不安を聞いてくれるところはなかなかないというのが現状である。

その日、真島由花子は、失意の中で身延線の富士宮駅に来た。先程というかついさっき、店長からもう来ないでと言われたばかりなのだ。もう何度ももう来ないでと言われるけれど、この仕事でそれを言われてしまうのはびっくりだった。由花子は、一生懸命仕事をしてきたつもりだった。と言っても、もちろんやる内容はホテルの部屋掃除だ。こんな簡単な仕事、どうでもいいじゃないかと思われるかもしれないけど、由花子にとっては大仕事であった。というのは、由花子は精神疾患があって、どれだけ頑張っても、人の半分も働けないのであった。だから一生懸命やろうと思っていた。だけど、今日、もう来なくていいと言われてしまったのなら、もうこれからどうしていけばいいのか、由花子はよくわからないのであった。これからも生きていかなければならないけれど、なんだかもう死んでもいいなと思うのであった。それではいけないという答えも確かにあるが、由花子はこんな世の中だからこそ、自殺を自由化してもらいたいななんて、そういう事を考えてしまったりした。

「ちょっと、そこのお嬢さん。お嬢さんてば!」

と、誰かの声がする。どうせ、私のことではない、もっと身分が高い人のことを言っているのだろうと由花子は思ったが、

「だからあ。お前さんだよ!」

とでかい声で言われて、由花子はハッとした。眼の前に、黒色の麻の葉柄の黒大島の着物を着た、車椅子の男性がそこにいた。着物というと、由花子は、おっかない人なのかと思った。着物なんて、日常生活から離れたものだし、それを着ている人なんて、苦労を知らない大金持ちか、おっかない人くらいしか知らなかった。

「お前さんさ、悪いけど、券売機にこれを入れて、富士駅までの切符を買ってくれ。僕、券売機に手が届かないんだ。」

と、その人は由花子に1000円札を渡した。

「一緒に来たジョチさんが、これを使えば、富士駅行の切符を買えると言うんだがね。今、電話してるんだ。」

彼はそう言って、駅の喫茶スペースを顎で示した。

「わかりました。富士駅までの切符を買えばいいのですね。」

由花子はそう言って、富士駅までの切符を一枚買って、彼に渡した。

「ああ、どうもありがとう。感謝するよ。お前さんは優しいんだね。こうやって歩けないやつに切符買ってくれるんだから。お礼をしたいんだけど、お前さんの名前教えてくれるか。僕の名前は影山杉三で杉ちゃんって言ってね。」

と、彼は言った。なんだか杉ちゃんという言い方は、遠くかけ離れているような、ヤクザの親分みたいな喋り方である。だから、そうやって親しみを込めて言えるような感じではなかった。

「わかりました。あたしの名前は真島由花子です。住所は、富士市平垣本町。」

由花子がそう言うと、

「へえ、割と駅に近いところに住んでるんだな。なんか事情でもあるのか?何ていうの、駅の近くには、そういう訳ありのやつが住むって言うだろう。」

と、杉ちゃんは言った。

「ええ、まあわけありというか、車の運転できなくて、ずっと電車で移動しているから、それで駅の近くに住んでいるんですよ。」

由花子は、杉ちゃんの言う通りに答えると、

「そうか。それじゃあ訳ありだ。もしかして、障害者手帳とか、そういうもの持ってる?」

杉ちゃんに聞かれて由花子はああ、そうねと、小さい声で言った。

「やっぱりそうなんだ。どうりで切符を買ってくれたと思ったよ。だってさ、今の世の中、それは駅員に頼みなよとか言ってさ、逃げちゃうやつばっかりでしょ。大体な、僕の話に応じてくれるのは、ワケアリのやつばっかりなんだ。もう常識だぜ。それで、お前さんはどっから来てどこへ行くんだよ。」

杉ちゃんに言われて、彼女はとても恥ずかしそうな顔をした。

「ええ。まあ、たいしたことないんですけどね。ただ、勤めていたホテルを解雇されて、」

「死のうとしたってわけか?」

由花子がそう言うと、杉ちゃんはすぐに言った。きっと由花子は、その後で、それではだめだとか、命を無駄にするなとか、生きていれば必ずいいことがあるから頑張れとか、聞き飽きた決まり文句を言われるのかなと思ったけど、

「まあ、そういう事を考えても今の世の中は、そうなっても仕方ないよな。僕も、こんなところにほんとにいていいのかなっていう気がしないわけでもないもん。」

と、杉ちゃんが言ったのでまたびっくりする。

「ここにいたんですね。長電話してしまってすみません。外にいるので後で話してくれと言っても、政治家の方は通用しないようですね。全く、こういうふうに何でも自分の思い通りになる職種というのは、困りますね。」

と、前方から右足を引きずりながら立派な綸子の着物を着た男性がやってきた。もう羽織の季節だから、しっかり羽織を着ている。その羽織の背中と両袖と胸には、刺繍で千鳥紋がついているから、どこか立派な家系の方なんだろうなと思う。

「こちらの女性はどなたなのでしょう?」

「ああ、切符の券売機に手が届かないんで、それで代理で買ってもらっただよ。名前は真島由花子さん。富士に住んでるそうだ。」

杉ちゃんがそう答えると、

「ああそうなんですか。杉ちゃんのお話に付き合ってくださってありがとうございました。もうあと20分くらいしたら電車が来ますし、そろそろホームまで行きましょうか。身延線は、一時間に一本とか二本とかもありますしね。僕は、曾我と申します。なぜかみんなには、ジョチさんとか呼ばれてますけど。」

と、千鳥紋の男性はそんな事を言った。

「そんな立派な着物着てらっしゃるのに、ジョチさんはおかしいでしょう?ジョチさんというのは、余分な人とか、そういう意味で使う言葉じゃないですか。」

由花子は、誰かの小説を思い出しながら言った。

「誰かの小説にもそう書いてありましたわ。確か、ジンギスカンを主人公にした小説に。」

「いやあ、小説は大したものじゃないよ。どうせね、ああいう世界はきれいに始まってきれいに終わるように書かれちゃってるでしょ。作家って惨めな人達だから、そうやってきれいに終わるように、なっちゃうのよね。そして、読む人もそれに憧れちゃうから、現実生活に順応できない奴らが出ちゃうわけ。ははは。だから僕は、読み書きはできないけど、それで良いと思ってる。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「とりあえず、ホームへいきましょう。杉ちゃん切符切ってもらってください。」

ジョチさんにそう言われて、あいよと杉ちゃんは言って、急いで改札口へ行き、駅員に切符を切ってもらった。ジョチさんと、由花子は、スイカを自動改札機にタッチして、改札口を出る。幸い富士宮駅には、エレベーターが設置されていたから、杉ちゃんたち三人はエレベーターでホームに降りることができた。駅員に階段下りを手伝ってもらっていたら大変手間がかかっていただろう。駅員は車椅子わたり坂を用意してくれて、電車が来るのを待っていた。それから、数分して、富士駅行の電車がやってきた。杉ちゃんたちは、駅員の車椅子わたり坂を使って、電車に乗った。駅員は富士駅についたら、降ろしてもらえるように連絡しておくと言った。

「杉ちゃんって、良く平気ですね。電車に乗って、恥ずかしくないんですか?そうやってみんなに手伝ってもらって、一人で電車の乗り降りもできないんでしょ?」

由花子は、杉ちゃんにそうきくと、

「いや。そうしなければ電車に乗れないからねえ。良いんじゃない?こういう変なやつがいても。」

杉ちゃんは即答した。

「そうですね。変なやつがいなかったら、世の中余計におかしくなると思います。もしかしたらまた戦闘状態になってしまうかもしれませんよ。変なやつのお陰で平和が保てるということは、忘れてはならないことです。」

ジョチさんもそう言っている。

「そうでしょうか。」

由花子は、申し訳無さそうに言った。

「でも働いていないと、私自身がおかしくなって、犯罪者になってしまうって思うんですけどね。働いていないやつは、居るだけで罪になる。それを解消するには、働いて親にお金を返すことが正しい生き方だって言われたことがありました。それを私はずっと思い続けることで、犯罪を犯さずに済んだという自負心が私にはあります。そうやって自分に自信を持たないことで、私は、犯罪者にならずに済んだんです。だから正しいことなんじゃありませんか。生きているだけで丸儲けとか、そういう事は大嘘です。それよりも、できるだけたくさんお金を作って、親に恩返しすることがいちばん大事なんですよ。」

「そうか。それは誰が言った?」

杉ちゃんはすぐいった。

「ええ、学校の先生です。」

「どこの?」

「高校です。私、藤宮東高校でしたけど、そこで、先生に色々叱られまして。」

杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。

「確かにこの辺りでは昔は名門だったけれど、今は悪い高校のワーストワンに入る高校に変貌していますね。昔の人はいい学校だったと言いますが、今はそうでないとはっきりしておく必要がありますね。」

と、ジョチさんは言った。

「それで、お前さんはどうしてあんな酷いところにはいったの?もし、可能であれば、ちょっと離れた私立高校に通うことだってできたはずだよな?」

杉ちゃんに聞かれて

「そうですね。皆さんそういうんですけど、私の家は、ちょうどその頃、母が体調を崩してまして、それでお金を使わなくちゃ行けなくて、それで藤宮東高校に行くしかなかったんです。もちろん、大学には進学したかったし、家族も、ローンとかそういう事をすればいいからって言ってくれたんですけど、教師はそうじゃなかったみたいで。」

と、由花子は答えた。

「ということはつまり、国立の大学とか、そういう所いけとかでからかわれたのか?どこの学校も同じやな。そうやって他人よりいい学校に入ること以外、幸せになる道はないものだろうかな。それ以外に幸せはあってもいいと思うんだけどね。どうも学校は、そういうところを教えてはくれないよね。」

杉ちゃんは、一つため息を付いた。

「確かに、他の学校の方もそう言っていました。なんでも国立の学校に行かないと、死んでしまうとか、親殺しになるとか、そういう事を吹き込まれてしまうようです。どうして皆さんそうなるんでしょうね。他の学校を倒せとか、うちの学校が一番だとか、そういう事ばかり口走る。」

ジョチさんがにこやかに笑った。

「全くだ。まあ、そういう事は仕方ないと言うか、時代の流れだからねえ。それに理由も分からないで、その事に染まってしまうやつも居るんだよ。そういうときは、他人に引っこ抜いてもらうしかないだよ。でもそういう存在がいてくれなくて、結局、びっしょり着物が濡れちまうやつのほうがいっぱいいるんだ。」

確かに杉ちゃんの言う通りでもあった。霧の中をお坊さんが歩いていて、何かしているわけでもないのに、着物がびっしょり濡れていたという逸話が、書かれていたこともある。人間にはその霧を拭い去る能力は持っていないと言われることも書かれていた。だから、濡れないようにするためには傘が要る。その傘になってくれるのが、人のアドバイスだったり、宗教のお話だったり、色々あるんだけど、やはり、一番大事なのは、身近な人の力だと思う。

「そうですね。昔だったら、それで良いんだとか、そう言ってくれる存在が当たり前のようにありました。ですが、今はそれがありません。代わりにあるのが電話相談とかそういうところですが、それは、使いこなせる人でないとできませんよね。電話相談に申し入れても、電話が通じないこともありますし。」

ジョチさんはそっと言った。

「もし、お前さんが思いを吐き出して、気持ちを整理したいと思うんだったら、そういうのを手伝ってくれる人を知っているから、僕が紹介してもいいよ。それに心が傷ついてつらい思いをしているんだったら、そういうのを癒やしてくれるセラピストの先生を紹介することもできる。そうだよねえ。」

杉ちゃんがジョチさんに目配せすると、ジョチさんはメモ用紙に製鉄所の住所と電話番号を書いた。そして理事長曾我正輝と自分の名前を書いて、彼女に渡す。

「まもなく、終点富士、富士に到着いたします。東海道線をご利用の方はお乗り換えです。本日も身延線をご利用いただきましてありがとうございました。」

と車内アナウンスがはいった。そして電車は富士駅のホームに止まった。やっぱり駅員さんが車椅子わたり坂を持って待っていてくれている。そして電車のドアが開くと、すぐに車椅子わたり坂を用意してくれて、杉ちゃんは車椅子で電車をおりた。ジョチさんも、由花子も電車をおりた。杉ちゃんはありがとうと駅員さんに行って、また車椅子エレベーターで、改札階に上がった。そして、改札口で駅員に切符を渡して改札口を出る。ジョチさんと、由花子はまたスイカをタッチして改札口を出た。

「僕らは北口でタクシーが待ってるんだったよな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「あの、よろしかったら私、お手伝いしますよ。私、まだ時間ありますし、家に帰ったら、きっと仕事がなくなったことで叱られるだけだし。それに、お二人が私の事を、気にかけてくださったから、お礼がしたいんです。」

と由花子は言った。杉ちゃんはそうなんか?と、間延びした声で言った。

「じゃあ、それでは北口まで押して行ってくれ。よろしく頼むぜ。」

杉ちゃんに言われて、由花子は車椅子に手をかけた。そして、車椅子エレベーターに向かって車椅子を押していき、エレベーターの下がるボタンを押した。数分後にエレベーターのドアが開くと、由花子は杉ちゃんの車椅子を押して彼を中に入れた。エレベーターのドアを閉めるのはジョチさんがした。

「悪質な介護タクシー業者に頼むと、エレベーターのボタンを押してもらうだけで、お金を取られることもあるんです。僕らは金持ちでもないのにね。なんか最近は障害者は福祉サービスと銘打って、お金を取られる標的にされているだけみたいですね。」

とジョチさんが苦笑いをしていった。そして、エレベーターが一階に到着して、由花子はまた杉ちゃんを外へ出してあげた。またジョチさんがエレベーターのボタンを押して、ドアを閉めた。

「そんなにお金を取られるんですか?」

思わず由花子はそう言ってしまう。

「はい。そうなんですよ。例えば介護タクシーに乗るとしても、予約料がかかったり、距離製運賃だけではありません。基本介助料がまずかかり、続いて乗り降り介助料、階段の上り下り介助料など様々なものがかかります。特に、東京都では駅が多いから特に悪質です。」

ジョチさんが苦笑いをした。

「そんなに!だって杉ちゃんみたいな人は、お金を持ってないじゃないですか。だって車椅子の方は、働けないでしょう?」

由花子は思わず言ってしまった。

「まあ、介護タクシーで旅行すると、何十万はするな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そんな、だって外国では、そういう乗り物は、ちゃんとできるって、聞いたことがあったわ。それなのに何十万ってどういうことかしら。」

由花子はそう言ってしまう。

「そうなんだね。ありがとう。それなら、さっき言った、お前さんの働いていないやつは罪になるっていう発言、あれ取り消してもらえないだろうかな?」

杉ちゃんに言われて、由花子は思わずぽかんとしてしまった。

「働いていないやつはすべて悪人ていう、変な事を言い含める教師は、非常に困るんだよ。」

「そうですね。本来なら、いろんな人がいて社会です。できる人がいればできない人がいたって当たり前です。だから、片方だけが良くて、もう片方が悪いという考えは、してはいけません。」

ジョチさんもそう言うので由花子は返事に困ってしまった。

「まあ、たしかにさ。それをすることによって、お前さんは確かに悪人にならずに済んできたというのは認める。そのためにお前さんは苦労してきただろう。だけど、こういうふうにどうしても、手伝って貰わなければならない人間もいる。もしな、お前さんを陥れた教師が言うことが正しければ、僕たちは外に出てはいけないことになる。それに、お前さんはさっきのお金を取られることをおかしいと思ってくれて、当たり前だと思ってくれなかったね。だったらまだ、正常だ。もし、できるやつだけ全部いいってなっちまったら、それこそ世の中おかしくなるよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「そうね、、、。私、なんだか皆さんにすごく失礼なこと言ってしまったようね。」

由花子は申し訳無さそうに言うと、

「ええ。だけど、失礼なことではなくなりつつあるよなあ。」

「そうですね。僕たちは、ここにいてはいけないような。」

杉ちゃんとジョチさんは大きなため息を付いて顔を見合わせた。

「今日は本当にごめんなさい。私、また新しい仕事を見つけて頑張ります。なんか一期一会だけど、話ができてよかったわ。ありがたいことです。感謝するわね。」

と、由花子は杉ちゃんたちに頭を下げた。それと同時に、目の前にワゴンタイプのタクシーが一台到着した。これが杉ちゃんたちが待っていたタクシーだろう。

「じゃあまたね!」

「相談があったらお電話くださいね。」

杉ちゃんとジョチさんはそう言って、介護タクシーの方へ向かっていった。由花子は、今日はなんだか良いことがあったなと小さな声で呟いて、これから家族に叱られても良いやという気持ちで、自宅へ向かって歩いていった。何をすればいいか分からなかったけど、きっといつかわかる日が来るだろう。

もう秋も深まっていた。空は鮮やかな夕焼けである。明日もきっと晴れる、そんな事を由花子は考えていた。



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旅する身延線 増田朋美 @masubuchi4996

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