第17話「犬を飼うことになった」
◇
車を爆走させ、あっという間に暗くなった午後六時の閉まった病院へ向かう。
軽とはいえさすが自動車、昨日は病院から家まで帰るのに十数分はかかったが今日は一瞬だった。
電話の指示のもと、裏口に車を止めて降りる。すると、それを外で待っていたのかすぐに看護師が歩いてきて俺たちのほうへ近づいてきた。
「お待ちしておりました。栗花落さんと……」
頭を下げて、手を病院のほうへ開きながら名前を言おうとする看護師は栗花落の次に俺のほうを見つめる。
しかし、特に名前を呼ぶ様子もない。
何かと思っていると言葉を詰まらせながら、苦渋の顔でこう言った。
「……も、も……なんとか……すみません。お名前はなんでしたっけ……?」
「っ……」
苦笑い。
俺も看護師さんも。
いやはや、仕方ない。
これは仕方のない事なんだ、そう唇をかみしめながら頭をポリポリ掻きながら呟いた。
「も、藻岩ですっ。その、お疲れ様です」
「藻岩さんっ‼‼ そ、そうでしたね……ほんとにごめんなさい! 昨日からずっと手術の助手とで忙しくて……申し訳ございません‼‼」
ぶるんぶるんとそんな擬音が浮かんでくるほど、あわや首がもぎとれる勢いで上下する頭の前で俺はもう苦笑いするしかなかった。
「あははは、いえいえ僕も影薄いので……よく忘れられることありますから」
「っ……す、すみません」
「せ、せんぱい……」
まぁまぁ、と肩に手を置き励ます姿はそれはもうみっともなかっただろうか、後ろからジト目で見つめてくる栗花落が容易に想像できる。
最近まで俺にとって知り合いと話すことしかなかったからか忘れていたが思えば、大学に進学してから名前なんか憶えられたためしがなかった。
研究室では飲み会に参加するたびに席の端っこでちびちび飲むだけで教授しか話をしてくれる人はいず、学界でもどんな発見をしていい発表をしたとしても付き添いで来ていた後輩が「藻岩さん、あの発表すばらしかったですよ!!」なんて言われることばかり。
最初は悪そうに頭をぺこぺこしていた後輩もいつの間にかそんな俺のみっともない背中にぷくぷくと頬を膨らませ始めていたし。
なんなら俺の後輩だって、名前覚えるの数か月以上かかったし!
あぁ、くそ!!
未練未練なんて言って次の恋愛しなかったのが裏目に出たあの大学時代をタイムスリップでもしてやり直したい。
久遠から毎日のように女の自慢話言われる俺の身にもなってくれ!!
リア充、爆発しやがれ。
……って、高校生まではそうだったか俺は。
外見が普通オブ普通だと自重しているから別にいいんだが、まぁでも心に来るし、今度久遠に聞いておしゃれにでもしてもらうのもありかもしれない。
目の前で申し訳なさそうにする看護師のお姉さんが少しかわいそうだったので俺はすぐに話を変えた。
「あの、それで子犬のほうは?」
「あ、はいっ! そうですね、こちらにいますのでお入りください!」
すると、すぐにぱっと顔を明るくさせて俺たちを中へと案内する看護師さん。それを見ると、栗花落がぼそっと俺に言う。
「看護師さんって動物病院も忙しいんですね……」
「あぁ、年中ずっと働いているのは尊敬するよな」
「にしても……先輩、名前忘れられるとはっ」
「お、おい、笑うな」
「なんだか、すっかり変わってて……なんだか、ちょっとだけ安心しましたね」
「安心?」
「いえ、なんでもありません。早く行きましょうっ」
「お、おぉ、ちょっと待て」
くすりと笑身を見せ、俺を置いて小走りで看護師さんの後をついていく。
その背中はなぜだか、あの日見ていた彼女の背中と重なった。
◇
「ワンッワンッ!」
靴を脱ぎ、スタッフ専用のサンダルに履き替えて、案内されるがままに入っていく。
すると、場所は診察室だった。
「あの、診察室なんですか?」
「はいっ。今回はそこまで重症でもなかったので、一応ワクチンを打って、栄養剤を打つだけでなんとかなりましたね。ほら、あそこですよ」
俺が尋ねるとなんだか嬉しそうに答えてくれる名前を忘れた看護師さん。
手で指し示すと俺と栗花落の視界に入ったのは昨日拾った時とは見違えたように獣医さんの腕の中で尻尾を振りながら元気に吠える可愛い子犬だった。
「うぉ」
「わっ」
思わず声が漏れると、獣医さんが笑みを見せながらその場を立って栗花落に子犬を渡そうと近づいてきた。
「抱いてみますか?」
「え、い、いいんですか! あ、でも、えっとこういうのはどうやって」
「こうやって、お尻を支えながら……あと胸もしっかり支えてこうっ、はいっ! いいですね!」
「わ、わぁ」
獣医さんがあたふたと慌てる栗花落に子犬を渡すと、まるで飼い主でも見つけたかのような満面の笑みを浮かべる子犬。
バシバシと控えめな胸にあたる尻尾を意にも返さず、その頭をそっと撫でる彼女の姿は体についた汚れを洗い流す如しだった。
「おぉ、元気だな」
「は、はいっ! この子、ほんとに拾った子なんですかね」
「見違えてるなぁ……」
「す、すごいです!」
そんな子犬に笑顔が止まらない俺らに対して獣医さんも笑みを浮かべながらこう言った。
「可愛いですよね。私も中々見ないですね、今まで急患で連れてこられた動物ってすぐに元気にとはいきませんから。今回は奇跡だったかもしれませんよ」
「そ、そんなに」
「えぇ。まあまだこの子は子犬だってこともあるかもしれませんね」
「やっぱり子供ってすごいんですかね」
「子供の底なしの体力は恐ろしいですよ」
今なら分かる子供、少なくとも高校生までの底なしの体力の凄さ。持久走とかシャトルランとかではない簡単に言葉には表せない元気の恐ろしさは俺もよく分かる。
最近は全く持って動かないこの足があの頃はすいすいと軽かったことが最もその理由だ。
「んふふ、ママだよ~~」
「いつからママになったんだよ」
子犬の頭をなでながら冗談まじりにそんなことを言っている栗花落を見つめつつ、ツッコミを入れると、あまり見せない笑みを向けた。
「なんだか可愛くて……うへへ、仕事の疲れが吹っ飛びますね!」
これまたとても嬉しそうな表情を浮かべる彼女を見て、俺も少し癒される。
元カノとか、色々とあったけど、やはりこうしてみると一人の女性としてとてもかわいらしい。昔よりも大人びたとは思っていたけど、根の部分はまだ変わっていないのかもしれない。
「にしても、私がママってなると少し変ですね。ママなんてないない」
「それだと俺がまるでパパみたいだしな」
「そうですね~~先輩がパパなんておかしなはな……えっ⁉」
ノリツッコミでもしようと思ったのかと思わせるほどの切り替えしようだった。
狙って言ったわけではない、ただ俺の何気ない一言に彼女はと言うと素っ頓狂な声をあげて、真っ白だった肌をぼわっと赤くしていた。
「っ分かりやすいな、栗花落は」
「べ、別に……何も思ってないですよ」
「顔が真っ赤だけど?」
「……ず、ずるいですよ」
これまた真っ赤な顔を見せる彼女。
今は犬を抱いているせいか、背中を向けることでしか隠すことはできなかった。
そんな中、獣医さんが呟く。
「あの、お付き合いとかはされてるんですか?」
「えっ」
あまりにもいきなりで声すら出なかったようだ。
さすがにこれ以上いじめるのはかわいそうで俺はすぐに言い返した。
「付き合ってないですよ。まぁ色々ありまして……後輩、ですかね?」
獣医さんから見ればさぞおかしかったであろう俺と栗花落の動揺具合を割り込んで包み隠す。そんな動きに察しがあったのか視線を逸らして苦笑いをした。
「……あ、すみません。てっきり」
◇
そして、犬を抱いてから落ち着いた後、獣医さんは真面目な顔で尋ねてきた。
「そういえば、この子はどうしますか?」
当然の質問だった。
誰か拾ってくださいと書いていて、満身創痍だったからこそここまで持ってきたがだからと言ってこのまま戻すわけにもいかない。一番無難なのは拾った俺たちが飼うことだったが生憎と俺と栗花落を取り巻く状況は少し複雑だ。
現状、俺の家はペットも飼っていいことになっているためできなくはないが……。
「私、持って帰ります!」
悩んでいる俺に対して、犬を抱いたままの栗花落は即答だった。
「栗花落が飼うのか?」
「はい、さすがに置いていくわけにもいかないですし……それに、私が見つけてしまったので責任は取ります」
「でも言うなら俺も――」
「これでも三年以上社会人しているんですよ、先輩」
控えめな胸を突き出す彼女。
まぁ言っていることは最もだったが、俺も片足突っ込んでしまった以上は見過ごすことはできない。
「一応、こちらの方でも預かることはできますけども……お二人は家の方とか、大丈夫そうですかね?」
すると、獣医さんの質問に栗花落は何か思い出したかのように声を出した。
「あ」
「ん、どうした?」
「え、あぁ、いや……その……だ、大丈夫です」
「の割に動揺してるけど?」
「……うっ。すみません、先輩……私のマンション、ぺ、ペットダメでした」
「やっぱりな」
こう言った一時のテンションに流されるのは昔の彼女らしいが、そこは非常に重要だった。
「となると……やっぱり?」
そう言う反応をするのは普通だろうが、とはいえ俺も愛着がないとは言えない。
やっとこの前、言えなかったことを言えた。
ここでまた見放しては、何もない。
「俺が持ち帰ります」
「え、先輩?」
「いいんだよ。うちは飼えるし、最悪近くの親父とお袋呼べばいいからな」
「でも……」
「大丈夫」
「そんなこと! お金、とかもありますし……何より私が拾ってしまったからには」
「でも、飼えないと意味ないだろ? それに嘘ついて飼ってもバレたらその後が大変だしな」
「……せ、せめてお金だけは、私に払わせてください!」
「いいよ、言っても女性だ。俺もたまには」
軽い気持ちだった。
お金に余裕はある。今まで遊ばずに溜めてきた使われるわけもなかったお金を可愛い子犬を育てるのに使えるのは本望だ。
そういう意味で言ったが彼女は真面目に呟いた。
「だめです。そんなの……私も払います、いえ、仕事帰りにでも、休日にでも面倒見に行きます、絶対に」
表情を硬くし、俺の目を見つめる瞳。
「……もう無責任なこと、私はできませんよ。先輩には色々とご迷惑掛けるんです。私はもう……逃げたくないんです」
くだらない昔の未練だとか、後悔だとかをぬぐったかのような決意を固めた潤んだ目で抱いた子犬を再び見つめる。
「いいですか、先輩」
俺は否定することなどできなかった。
◇
そう、吐露しかしていない。
私にはもう一つ、先輩に言っていない逃げているものがあった。
あとがき
遅くなりました。
申し訳ないです。
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