第2話「幻想(修正済み)」


 しかし、それは幻想まやかしに過ぎなかった。


 一度止まった針はもう動かないのと同様に、一度壊し、傷つけてしまっている以上その事実は変わらない。


 人生と言うものは難しい。

 相手の気持ちを考えないものには未来などない。

 自分よがりでその関係は長く続くわけがない。


 俺が思うように、たかだかが謝った程度でそう簡単に物事が進むわけがなかった。


 涙を一滴垂らした彼女は、掴んだ手を振り解いた。


「で……あぁ、いや」


 そう言う口元がきゅっと縛られていた。

 やってしまった。そう思った。


「なんでもないよ。じゃあ俺はその、座って待ってるから」

「……はい」


 情けねぇ。

 みっともねぇ。

 俺のほうが先輩だっていうのに。

 何にも言えずに、引き留めたはずの手を離してしまう。


 昔引っ張っていた彼女の手がするりと抜けていくように、いつの間にか俺を追い越していた。


 取り残されていたのは俺だけで、何もかも遅れていて。

 胸が痛い。


 弱い、弱すぎる。


 ただただ、俺が取り残されていた――ただそれだけ。


 何のおかしいこともなかった。


 しかし、それが故に痛みは一層に酷かった。






 そうして始まった家政婦のサービス。

 そこら中に散らかしていた服をすべて洗濯物籠に入れて、脱衣所にあるドラム式洗濯機脳へ向かう元カノ。


 そんな元カノの仕事をする姿をソファーに座ったままの俺はじっと目で追っていた。


 何もしていない俺に対して、家政婦の彼女はせっせと働いている。

 なんだかいたたまれなくて俺も何か手伝ったほうがいいかとも思ったがこれはあくまで仕事。お金が絡んでいるが故に手伝うのはナンセンスだろう。


 この空間は特になんのおかしいことはない。

 そう自分に言い聞かせていた。

 

 ただ掃除している家政婦の人とその依頼者がいるだけである。


 だが、この状況は異質そのもの。

 元カレ、元カノ、昔の恋人関係が二人きり。

 

 きっとこういう時、久遠くおんなら昔の恋人相手にでも臆することなく話しかけられるのだろう。

 適当に話しかけてなんやかんやで帰らせない口実をつけて、そのまま夜まで、そしてワンナイトを経て翌日に駅まで送る――的な陽キャヤリチンムーブをするのだろうが俺はそこまで楽観的な性格ではない。


 性格なんか関係なくとも、誰とでもヤリたい人間でもないが俺は俺で、だ。


 スマホを見てから机にスマホを戻して。

 気になってまた電源をつけて。 

 そして戻して……この無限ループ。

 自分でもどうかしてると分かる行動だったがやめられずにいる。


 静寂に包まれる。

 1LDKのそこそこ広めな部屋は不自然なくらいに静かだった。


 フローリングの木の板を踏みつけると鳴る軋む音。

 冷蔵庫から鳴るコンプレッサーの音。

 窓に吹き付けるそよ風の圧迫音。

 そして、 俺の吐息、元カノの吐息。


 今まで気にも留めなかった音が今ではうるさいほどに聞こえてくる。

 

 このままではどうにかなってしまいそうで、買い物にでも行くのもありかもしれない。

 何か買ってなかったものとかその辺はなかっただろうか。

 今日の夜ご飯、どうしよう。

 久々に自炊とかもありかな。

 あぁ、クリスピージンジャーポークでも作るか。


「あの、藻岩さん。柔軟剤とかなかったのですが何か入れたほうがよろしいでしょうか?」


 そんな葛藤の渦中にいる俺を前に彼女はさっき見せた表情なんて嘘だったかのようだった。


 十分ほど静かだった空間で十分ぶりの話声が聞こえる。

 驚きながら、それに安心した自分がいた。 


「えっ。あぁ……と、そうですね」


 安堵と若干の気まずさの中、答えようとすると目に入る彼女の姿。

 何も恰好とかがおかしかったわけではない。


 むしろはそれは普通だった。

 恰好とか身なりとかではなく。

 持っているものだった。


 さっきまであった安堵感がすっと引いてなくなり、気まずさがぞわりと湧いてくる。


 なぜなら、その腕の中に俺が洗濯機の上に置きっぱなしにしていたがあったからだ。


 だ。

 そう、男なら履いている人も多いであろう


 ちなみに俺はボクサーパンツ派だ。トランクスを一時期履いていたこともあったがあれはスポーツをするとちと痛くなる。色々と巻き込むしな。


 ――って、馬鹿か俺は。

 そんなこと考えてる場合か。

 元カノが元カレのボクサーパンツを持っているんだぞ。

 

 いやまぁ、家政婦ことり依頼者おれの服の一部を持っているのはそれはそれで別に業務上おかしい事なんかないのだが。


 関係性がややこしいためか、おかしく感じた。


「あの……聞いてます?」

「え、あ――すみません。ちょっと考え事を……それでどうしますかね、そのままでもいいんですけど。うちにはありませんし」


 考えていないことを思ってもみないタイミングで尋ねられる。


「一応私の方でも弊社のものを持ってきているのですが……無料で使えますので、どうしますかね?」


 柔軟剤か。

 思えば実家を出て大学で一人暮らしをしてからは気にしたこともなかった。


「あの、柔軟剤って普通は入れるんですかね」

「え、んと……そうですね。大抵は入れますね」

「じゃあ、お願いしますっ」


 そんな胸に抱いた特大の気まずさの中答えると彼女はこくりと頷き、持ってきていたトートバックから柔軟剤の容器を取り出し洗濯機のほうへ戻っていった。






「……」


 後ろ姿、小さい背中が見える。


「っふ」


 掃除機をかけるために腰を折り曲げたり。


「っほ」


 テーブルやキッチンをふくために力を入れたり。


「っくぅ~~」


 冷蔵庫とシンクの間のごみを取るために手を伸ばしたり。


 そんな元カノの姿を見るのはいろいろな意味であまりにも気まずすぎたので結局俺は家から飛び出した。


「さすがに……耐えられん、あれは」


 わがままかもしれないが複雑なのに、複雑な気持ちにさせないでほしい。

 というか、俺のこと考えなさすぎだ。


 元カレがあんな姿見るには適さない。


 それに。どうやら家政婦さんが家にいる間はこうして外出をしてもいいらしい。

 なんならそのプランもあるらしい。


 だったら最初からそのプランにしておけばいい話なのかもしれないが誰が考えよう。


 —―なんて。

 それも昔の面影も薄れるほどに垢ぬけた元カノだったなんて。


 そんなの分かるわけがない。

 それに、昔よりもこじれた関係性だ。


 俺だけが置いてかれている。


「まぁでも、こればっかりは考えても仕方ないな」


 何もかも吹っ切れていた。

 俺と再会して驚き涙を流していたが、気にするなと言うのだから。

 これ以上近づくのはむしろ、彼女にとって嫌なことでしかないだろう。


「……チェンジしてもらうのもなんかな」


 いっそ、これならば俺が依頼者としてお金を払って給料の足しにでもしてもらうしかない。


 これ以上元カレの俺が彼女の新しい人生に絡むのはヤワな話だった、それだけだ。

 

「だな」

「あの、お客様? 何かお探しですか?」

「え、あっ、はいっ!」


 今日二回目の唐突な質問。

 話しかけてきたのは勿論元カノではなく、家から少し離れた場所にあるあまり来たことがない生活雑貨や食物が売っているお店のおばちゃん店員だった。


「えと、トイレ用の洗剤とお米も……」

「そうでしたか、それでしたらこちらに」

「—―あ、あと。もう一つ」


 そういえば、必要なものが一つあった。


「柔軟剤もお願いします」

 








「ボクサーパンツ……」


 手のひらの上にあるそれを見つめている私がいた。








あとがき

 読んでいただきありがとうございます。

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