第1話「なぜ君が(修正済み)」


 焦った。

 というよりも、目を疑った。


 目の前に広がる光景に、何より俺の目の前にいる女性に。


 地味子の象徴だった黒いボブカットはいつの間にか、ウェーブがかった亜栗色のポニーテールになり。

 素しかみたことがない色白な肌にはファンデーションが塗られている。

 唇には淡い赤色のリップが薄く塗られていて、目元にも煌びやかなチークが控えめに輝いている。

 服装は動きやすいスキニージーンズに胸の起伏が目立つ中に入れた真っ白なTシャツ、そしてそれを覆うエプロンと特別感はなかったがどこか昔とは違う自信と落ち着きに満ちた大人の余裕なものを感じる。


 一言でいうなら別人だった。


 ただ一つ、面影があった。


 何気ない、目元にある涙のようなほくろが昔の彼女だと連想させる。


 それだけで、本当に彼女だと分かった。

 彼女と別れてから、何よりまともに恋愛などできなかったんだ。未練も後悔もありありで、忘れられるわけがなかったその相手を今更俺が忘れることができようか。


 —―否。


 栗花落ことり。

 何を隠そう、俺が可笑しなノリで付き合い始めて、己の怠慢さで終わった初めての彼女であり、最後の彼女でもある。


 地味で、純粋で、健気だった――あの子だった。

 そんな彼女が目の前に立っていて、俺は言葉を失った。


「……っ」


 目が離せない。

 まるで、世界の終わりでも見つめているかのような気分だった。

 何か話さなくちゃ、視線を変えなきゃ、仕事で来てるんだ掃除してもらおう、期待なんかするなたまたまなんだ――と。


 頭の中に浮かび上がる選択肢の数々がどんどんと鼓動を増やしていく。


 しかし、明確な選択肢一つが胸の内に存在する動揺をかき分けて浮かび上がってくる。


 もう一度会えるのならば、言っておきたかったこともあった。

 あの時、少しでも早く気づけていたら解決したんじゃないかと思ったこともあった。

 何より、走り去っていく雨に濡れたあの背中を抱きしめられたのなら何か変わったんじゃないかって思っていた。


 ――そんな思いを晴らす。

 これは限りない機会チャンスだった。



 そう思ったんだ。

 



 —―だが、目の前のあまりにも非現実的な状況に俺は動くこともできなかった。

 



 怠慢さはいつになっても変わらない、情けない自分に対して虫唾が走った。






 しかし、彼女はいたって冷静だった。

 目が合って数秒の間、同じように目を合わせて離さなかったが俺が少したじろくと何かに気づかされたかのように呟いた。


「っお、お邪魔します」


 ぺこりと挨拶をしながら頭を下げたのだ。 

 俺は虚を突かれた気分だった。


 え、今この状況でそうするか?


 と疑問というか、驚きと言うか、色々混じり混じった言葉が浮かぶ。

 ただ、その行動は普通だ。


 もし、俺がこの立場にいたのならそうするであろう。

 相手はただの仕事相手だ。ここで逃げかえるようなことをすればその時点でプロ失格。たとえ目の前に異質な存在イレギュラーが現れても受けた仕事は全うするのが義務だ。


「っは、はい」


 焦って声が裏返る。

 みっともなさと言えば、これいかに。

 己の阿保さ加減を呪いたい。

 いやはや、これでもセンター物理は九割超えてるんだぞ!


 なんて、猫の手も借りたいならぬアインシュタインの手も借りたい場面でたじろきながらも俺は玄関で靴を脱ぐ彼女を背中にして待っていた。


 ちらりと振り返ると、彼女は脱いだ靴を律儀に揃えている。

 横には汚く無造作に脱ぎ捨ててある俺の靴が並んでいた。


 思えば、初めて二人でカラオケに入ったときもソファーに俺が脱ぎ捨てた上着を埃を払いながらかけていたっけ。

 相変わらず律儀な人だ。


「こちらに、なります」


 って、何物思いに耽ってんだ。

 仕事で来たとはいえ、元カノがいるんだぞ目の前に。


 生憎と俺はこういう時にどうしたらいいかなど持ち合わせていなかった。


 普段通り動かない体をぎこちなくても動かして、彼女をリビングまで案内する。

 見れば散らかり具合は酷かった。


 十畳一間にダイニングキッチン、寝室つきの1LDK。

 都内なら月数十万はかかるであろう部屋に服や物、友達が来て引っ張り出してきたゲーム機が杜撰ずさんにもあちこちに広がっていた。


 勿論、ロボット掃除機を動かしているので地面に何もないがその代わりに、上が散らかっていた。洗濯機に入れていない服がソファーとテーブルの上に脱ぎっぱなしで放置されている。


 加齢臭が出る年齢でもないおかげで匂いはとくないが、視界は最悪だった。


 そんな汚い部屋を見て、ことりは一言呟いた。


「……あの」


「は、はい⁉」


 またしても声が裏返る。

 何を言われるのか。

 彼女の行動一つ一つが俺の心臓を つっついてくる。

 

「業務内容について、確認してもいいですか?」


 ソファーには座らない。

 廊下から出て、リビングに入ってすぐで立ち止まり振り返る。


 ピりついた空気を意にも留めない冷静である意味冷淡な顔をしながら、淡々と持っていたバックからファイルを取り出した。


 何ら変わらない、社会人ならよくありうる業務。

 一年前に買ったハイブリット車のディーラーでもこんな感じだったと今更なぜか思い出した。


「は、はいっ。あり、がとうございます……」

「はい、それではこちらのページをご覧ください」


 慣れた手つきでファイルから冊子を取り出して、目の前で広げる。

 手には指輪はない。

 もしかしたら、外しているのかもしれない。


「まずは業務内容の確認です。当社は家政婦宅配サービスであり、月一回のプランから週五回までのコースが存在します」

「……っはい」


 聞き馴染みがある声音。

 しかし、どこか落ち着いているようで身なりと共に大分大人になったと感じる。

 何なら普通の話し方だった。

 特に変わらない。

 普段通り、マニュアル通り、俺が大学に半導体技術についての講演をしに行った時のような淡々としている。


 綺麗だと思うと同時に……何もしてやれない小物な自分がそこにいて、胸が痛い。


「っお客様は、初めてのようですのでまずは様子を見て決めてもらう形となっております」

「……はい」


 冊子を指差し、たまには俺の目を見つめるような視線を感じる。

 当然、部屋に入ってもらってからというもの、俺は視線を一度も合わせていない。

 

「今日の業務から週一回で来月までの半額体験プランを経て、来月の頭から弊社の予約サイトから決めることが出来ますのでよろしくお願い致します」


 淡々と話す中でも、呼吸の乱れは感じた。

 しんと静まり返った静寂な部屋で彼女の息遣いと声だけが響いていく。


 一体、どんな感情で話しているのだろうか。


 それだけが気になった。

 俺がどきどきしているのに、彼女が何も思わないわけもない。

 もしもこれが業務でもなかったら、きっとあの時のように一目見て控えしているのだろうと考えが及ぶ。


 気づいている。

 言うべきだろう。

 きっと、言うべきなんだろう。


「それでは、まず……具体的な内容として掃除しなくていい場所やしてほしくないことなどありますでしょうか?」

「特に……ないです」


 後輩もできた。

 社会人になった。

 研究成果も散々発表して、荒波に揉まれてきた。


 俺にできないことなどないはずだ。

 

 彼女とはどう足掻いてもうまくはいかない。でもあの時の落とし前をつけられるのなら言うべきだ。


「承知いたしました。それでは既定の通り、部屋の片づけ、掃除、洗面台やシンクなどの清掃、洗濯物などについて行いますのでよろしくお願いいたします」


 胸が痛いのを払拭したい。

 このむず痒さと、喉元まで出かかった気持ち悪さを消し去りたい。


「それでは、保障や具体的なことについては十ページよりあとに記載してありますので。こちらを追って確認をよろしくお願いいたします」


 広げていた書類をファイルにしまい、バックにしまう。

 持ってきていたエプロンを首に下げ、立ち上がった。


 言うなら今だ。

 言わなければ、絶対になぁなぁになることは間違えなかった。


 震える指でズボンを固く握りしめる。

 


 決着を、あの時の続きを、やるなら今だ。

 これ以上はない。

  

 俺も、何より彼女自身。

 未練など残したくはない。


 —―そして、俺はその一心で彼女の手を掴んだ。


「……こと、いや栗花落さん」


 離れていく、華奢で細い体を引き留める。

 温もりなど感じなかった。

 そんなのお門違いだ。


 でも、そんな俺に対して……彼女はまるで、待っていたかのように。





 涙を頬に一滴ぽつりと垂らしながら、振り返る。





 目が合う。

 あの日、彩ることを忘れた日々がほんの一瞬だけ色づいたそんな気がした。








 




あとがき

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