第3話 上屋敷緋色は欠けている

 時間感覚はとっくの昔に消えていた。

 生き返れば身体は黄泉国への突入時にリセットされる。緋色は睡眠も食事も取らないで、ひたすら魔物と戦い、殺され続けていた。


 いくら死亡志願者だろうが、気が狂っても不思議ではない過酷な繰り返し。

 けれど緋色は至って正気だった。


「──狂ってんなあ、お嬢ちゃん!」

「失礼だな」


 声が話しかけてくるのにも慣れた。

 緋色は思考の中心で今回の死因を反省し、片手間に声と会話する。


「見ての通り、私は正気だよ」

「正気だから狂ってんだよ。ここに閉じ込められた奴らはな、ほとんどが正気を失って、死にたいって欲求も消え失せるんだ」

「それも妙な話だね。死にたいとすら思えないなら、生きたいとも思わないだろうに」


 とうに本音は知られている。取り繕う必要もないから偽りを述べることはない。

 緋色がほとんど何も考えずに告げた意見──つまりは緋色の思考回路そのものを耳にして、声は笑った。


「くっ──くく、くくくくく! そうか、お嬢ちゃんはそう考えるのか」

「何か妙なことでも?」

「自覚がないってのがなおいいねえ。いいか、お嬢ちゃん。生物の根底は生存欲求だ」


 声は語る。

 上屋敷緋色という人間の欠落を突きつける。


「人も魔物も、生きている限り生を望む。自殺志願者ってのは、理性が本能を壊しちまっただけだ。理性が剥がれれば、死にたいなんて考えもしない」

「……つまり?」

「お嬢ちゃんには、本能がない」


 声はそれきり黙りこくる。

 緋色は特に何も感じることなく、魔物を探し始めた。



 力不足を実感して以来、緋色は魔薬剤を使わなくなっていた。

 死ねばリセットされるのだから、肉体そのものを鍛える術はない。となると技術を底上げする以外に自己強化の手段はなく、力頼りができてしまうようになるドーピングはかえって邪魔だったのだ。


 双剣が踊る。魔物の肉と血が飛び散る。

 緋色は返り血まみれになりながらも、ここまで一撃たりと受けていなかった。


 余計な思考は行わない。ただ、目の前の魔物を斬ることだけに集中する。

 斬って、斬って、斬って、ひたすら斬り続けて、波を凌げば前に進んで。やがて、緋色は微かに見覚えのある景色の中に辿り着いた。


「……浅層、かな」


 久々に呟くと、喉の渇きを覚えた。一瞬、自分に何が起きているのか把握できなかったほどに久しい身体の感覚だった。


 ちょっとは成長できたのだろうか。

 莫大な回数の死と生き返りを積み重ねたにしては呑気な感想を抱いて、さらに進む。


 近くから聞こえる魔物の呼吸音。

 以前は反響に妨げられて正確な位置までは掴めなかったが、今なら距離も把握できる。

 

 双剣を握る。呼吸と共に魔素を巡らせて身体を強化。

 視認と同時に魔物の眼前へ躍り出て、眼球を裂き、首を断とうとした一秒の猶予で、魔物の首が飛んでいた。


「──っ、誰?」


 一瞬の出来事だ。その場では知覚できなかったが、壁に縫い止められた首を見れば攻撃の正体は知れる。

 飛んできたのは大型のダガー。明らかに人間の手によるものだった。


「……やっと、見つけた」


 遠くから聞こえるのは女の声。

 顔も知れぬ女は切羽詰まった声で緋色を呼ぶ。


「お願いします! あたしが行くまでそこから動かないでください、上屋敷さん!」

「……え?」


 どうしてお互いの顔も見えていないのに、自分の名を知っているのか。

 さしもの緋色もこの事態には硬直する。その間に足音はどんどん近付いてきて、同時に迷宮意思の声も響いた。


「おお、姫宮ひめみやじゃねえか! まだ生きてたとはな!」

「黙れ死神! あたしをその名前で呼ぶな!」


 明らかに迷宮意思へ返した言葉。

 やはりこの声は幻聴の類ではないらしい、と混乱に陥っている緋色の脳はぼんやり考えていた。


 凄まじい速度で女はやってくる。

 顔が見える距離まで近付くのに必要だった時間は、わずか十五秒。


 見覚えのある顔だった。

 この迷宮に閉じ込められる前、最後に見た人間の顔だ。思い出すのは早かった。


「確か、黄泉国の探索者の」

「はい。あの時はお世話になりました」


 ぺこりと頭を下げる女。歳の頃は二十代前半だが、纏う空気は歴戦の武人そのものだった。

 女は顔を上げると、名を告げる。


「姫宮イズル。イズルって呼んでください。……あなたと同じ、死に損ないです」

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