ぱたぱた…と足音がして、五十代くらいの女性が顔を出す。

 伯父さんの奥さんだった。

 伯父さんの奥さんは僕を見るなり、「あら!」と口元を押さえた。

「ミヤビ君じゃないの! 帰ってたのね!」

「…いや」

「ちょうどよかった。今、荷物の整理をしてたところなのよ」

 ちょっと、タイミングが悪かっただろうか…?

「あなた! ミヤビ君が帰ってきたわよー!」

 奥さんはそう言って、部屋の奥に呼び掛けた。

 少し小走りの足音が聞こえ、僕たちの前に伯父さんが現れる。伯父さんもまた、僕を見るなり「あ!」と驚いた声を上げた。

「ミヤビ君! 帰ってきてたのか!」

「…はい。日帰りですけど…」

「この前はどうしたんだ! 急に電話が繋がらなくなるし…、そのあと、音沙汰ないし…」

「すみません、スマホの調子が悪くて…」

 スマホは壊したきりで、買い替えてはいなかった。

「まあいいや、とにかくあがりなさい。おばあちゃんにお線香をあげに来たんだろう?」

 伯父さんはそういうと、奥さんと一緒に一歩下がって、僕が上がれる分のスペースを開けた。

 僕が靴を脱ごうとしたその時、初めて背後の紗枝について聞いてきた。

「それで、君の後ろの女の子は?」

「あ、ああ…」

 少し悩んでから頷く。

「僕の彼女です」

 その言葉に、紗枝が頬を赤らめる。と同時に、色恋沙汰に目がない奥さんが声を上げた。

「あら、彼女さんと一緒にお参りに? ミヤビ君も大人になったねえ」

「まあ、はい」

「これで天国のおばあちゃんも報われるわね」

「…………」

 その言葉に、何か思うところがあって、僕は聞いた。

「どういうこと、ですか?」

 奥さんは困ったように笑った。

「ミヤビ君が大学に行っている間ね、おばあちゃん、『ミヤビにぴったりの女を用意しなきゃならん』って言って、若い女の子がいる仲のいい知り合いに、電話をかけていたのよ」

「………」

 背筋が、冷たくなった。

「…そうですか」

 きっと、周りからは邪険に思われていたに違いないな…。

 平静を装った僕は、靴を脱いで上がった。

 紗枝も靴を脱ぐ。うちの上り框は高いので、腕を持って支えてやった。

 仏壇へと歩いていくまでの間も、奥さんは嬉々として、祖母のことを語った。

「遺品整理をしているんだけど、すればするほど、おばあちゃんがミヤビ君思いだったってことがわかるのよねえ…」

 襖をあけて、仏壇に通される。

 祖母の遺影が飾られた、黒い仏壇があった。親戚からもらったのか、たくさんのお供え物が置いてある。その少し前には、ガラクタと言えなくもないものが沢山詰みあがっていた。これが、奥さんの言う遺品整理なのだろう。

「ほら、これ」

 奥さんはそう言って、ある段ボール箱を手に取った。

 紗枝と一緒に覗き込み、戦慄した。

 その中には、たくさんの服が詰まっていた。

「おばあちゃんね、ミヤビ君のために、たくさん買い集めて、送ってあげる準備をしてたのよ」

 問題は、そのデザインだ。

 うんこみたいな色のセーター。おはぎみたいな色のジャケット。抹茶みたいな色のズボン。曇天みたいな色の徳利。それだけじゃない。よくわからない英字Tシャツに、キャラクターものの七分袖。まるで、小学生みたいだ。

 まるで、「お前はまだ子供だ」とでも言うみたいに、箱の中に綺麗に畳まれて詰まっていた。

「おい。とりあえず、お線香をあげてから」

 そういう伯父さんを無視して、奥さんは「ほら、これも」と言って、また新たな遺品を取り出した。

「ミヤビ君が水泳が好きだっていうから。集めていたのね」

「………」

 渡されたのは、スケッチブック。広げると、水泳記事の切り抜きが、全ページにわたって貼り付けられていた。そして、ページの最後には、「ミヤビに送るもの」というメモ書きが残されていた。

 僕が、水泳が好きだって?

 いい記録が出ないたびに、殴られて、倉庫に閉じ込められて、川に突き落とされたのに?

「ほら、これも」

 奥さんはそう言って、見慣れない水着を僕に渡した。

「ミヤビくんが大人になっても水泳を続けられるように、買ってたみたいなの」

「………」

 競泳水着とは言えない、スーパーの横のブティックで買ったらしいただの水着。そして、サイズが合っていない。

 奥さんは大げさに涙ぐんだ。

「ミヤビくんは幸せ者だね。こんな孫思いのおばあちゃんに育てられて…」

「……」

「おばあちゃんも幸せ者だわ。ミヤビ君が、こんな優しい子に育ったんですもの」

 ねえ? と言って、伯父さんに同意を求める。

 伯父さんもまた、ふふっと笑って頷いた。

「そうだね」

「…………」

 二人は「さあさあ」と声をそろえると、祖母の仏壇を指した。

「長話悪かったね。ほら、ちゃんと、線香をあげて、感謝の気持ちを伝えよう」

「…はい」

 僕は頷くと、一歩前に出た。能面のような顔で、祖母の仏壇と対峙する。

 隣には紗枝が立って、僕を心配そうに見つめた。

 はっとした僕は、力を抜いて笑った。

 目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶのは、十八年にも及ぶ、祖母との暮らし。

 僕が失敗するたびに、祖母は僕を殴った。口汚く罵って、首根っこを掴むと、倉庫に閉じ込めた。夕ご飯抜きなんてことはざらで、下手すれば朝ごはんも抜きになった。貧血になって倒れても「心が弱いせいだ」なんて言って、僕を殴った。僕はサッカーがやりたかったのに、「サッカーは馬鹿がやるスポーツだ」なんて言って、水泳をやらされた。いい記録が出なければ、殴られた。倉庫に閉じ込められた。ご飯を抜きにされた。

 僕が友達を作れば、「もっといい奴と付き合え」と言って、引きはがした。僕が人を助ければ「あんな奴助ける必要はない」と言って殴られた。

 着るものも、食べるものも、自由にさせてくれなかった。

 勉強を自由にさせてくれなかった。行きたい大学があったのに、頭を殴られて、無理やり国立に行かされた…。

 そして、大人になってもなお、支配しようとしていたわけだ。

「………」

 これのどこに、感謝を伝えればいいのだろう?

 見つからないよなあ…。

「…………」

 紗枝が僕の手を握った。

 我に返り、彼女を見る。

 紗枝はにやっと笑うと、力強く頷いた。

「ミヤビさんはミヤビさんが思うことを、言えばいいと思うよ」

「……」

「その声で」

 彼女のその言葉に、手の震えが止まる。

 僕はため息をつくと、仏壇の方を向きなおった。

 遺影の中の祖母が顔を顰めている。

 僕をにらんで、「何をする気だい?」「早く言わないか」と急かしてくる。

 僕は頷く。

「久しぶりだね…」

 僕は右脚を上げた。

 その奇妙な行動に、伯父さんと奥さんが怪訝な顔をした瞬間…。

 僕は祖母の遺影に、強烈な蹴りを加えていた。

 バキッ! と乾いた音がして、表面のプラスチックに亀裂が入る。そのまま貫いて、祖母の顔面に大穴を開ける。破片を散らしながら足を抜くと、勢いそのままに、仏壇前の灰を蹴り飛ばした。

 灰がこぼれ、たちまち、あたりが白く染まる。

「ミヤビ君! 何をやっているんだ!」

 伯父さんの怒鳴り声に負けないよう、喉が切れんばかりの声量で言った。

「ざまあねえな! このクソババアッ!」

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