「嫌な気分でいると、嫌なことが引き寄せられるっていうか…、特に理由は無いんだけど、いじめられてる」

「…そうだな」

「小、中学校は陰口叩かれるくらいだから、まあマシだったけど、高校はね…。勝手に教科書破られたり、机のネジを緩められたり…、川にカバンを落とされたりって…、実害があるのがね…、結構堪えるなあ…」

 まあ、多分、それだけじゃないんだろうな…。

「よくわかんないね…。そういうことをしている人がどうして、煌びやかな青春を送れるのかな? って…。高校を卒業したなら、きっと『最高の三年間でした』なんて言って泣きあって、これから先も自分たちが犯したことに罪悪感を覚えずに生きていくのかなあって…」

「………うん」

 特に示し合わせたわけでもなく、カードを翳しあう。また僕の勝ち。

「そういう、辛いことをされるのは目に見えていたはずだ。どうして行ったんだ?」

「おっ、なにそれ」

 紗枝はわざとらしい声をあげた。

「ミヤビさんでも、ちょっとイラっとしちゃうな」

「…ごめん」

「いや、まあ、冗談なんだけど…」

そういいながら続ける。

「そりゃあ、行かなくてもいいなら行かないけど…。学校だからね。親に顔を顰められながらも合格した学校なんだから、最後まで行って…勉強しないと」

「……そうか」

「それに、これで行かなくなったら、あいつらの思う壺じゃない? 言っておくけど、私は抵抗していないわけじゃないよ? 後ろから蹴られたなら、ちゃんと面と向かって『蹴らないで』って言ってる。余計に蹴られたり、殴られたりすることだってあるけど…、私は、それでいいと思ってる。だって抵抗してるから」

 そこまで言った紗枝は、一瞬考えるような素振りを見せた後、己の胸に触れた。

 それから、シャツの襟を引っ張り、白い胸を露出させる。

 彼女が血迷ったのかと思った僕は、すかさず目を逸らした。しかし、「見て」と言われたから、目を向ける。

「あ…」

 彼女の左胸。それより三センチほど上に、鋭利なもので切ったかのような、赤黒い傷があった。

「昔川に突き落とされた時にね、ザクッとやっちゃった。病院行かなかったから、目立つ痕に残っちゃってね」

「…大丈夫なのか?」

「だいじょうぶだいじょうぶ!」

 紗枝はわざとらしく明るい声で言うと、傷口をなぞり、服を戻した。

 布の上から傷を叩き、頷く。

「名誉の負傷だよ。私は抵抗したんだ。決して、屈辱的な傷じゃない」

 顔を上げる。

「私は、私が正しいと思う道を、歩んでいたいからね!」

 それに…と言って、続ける。

「ミヤビさんなら、この傷を受け入れてくれるでしょう?」

 首を傾げた彼女を見て、僕は小さなため息をついた。

「まあ、そうだね」

「そうでしょう?」

 紗枝は得意げに笑い、胸を張った。

「私はね、私のことを好きでいてくれる人と一緒にいたいの。他なんてどうでもいいわ」

 そう言う彼女を見て、僕はぽつりと洩らした。

「…うらやましいな。こんなことを言うと、少し恩着せがましいかもしれないけれど、僕は、君を、助けたいと思ったんだ。君がいじめられているというのなら、その打開策を講じようと思った。君が親との関係が悪いというのなら、それなりの解決策を出そうと思っていた」

 …肩を落とす。

「もう君は、一人で十分、やっているじゃないか」

 そりゃそうか。男の家に毎日通って、身の回りの世話をするほどの精神力だ。

 いじめごときで屈するわけがなかった。

「あ、それは買い被りだね」

 紗枝は軽く手を挙げた。

「私だって傷つくよ。っていうか、毎日悲しんでる」

「……そうか?」

「だからこうやって、ミヤビさんと一緒にいるんじゃない」

 紗枝の手が伸びてきて、僕の手の上に重なる。木陰みたいに冷たかったけれど、触れあった時、そこに熱が生まれるのがわかった。

「ミヤビさんも傷ついていたからね。ミヤビさんの傷も癒せて、私の傷も癒せる…。一石二鳥だね」

「…そうだな」

 僕は力が抜けたように笑った。

 気が付くと、もう十二枚ものカードを消費していた。

 残り半分。まだまだ聞き足りないことがあると思いながら、二人同時に、子猫に触れるみたいに優しい力でカードを引いた。

「私の勝ち」

 勝ったのは、紗枝の方だった。

「じゃあ、ミヤビさん、ミヤビさんはさ…どうして私を助けてくれたの?」

 助けた…とはつまり、初めて会った時のことだった。

「どうしてって…」

 言いよどむ。

「そりゃ、助けなきゃ、いけないだろ…」

「でも、ちょっとは思ったんじゃない? おばあちゃんに怒られるかもしれないって…」

「…まあ、そうだな。ちょっとどころじゃない。本気で思ったし…、紗枝と一緒にいるようになって、少し後悔した…」

「それなのに、どうして、助けてくれたの?」

「……………」

 理屈っぽい話は嫌いだよ。

 でも、困っている人を助けなきゃいけない…ということが、彼女の求めている答えじゃないのだとするならば…。

「…よくわからん」

 僕は、保険を掛けた上で、言った。

「僕は、ばあちゃんが居なくても生きていけるってことを、証明したかったのかな…」

 これでどうかな…? と言いたげな目を紗枝に向けると、彼女は静かに頷き、次のカードを手に取った。僕もつられて手を伸ばし、カードを引く。

 彼女は本当に運が良いようで、次もまた、僕は負けた。

「よし…絶好調だね」

「確率は後から収束するさ」

 負け惜しみを口にする僕を笑い飛ばし、彼女は「ねえ」と聞いた。

「恋をしたことある?」

「………」

 その質問に、フリーズする。三秒後に再起動。

「ああ、このゲームって、そういうことも聞いていいのか…」

「そりゃあ、何でも聞いていいって言ってたし、何でも応えなきゃいけないらしいし…」

「…恋、恋か…」

 一瞬、池の鯉でボケてやろうか…? と思ったが、そういう雰囲気じゃないのでやめた。

「したことは無いな…。そもそも友達を作ったことがないし…」

「あ、そうなのか…」

「まあ、強いて言うなら…、受験期に、図書館で知り合った女の子かな?」

「なにそれ」

 紗枝は興味津々で身を乗り出した。

 僕は当時の風の冷たさを思い出しながら言った。

「さっき言っただろ? 国立にも合格したけど、本命は私立だったって…。特待生で合格するために、めちゃくちゃ勉強を頑張ったんだ…。だから、放課後は毎日図書館で勉強してた…」

 祖母にはいい顔はされなかったが、「受験生は遅くまで残らないといけない」って嘘をついた。

「十八時に閉まるんだけど、最後まで残っていたのは、僕とその子だったんだ」

「へえ…」

 徐々ににやけていく紗枝。

「別に、紗枝が想像するほど仲良くなったわけじゃない。図書館を出て、駐輪場に行くまでの間、ちょっとだけ話しただけさ…。どこの大学に行くの? 何の教科を受験するの? ここの問題はわかりにくいんだ…って感じに」

 図書館から、北校舎の靴箱に行くためには、渡り廊下を通って、一度南校舎の職員室の前を経由してから行かなければならない。十八時ごろはもう、三年以外の教室の明かりは消えていて、校舎全体に物寂しい雰囲気が漂っていた。その中を、白い息を吐きながら、肩を並べて歩くのは、焦燥的な感情を僕たちに抱かせたものだ。

「お互いに、応援しあったよ。頑張ってね。頑張ろうねって…」

「それで、どうなったの?」

「僕は私立大学に特待生で合格。でも、ばあちゃんに頭を殴られて…、合格証を破られて、結局、国立にいくはめになった…」

「仲良くなった女の子は?」

「ちゃんと、本命に合格したよ。有名私立」

 ため息を吐く。

「以来、連絡は取ってない。彼女が大学に合格したのは、本当にめでたいことで、僕も望んでいたことなんだけど…、僕は立派な人間じゃないかからね。嫉妬しているんだよ…。『お前は望みどおりに慣れてよかったね』って…」

 肩をすくめた。

「こんな感じ。恋…とは少し違うかもしれないけど、それでも、彼女のことは…、うん、大事に思っていたな…」

「なるほど…」

「じゃあ、僕からの質問だ。紗枝の初恋は?」

「いや、トランプ…」

「これから勝つっていう、宣言だよ」

 僕はフフッと笑うと、親指を曲げて、パキ…と鳴らした。それから、指を閉じたり開いたりして、これから数の多い番号を引いてやるぞ…っていう意思を見せる。

 少し勢いをつけて手を伸ばし、トランプに触れる。勢い良く引いて、そして、ぱしっ…と、机にたたきつけた。

 運命の数字は、クローバーの、三。

 紗枝が遅れてカードを引き、そっと僕のカードの前に置いた。

 クローバーのキングだった。

「………」

「じゃあ、私の質問だね」

 鼻で笑いつつ、息を吸い込む紗枝。

「ミヤビさんは、私のこと、好き?」

「……………」

 思いもよらない…、いや、なんとなく予見していた質問が飛んできて、僕の心臓を貫いた。

 僕は目を開けたまま固まり、机の上のキングの顔を見つめる。それから、眼球だけを動かして、紗枝の方を見た。

 頬を赤らめた彼女は、唇を一文字に結ぶと、小刻みに震えていた。

 きっと、タイミングをうかがっていたのだろうな…って思うと、とてもいじらしく思える。

「………………」

 僕は眼球を動かして隣を見た。

 誰もいない。だけど、なんとなく、祖母がいるような気がした。

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