当然、事前に言われていた水回りの掃除なんてしているわけがなかった。

 業者さんは「よくあることなんでいいです。というか、ここは綺麗なほうですから」と言ってくれたが、管理人さんは「しっかりしなきゃ」と僕を叱った。声に出して謝りたかったが、やっぱり出なかったので、僕は啄木鳥のように必死に頭を振った。それは何とも、滑稽な様子だっただろう。

 水道点検が終わり、業者さんが帰った後は、管理人さんの世間話を聞かされた。「最近、料理に凝っている」だとか、「道を歩いていたら、狐に遭遇した…」とか、どれも反応に困るものばかりだ。案の定、上手く受け答えすることができず、僕は電池の切れかかった人形のように、途切れ途切れの声を発することしかできなかった。

 そんな僕だったが、管理人さんは怪訝な顔を一つすることなくしゃべり続けた。「スーパーにいったら、肉が安かった」って。もしかしたら、ただ話を聞いてほしかっただけなのかもしれない。いや、それとも、意外に天然なのだろうか?

 その答えを出せないまま、管理人さんは一方的に話し終えると、「それじゃあね」と言って、次の水道点検の立ち合いに行ってしまった。

 部屋に逃げ帰った僕は、すぐに水回りを掃除して、布団に飛び込んだ。

 もう過ぎてしまったことだ。きっと、水道業者さんも、管理人さんも、頭の隅に無いことだろう。だけど、僕の心臓には「水道点検のことを忘れていた」という事実が杭のように突き刺さっていた。

 紗枝が帰ってきたら、慰めてもらおう…。

 僕はそのつもりで、目を閉じて、静かに息を吸い込んだ。

 どのくらい眠っていただろうか?

 強烈な寒気で目が覚めた。本能的に、足元のタオルケットを手繰り寄せた。それでも寒さは収まらない。猫みたいに丸くなって、身震いをする。そこでやっと、脳が起動して、「エアコンを消せばいい」という指令を出した。

「…………」

 身体を起こした僕は、鳥肌が立つ腕をエアコンのリモコンに伸ばそうとした。だが、暗くてどこにあるのかわからなかった。

「………」

 そこで、脳が完全に起動した。

 尻を蹴り飛ばされたみたいに立ち上がった僕は、頭上の明かりを点けた。まずはリモコンを拾い上げてクーラーを切り、それから、机の上のデジタル時計を確認する。目を擦って、何度も確認したが、確かに、「十九時十五分」と表示されている。

…学校って、大体十六時半までだよな…。

 彼女の高校からうちまでは大した距離が無いし、学校を終えてから今までの数時間の間に、彼女が来ないのはなんだか変な感じがした。

「………」

 嫌な予感が胸に宿る。

 僕は目やにを手の甲で拭うと、扉に向かって走り出そうとした。

 その瞬間、扉の向こうから声がした。

「みやびさああん」

 紗枝のものだった。

 一瞬は安堵したが、すぐに、背筋に冷たいものが走る。なぜなら、彼女の声が、まるで泣いているかのように、震えていたからだ。

「…さえ」

 僕は扉に駆け寄ると、開けた。その瞬間、川の水の生臭さが、僕の鼻を突いた。

 思わず鼻を押さえて身を引く。視線を上げて、改めて見ると、そこにはずぶぬれになった紗枝が立っていた。

「…紗枝」

 部屋から洩れる明かりに照らされた彼女の肌は半紙のように白くなっていて、その華奢な体には制服が張り付いて、彼女の体温を奪っていた。青い血管の浮いた頬には、自慢の髪が張り付き、涙なのか、川の水なのかわからない雫が顎にかけて滴っている。

 今朝とは違う紗枝の姿に、僕が呆然と立ち尽くしていると、彼女は息を吸い込み、ニヤッと笑うと、これまた近所迷惑ぎりぎりの声で言った。

「ただいま!」

「………」

「ただいま! ミヤビさん!」

「あ、おかえり」

 我に返り、紗枝が部屋にはいれるように下がる。

 彼女は扉の前でスカートの裾を絞り、ある程度水を落としてから、ローファーを脱いで部屋に上がった。

「おい、だ、大丈夫なのか?」

 僕が心配になって言うと、紗枝は振り向きざまに、ずぶぬれになったカバンを掲げた。

「じゃじゃん!」

「………カバン?」

「また落とされちゃった」

「…ああ」

 思い出すのは、二か月前のこと。

 初めて紗枝と出会った時も、彼女はいじめっ子らによってカバンを川に捨てられていたな…。

 ああ、またやられたのか。そりゃそうか。また学校が始まったのだから、それはつまり、絶好のストレス発散相手が帰ってきた…ということと同じなんだ。

「ごめん…」

 僕は静かに謝った。こんなこと、容易に予想できたはずだ。それなのに、彼女が学校を終えるタイミングで向かいに行かなかった僕が悪い。

「本当にごめん」

 僕はもう一度謝った。

「いや、なんでミヤビさんが謝るのよ」

 紗枝は濡れた制服を脱ぎながら言った。

「逆に私は、ミヤビさんに感謝しているんだよ?」

「………感謝?」

「うん」

 強く頷いた彼女は、自分の体を見せびらかすように腕を広げる。ポロシャツが肌に張り付いて、ブラジャーが透けていた。

「カバンを川に落とされたの。だけど、こうやって回収して戻ってきているってことは?」

それを聞いて、ああ、そういうことか…って思う。

「ちゃんと、練習の成果が、出たんだな」

「そう! ミヤビさんに教えてもらった通りに泳いだから、カバンも回収できたし、無事、生きて岸に上がれたの!」

 心なしか、わざとらしく元気な声で言った彼女は、僕に深々と頭を下げた。

「ミヤビさんは、命の恩人でございます」

「いや、そんな大げさな…」

 僕は謙遜してそう言ったが、内心は小躍りしたくなるほど嬉しかった。

 これが、成長ってやつか…と思った。

 頭を下げていた紗枝だったが、犬みたいに身震いをして水滴を飛ばすと、ぶあっくしょん! って、盛大なくしゃみをした。

「とはいえ、身体が冷えちゃったね。シャワー借りるね」

「うん」

 僕は手を翳し、閉じたり開いたりした。

「制服は洗っておくよ」

「うん。お願い」

 濡れた制服を受け取った僕は、彼女が風呂に入っていくのを見届けてから、ベランダに出た。

川の水の臭気を放つそれを洗濯機に放り込み、足元に置いてあった洗剤の箱から粉を掬い、入れる。電源を入れて、時間を設定していた時だった。

 パンッ! と、何か割れるような、嫌な音がした。

「………」

 ベランダに面する道路の方から、下品な笑い声が聞こえた。

 顔を向けたが、誰もいない。というか、暗くて何が何だかわからない。でも、電柱のそばに、確かに誰かがいるような気配がした。

 くすくす…という笑い声の後、再び、パンッ! と、何かがぶつかるような音がした。僕の背後から。

「………」

 なんとなく振り返る。目の前には、部屋に入るためのガラス戸があるわけだが、そこに、蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。しかも、二つ。

「あ…」

 ぼんやりとしていた脳が、さっきの二つの音を再生する。

 再び振り返ると、やはり、暗闇の向こうに誰かがいて、くすくすと笑いながらこちらを伺っているのが分かった。また、ひゅんっ! と空を切る音とともに、何かが飛んでくる。

 反射的に手を出す。

 飛んできたものが手に、バチッ! と当たった。つかみ損ねたものの、ベランダに落ちる。

「…………」

 それは、今しがた道端で拾ったような、歪な形をした小石だった。

「あ! こっち見た!」「やばっ! 逃げろ!」

 女子の声がした。そして、バタバタバタ…と走る足音。

 少し進んだ先にある街灯が、学ランを着た男二人、紗枝と同じブレザーを着た女三人の姿を照らし出した。女の方はどうでもいい。あの男だ。遠めだったが、すぐにわかる。あれは二か月前に、年上の僕をしたたかに痛めつけた餓鬼じゃないか…。

 彼らの姿が闇の向こうに消えるまで、僕は手に残る痺れを感じながら、呆然と眺めていた。

「え…、うそ」

 紗枝の声で我に返る。

 振り返ると、バスタオル一枚の彼女が、青ざめた顔で、割れたガラス戸を見ていた。

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