九月に入った、最初の月曜日。

 僕はごみを捨てるために早起きをした。

 布団から這い出すと、汗で重くなったTシャツを脱ぎ捨てて、枕元に置いてあった新しいTシャツを着る。若干、貧血で眩暈を覚えながら立ち上がり、玄関に置いてあったゴミ袋を掴んだ。息を深く吸い込み、脳に酸素を循環させながら、ドアノブを捻る。

 扉が半分開いた途端、朝の涼しい風が部屋に吹き込んだ。

 目の前に、紗枝がいた。

「………」

 まさか彼女がいると思わず、固まる。

 一方紗枝は、いつもと変わらない笑みを浮かべると、近所迷惑一歩手前の大きな声で言った。

「おはよう! ミヤビさん!」

「あ、おはよう」

 我に返った僕も、そう頷く。

「どうした? 今日はいつもより早いんじゃないか?」

「まあ、そうだねえ」

 紗枝は恥ずかしそうに頭を掻くと、指でアパートに面した道を指した。

「とりあえず、ごみ捨てに行かない?」

「あ、うん」

 彼女に促されて、一緒に外に出る。

 秋と夏が混ざり合った風を浴びながら階段を下りて、向かいの道路にあったゴミ捨て場にごみ袋を放り込んだ。カラスが悪戯をしないように、しっかりと網を掛ける。

 一仕事終えた僕は、紗枝のほうを向き直った。

「それで…、これからどうする? 朝ごはんは食べてないんだろ?」

「うん、そうだね」

 紗枝はこくりと頷いた。それから、言いにくそうに、言った。

「ねえ、ミヤビさん、今日はミヤビさんの朝ごはんが食べたいな」

「…僕の?」

「ダメかな?」

「いや、別にいいんだけど…」

 彼女がこんなに改まって言ってくるものだから、少し身構えてしまうじゃないか。

 アパートに戻った僕は、彼女を居間で待たせ、さっと朝食を作った。味噌汁に、卵焼き、白ご飯。そして、ちょっと張り切って、塩胡椒で味付けをし直したウインナーも焼いた。

「ほら」

 折り畳み式テーブルを広げ、出来上がった料理の皿を並べる。

 いつもと同じように、二人で向かい合って食べた。

「うん、美味しい…」

 いつもと同じだ。紗枝は一口一口、噛みしめて食べていた。

 食事を終えると、彼女は歯を磨いた。それから、僕の洗顔を使って顔を洗った。そして、鏡の前に立ち尽くし、僕に言った。

「ねえ、髪、梳いてくれない?」

「…髪か、いいよ」

 僕は彼女の後ろに立つと、男用の櫛を使ってその髪を梳いた。先日僕が切った髪は、少し伸び、毛先も整って、程よい感じになっていた。多分、僕はこのくらいが好きだ。きっと祖母なら、「長いほうが品があるんだよ」と言うだろうが。

「うん、きれいになったぞ」

 そう言って、彼女の頭をなでる。

「それで、次は何するんだ?」

「ええとですね…」

 急に改まった敬語。

 何かとんでもないお願いをされるのだと思い、僕は身構えた。

「ちょっと、ハグしてほしいっていうか…」

「…はぐ?」

 ハグ…、つまり抱きしめる…と認識するのに三秒かかった。

 これはとんでもないお願い…ではないな。抱きしめるくらい、一緒に寝ているときによくやっている。いかがわしい意味じゃなく、ライナスの毛布症候群みたく、抱き枕のような感覚で。

「いや、まあいいけど」

 そう言って両腕を広げた瞬間、紗枝は僕の胸に飛び込んできて、顔を押し付けながら強く抱きしめてきた。

「…………」

 心臓の鼓動が高鳴り、体温が一度上昇するような気がする。

 なるほど…、確かに、わざわざ「していい?」「いいよ」と交わした上でやるハグじゃ、緊張感が違う…というか、特別感が違うな。

 五分くらいそうしていたと思う。

 紗枝は胸の中で息を吐くと、赤くなった顔を離した。

「よし、充電完了」

「一応聞くけど、今日、どうしたんだ?」

 こんな改まって甘えられたんだ。何かあるに決まっていた。

「いや、今月から学校だってこと、すっかり忘れていたから」

「学校…」

 そう言われて、はっとした。

 そうだ。大学の夏休みは九月もあるけれど、高校生は違うんだ。

「夕方まではミヤビさんに会いに行けないの。ごめんね」

 彼女は舌を出して、平謝りをする。

「だから、ちょっと充電しようと思って」

「…そうか」

 夏休み中は、毎日、毎時間一緒にいた。

 それが、今日から無くなるのだ。そりゃそうか、僕たちがのんびりとしていたいと思っていても、世界は今日も通常運行なのだから。

 乗り遅れたらいけないから、動き出すしかない。

「わかった」

 少し寂しかったが、僕は頷いた。

「頑張って、行ってこい。夕飯は作っておくから」

「うん」

 彼女は頷くと、また僕に抱き着いた。

「よし、大丈夫。今度こそ大丈夫」

 そういって離れる、ぴょんっと一歩下がった。

「行きたくないのが本音だけど、そうもいかないからね…。私がこれからどんな人生を歩むのかは知らないけど、勉強をすることは大切でしょう?」

「…そうだな。えらいぞ」

「とりあえず、高校は卒業しないと」

「………………」

 そう言い残した彼女は、「それじゃあ、また」と言って、部屋を出て行った。

 たかが半日一緒にいないだけだというのに、今生の別れのように思えた僕は、サンダルを履かないで外に飛び出した。手すりから身を乗り出して見ると、紗枝はもう道路に出て、パタパタと走っていってしまった。

「………」

 蝉が思い出したように鳴きはじめる。生ぬるい風が吹いて、背中に汗を滲ませた。

 途端に、馬鹿なことをしていることに気づいた僕は、部屋に引っ込んだ。カーテンを閉め切り、日差しを遮ると、布団の上に横になった。

 とりあえず、眠るに限る。

 そのつもりで、僕は目を閉じた。

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