④
九月に入った、最初の月曜日。
僕はごみを捨てるために早起きをした。
布団から這い出すと、汗で重くなったTシャツを脱ぎ捨てて、枕元に置いてあった新しいTシャツを着る。若干、貧血で眩暈を覚えながら立ち上がり、玄関に置いてあったゴミ袋を掴んだ。息を深く吸い込み、脳に酸素を循環させながら、ドアノブを捻る。
扉が半分開いた途端、朝の涼しい風が部屋に吹き込んだ。
目の前に、紗枝がいた。
「………」
まさか彼女がいると思わず、固まる。
一方紗枝は、いつもと変わらない笑みを浮かべると、近所迷惑一歩手前の大きな声で言った。
「おはよう! ミヤビさん!」
「あ、おはよう」
我に返った僕も、そう頷く。
「どうした? 今日はいつもより早いんじゃないか?」
「まあ、そうだねえ」
紗枝は恥ずかしそうに頭を掻くと、指でアパートに面した道を指した。
「とりあえず、ごみ捨てに行かない?」
「あ、うん」
彼女に促されて、一緒に外に出る。
秋と夏が混ざり合った風を浴びながら階段を下りて、向かいの道路にあったゴミ捨て場にごみ袋を放り込んだ。カラスが悪戯をしないように、しっかりと網を掛ける。
一仕事終えた僕は、紗枝のほうを向き直った。
「それで…、これからどうする? 朝ごはんは食べてないんだろ?」
「うん、そうだね」
紗枝はこくりと頷いた。それから、言いにくそうに、言った。
「ねえ、ミヤビさん、今日はミヤビさんの朝ごはんが食べたいな」
「…僕の?」
「ダメかな?」
「いや、別にいいんだけど…」
彼女がこんなに改まって言ってくるものだから、少し身構えてしまうじゃないか。
アパートに戻った僕は、彼女を居間で待たせ、さっと朝食を作った。味噌汁に、卵焼き、白ご飯。そして、ちょっと張り切って、塩胡椒で味付けをし直したウインナーも焼いた。
「ほら」
折り畳み式テーブルを広げ、出来上がった料理の皿を並べる。
いつもと同じように、二人で向かい合って食べた。
「うん、美味しい…」
いつもと同じだ。紗枝は一口一口、噛みしめて食べていた。
食事を終えると、彼女は歯を磨いた。それから、僕の洗顔を使って顔を洗った。そして、鏡の前に立ち尽くし、僕に言った。
「ねえ、髪、梳いてくれない?」
「…髪か、いいよ」
僕は彼女の後ろに立つと、男用の櫛を使ってその髪を梳いた。先日僕が切った髪は、少し伸び、毛先も整って、程よい感じになっていた。多分、僕はこのくらいが好きだ。きっと祖母なら、「長いほうが品があるんだよ」と言うだろうが。
「うん、きれいになったぞ」
そう言って、彼女の頭をなでる。
「それで、次は何するんだ?」
「ええとですね…」
急に改まった敬語。
何かとんでもないお願いをされるのだと思い、僕は身構えた。
「ちょっと、ハグしてほしいっていうか…」
「…はぐ?」
ハグ…、つまり抱きしめる…と認識するのに三秒かかった。
これはとんでもないお願い…ではないな。抱きしめるくらい、一緒に寝ているときによくやっている。いかがわしい意味じゃなく、ライナスの毛布症候群みたく、抱き枕のような感覚で。
「いや、まあいいけど」
そう言って両腕を広げた瞬間、紗枝は僕の胸に飛び込んできて、顔を押し付けながら強く抱きしめてきた。
「…………」
心臓の鼓動が高鳴り、体温が一度上昇するような気がする。
なるほど…、確かに、わざわざ「していい?」「いいよ」と交わした上でやるハグじゃ、緊張感が違う…というか、特別感が違うな。
五分くらいそうしていたと思う。
紗枝は胸の中で息を吐くと、赤くなった顔を離した。
「よし、充電完了」
「一応聞くけど、今日、どうしたんだ?」
こんな改まって甘えられたんだ。何かあるに決まっていた。
「いや、今月から学校だってこと、すっかり忘れていたから」
「学校…」
そう言われて、はっとした。
そうだ。大学の夏休みは九月もあるけれど、高校生は違うんだ。
「夕方まではミヤビさんに会いに行けないの。ごめんね」
彼女は舌を出して、平謝りをする。
「だから、ちょっと充電しようと思って」
「…そうか」
夏休み中は、毎日、毎時間一緒にいた。
それが、今日から無くなるのだ。そりゃそうか、僕たちがのんびりとしていたいと思っていても、世界は今日も通常運行なのだから。
乗り遅れたらいけないから、動き出すしかない。
「わかった」
少し寂しかったが、僕は頷いた。
「頑張って、行ってこい。夕飯は作っておくから」
「うん」
彼女は頷くと、また僕に抱き着いた。
「よし、大丈夫。今度こそ大丈夫」
そういって離れる、ぴょんっと一歩下がった。
「行きたくないのが本音だけど、そうもいかないからね…。私がこれからどんな人生を歩むのかは知らないけど、勉強をすることは大切でしょう?」
「…そうだな。えらいぞ」
「とりあえず、高校は卒業しないと」
「………………」
そう言い残した彼女は、「それじゃあ、また」と言って、部屋を出て行った。
たかが半日一緒にいないだけだというのに、今生の別れのように思えた僕は、サンダルを履かないで外に飛び出した。手すりから身を乗り出して見ると、紗枝はもう道路に出て、パタパタと走っていってしまった。
「………」
蝉が思い出したように鳴きはじめる。生ぬるい風が吹いて、背中に汗を滲ませた。
途端に、馬鹿なことをしていることに気づいた僕は、部屋に引っ込んだ。カーテンを閉め切り、日差しを遮ると、布団の上に横になった。
とりあえず、眠るに限る。
そのつもりで、僕は目を閉じた。
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