③
それからも、僕と紗枝は、一日のほとんどの時間を一緒に過ごした。
特別なことをするわけじゃない。朝ご飯を一緒に食べて、部屋の片づけをして、しんどかったら一緒に眠って、昼ご飯を食べて、軽い昼寝をして、ぎこちない言葉を交わしあい、夕暮れの涼しくなりつつある時間に、一緒に外に出た。スーパーを訪れて食材を買い、暗くなる前にアパートに戻り、夕食を作った。
食後はのんびりとして、ふとしたタイミングでシャワーを浴びる。彼女は「一緒に浴びる?」なんてことを言ってきたけど、流石に恥ずかしいからやめた。逆に「一緒に浴びるか?」と言ってやると、彼女は顔を真っ赤にして、「ちょっと今日は…」と断られた。そのほうが彼女らしいと思った。そして、お互い頭から湯気を発しながら、テレビを見たり、本を読んだり、彼女が持ってきたボードゲームに興じたりして過ごし、十時前には「また明日」「じゃあな」という言葉を交わしあって別れた。その時が一番寂しかった。だけど、明日には会えるし、泊ってくれる日もあるから、悲しくはなかった。
どこかに出かけるわけでもない。プレゼントをあげたり、キスをしたり、セックスをしたりするわけでもない。きらきらと煌めく砂時計をさかさまにして、砂が落ちていくのをじっと眺めていくときのように、時間はのんびりと過ぎていた。
そして、傷を瘡蓋が覆い、やがてパラパラ…と剝がれていくように、ほんの少し。そこだけを切り取れば全くの変化がない。でも着実に、僕は言葉を話せるようになっていった。
二週間もすれば、ほんの冗談を言えるくらいにまで僕の心は回復をしていて、水上紗枝もまた、楽しそうに僕に話しかけてきた。
僕たちはたくさんお話をした。
彼女が好きな食べ物は、甘いもの。あんこはダメ。生クリームが好き。嫌いな食べ物は、ねばねばしたもの。お気に入りの歌手はいない。だけど、最近発売されたバンドの曲は好き。犬よりも猫派。でも一番はウサギ。コーヒーは飲めない。カフェオレが好き。身長は一五八センチで、もう少し欲しい。体重は四十二キロ。運動は得意じゃない。水泳が一番苦手。ちょこっと、いじめられている。
これが、僕が水上と話せるようになってから知った、彼女についてだった。
ミヤビさんにだけ教えてあげる。
彼女は唇に指をあてて、そう、いたずらっぽく言った。
だから僕も、少しだけ、彼女に教えてあげる。
僕の好きな食べ物は、無い。甘いものはダメ。でも時々食べたくなる。生クリームは胃もたれするから嫌い。納豆は食べられる。オクラも大丈夫。お気に入りの歌手はいない。最近の曲は聴いてないからよくわからない。知っているのなら教えてほしい。コーヒーは飲めないカフェオレにしたら何とか飲めると思う。身長は百七十二センチで、体重は五十二キロ。運動は、水泳は得意。走るのも得意。だけど、球技がまるきりダメ。
父がいるけれど、どこにいるのかわからない。母はいるけれど、もうずっと会っていない。
祖母に育てられたけれど、先日、死んだ。
葬式に入っていない。僕は、あの人が大っ嫌いだ…。
そう言うと、彼女は好奇心旺盛な子猫みたいに、肩を竦め、身を乗り出し、「それで?」と聞いた。本当なら、彼女にすべて言ってしまいたかったけれど、まだその時じゃないらしく、声を発しようとすれば、昔のことが脳裏をよぎり、喉が熱くなった。
でも、いつかは喋れるようになるんだろう。
そんなことが思えるくらいに、僕の心は穏やかだった。
紗枝は「無理しなくていいよ」と言ってくれたが、僕は首を横に振った。
彼女に、僕のことをもっと知ってほしかった。
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