②
こうして、僕は紗枝の長い髪を切ることになったのだが、やはり細かい毛が落ちることになるので、居間の畳の上でやるわけにはいかなかった。じゃあ、薄着になって風呂場でやろうか? という話にもなったのだが、二人が入るにはうちの風呂は狭すぎる。それに、彼女の肌着姿を見るなんて、二重の緊張で、手元を誤って彼女の耳を切り落とすかもしれない。
悩んだ末、外でやることにした。と言っても、風が吹いていたため、駐車場ではできない。そのため、二階通路の真下…つまり、一階通路の、しかも、住人がいない部屋の前で切ることにした。ここなら大丈夫だ。
共用の箒を使って、扉前の砂埃を掃いて綺麗にして、それから、古紙置き場から回収した新聞を敷いた。そしてその上に、愛用の椅子を置く。
「ミヤビさんは、髪は何処で切ってるの?」
「…ち、近くの、千円、カット…」
「へえ、私もそこにしようかな?」
「女の子が、いく、ような場所じゃ、ないよ」
店を経営しているのは、腰の曲がった老人だ。耳が遠くなっているから、こちらの要望に応えるのを期待しない方が良い。
「ま、まあ、僕が切らなくて、済む、のなら…」
「やだ。ミヤビさんに切ってもらうんだから」
そこは折れないんだな…。
椅子に紗枝が腰を掛ける。背もたれに体重を預け、首をのけ反らせつつ僕の方を見た。
「ほら、早く。外は暑いんだから」
「…わ、わかったよ」
諦めた僕は、紗枝の首にバスタオルを巻いた。膝の辺りにもバスタオルを掛ける。
これで準備完了。
「よ、よし…」
僕は肩を上下させて力を抜くと、ポケットに入れていたスマホを取り出した。
「髪 切り方」で検索をする。
…なるほど、自分で髪を切るときは、ヘアバンドで二つに分けてから、直線に切ればいいのか…。濡らす必要は…ないらしいな。濡れしたら、髪の長さが変わってしまうからか…。
「なにやってるの?」
「き、綺麗に切る、ための、方法を、探してて…」
「そんなに神経質にならなくていいよ」
「僕にも、責任が、あるんだよ…」
よし、やるぞ…。
「紗枝、か、髪、結ぶ、奴は…」
「ああ、ヘアバンドね。はいどうぞ」
彼女は普段髪を結ばないくせして、銀色のラメが施された、シンプルなデザインのヘアバンドを僕に放った。それを掴んだ僕は、彼女の髪を二つに分けるために、構える。だけど、女の子の髪なんて触ったことが無いから、どうすればいいのかわからなかった。
「さ、さえ、悪いけど、髪を結んで、くれないか? ツインテールが、いいらしい」
大げさに嫌そうな顔をする紗枝。
「私は今、ミヤビさんが経営する散髪屋さんに来てるんだよ?」
なんだ、その設定。
「お客さんにそういうことさせるの?」
「勘弁してくれよ…」
「まあいいや。ツインテールにすればいいんだよね?」
椅子を回し、僕からヘアバンドを取り上げた紗枝は、慣れた手つきでツインテールに結んだ。
「………早い、な」
「小学生のころはこれだったからね。今は幼稚に見えるから無理」
別にそんなことはないだろうに…。
「とにかく、お願い。短くしてくれればいいから」
「…期待は、する、なよ」
「してないよ」
僕は足元に置いていたケースを開けて、そこから鋏を取り出し、握った。
ふう…と湿った息を吐いて、震える刃を、彼女の右のツインテールに近づける。
「あ、待って」
「…………」
「言ったでしょう? 私は今、ミヤビさんが経営している美容院に来てるわけ」
「…うん」
「そんな不愛想でいいわけ?」
「寡黙な、店主って、ことで…」
反射的にそう答えると、おどけていた紗枝が思い切り噴き出した。
腹を抱えると、天を仰ぎ、あっはっは! と笑い始める。
「なるほど、そういうことね」
「…おかしい、こと、言った、かな?」
「ミヤビさんが冗談言うとは思わなかった…。完全に不意打ち…」
痙攣をしながら、ひきつったように笑う。
「いや、まあ、そういう設定でもいいんだけど…、私としては、話しかけてほしいなあって…」
「………」
「ほら、美容院って、鬱陶しいくらい話しかけてくるでしょう?」
「店によるとは、思うんだけども…」
いや、確かに話しかけてくる印象はあるな。実際、僕の行きつけの千円カットも、よく話しかけてくる。まあ、もごもご…と何を言っているのかはわからないのだが。
僕は鋏を構えると、なんとなく言ってみた。
「お、お客さん…」
「なんですか?」
「きょ、今日は、どういった、感じで?」
「そうですねえ…。暑いので、短めで」
「わ、わかりました」
これでいいのか? と思いつつ、彼女の右のツインテールに刃をあてる。
一直線、一直線でいい。よし、行くぞ…。
まるで、時限爆弾を解除するときのように、ゆっくりと手元に力を込めた。
ジョキジョキジョキ…と、意外に堅い感触が手に残る。人間の体の一部を切断しているような生々しい感覚になり、思わず手が止まった。
「……なんか、や、やっぱり…」
「いや、もう後戻りできないでしょ」
「わかったよ…」
僕はため息をつき、もう一度手に力を込める。
良く研がれた刃は、水上のうざったるいツインテールを切断し、足元の新聞紙の上に落とした。
細かい毛がふわっと舞う。
「…こ、こんなので、い、いいのか?」
「鏡見てないからわかんない」
「…そうだよ、なあ」
よし、次は左側だ。
息を整えた僕は、今度は彼女の左側のツインテールに刃を押し当てた。
よし、切るぞ…と力を込めようとすると、紗枝が言った。
「ちょっと、店員さん?」
「あ、はい、な、何でしょう」
「お客さんは初め入る店で緊張してるんだから」
「あ、わ、はい」
しまった…と思いつつ、気を取り直す。
「今日は、い、いい天気だな…」
「うん。いい天気だね」
「でも、あ、暑いな…」
「暑いね。冷たいものが飲みたい」
二ターンの会話。たったそれだけで、なんだかすごいことを達成したような気分になった僕は、なんだか落ち着いて、手の震えを押さえつつ、鋏を握った。
ジョキン…という感触とともに、紗枝の髪が足元に落ちる。
「こんなもの…、かな?」
いや、ダメだな。整った左側に比べて、右側がギザギザしすぎている。最初に切るときに戸惑ったせいだ。
「もう少し、整えてみるよ」
「うん」
喉元過ぎれば熱さを忘れる…ってわけじゃないけど、多少余裕を持った僕は、鋏を使い、紗枝のギザギザになった毛先を整え始めた。
整えながら、頭の中で言葉を作り出し、彼女に投げかけてみた。
「今日は、どうして、ここに?」
「ミヤビさんに髪を切ってもらいたかったの」
「美容院には、行かないの?」
「ミヤビさんと、お話がしたかったの」
「…そうか」
毛先が整ったので、ヘアバンドを外す。夏の陰のように黒い紗枝の髪が、肩のあたりまで垂れた。うん、多少ガタついているけど、個人カットならこんなものだろう。よほど目ざとい人じゃなければ気づかない。
とはいえ、ミディアムカットだというのに、もみあげや前髪が長いままだと、バランスが悪く見えるので、そこも整えることにした。
そっと、彼女の目に手を当て、瞼を閉じさせる。
さながら美容師がやっているみたいに、櫛を使って距離を測り、毛先を整えながら、慎重に鋏を進めていく。この間も、僕は頑張って紗枝に話しかけ続けた。
「学校は、行かない、のか?」
「今は夏休みだよ」
「夏課外、は?」
「行っても、出席に入らないから行かない」
「本当、は?」
「ストレス発散の標的にされるから行かないの」
前髪も上手く切れた僕は、次にもみあげに取り掛かった。
紗枝の前に回り込み、頬の輪郭をなぞるようにして垂れているもみあげを撫でる。毛先をまとめてから、そっと鋏をあてようとした時、僕の視線は、彼女の青白い首筋に奪われた。
「…………」
カメラのフラッシュを焚いたように白くて、青筋の浮いた肌。鎖骨が浮いて、その小さな溝に汗が溜まっている。かすかな風で流れた毛の粉が、二、三本貼り付いていた。
首筋の、さらに向こう。
彼女の華奢な身体にフィットしているとは言えない、大きめの制服。おかげで胸元の布が浮いて、その隙間に入り込んだ光が、胸の輪郭をなぞっていた。
ブラジャーが意味を成しているとは言えない、小さな胸。もう少し前に屈めば、その先が見えるだろう。だけど、そんなものより、僕はあるものに釘付けになった。
ガラスで切ったかのような、傷。
思わず手が止まる。
紗枝が、目を閉じたまま言った。
「キスでもしようとしているの?」
「あ、いや、…そういう、わけじゃ、ないんだ…」
「なによお…、失礼だね」
紗枝が顔を上げようとしたので、慌てて制する。
「あ、鋏、あるから、動かないで…」
気を取り直し、さっさともみあげを切ってしまう。
反対側のもみあげも切る。
「これで、一通りは、終わったかな?」
半歩下がって、紗枝の頭を眺める。
…うん。自分で言うのもなんだが、初めてにしては良い仕上がりだと思う。今までの紗枝の頭は、重々しい黒髪が背中まで伸び、もみあげも耳を覆ってしまうくらいに長かった。それを短くすると、重々しさが取り払われ、首筋を強調した、なんとも涼しげのある様子に仕上がった。以前の髪型も悪くは無いが、こちらの方が、紗枝らしいと思った。
奔放っていうか…。
「うん、大丈夫…。多分」
紗枝の首に巻いていたバスタオルを剥す。やはり、タオルは気休めだったようで、彼女の肩や太もも、腕には細かな毛が付いていた。
「この服は、後で、洗おう…」
「別に、汚れたわけじゃないんだから、良いんじゃない?」
「どうせ、この格好で、僕の部屋を、ゴロゴロするんだろう?」
僕の言葉に、白々しく舌を出す紗枝。
「まあ、そうか。でも、私、着替え持ってきてないし」
「また、貸すよ」
まるでその言葉を待っていた…と言わんばかりに、彼女はにやりと笑った。
「あらそう? 悪いね~」
「……………」
なんだか、いらっとしたので、僕は紗枝の小さな頭を、じゃれ合い程度の力で叩いた。
「いたっ」
反射的に声をあげる紗枝。
さらに僕は、彼女の頭に手を当てると、柴犬と戯れるみたいに、わしゃわしゃ…と撫でた。せっかく櫛で整えていた髪が乱れ、付着していた細かな毛が乱れる。
「え…、ちょっと、何やってんの?」
「……毛を、とってる」
「もうちょっと優しくやってよ」
「こう、強く、しないと…、とれないんだ…」
「だったら、いっそシャワー浴びるのに」
「………」
ごもっともな意見に、手が止まる。
だけどやっぱり、くしゃくしゃと紗枝の頭を撫でた。それから、手を這わせて、額も撫でて、そこに付着していた髪を落とす。肩、首、足の順に叩いて髪を落とした。
「はい、終了」
脇に置いていたスマホのカメラを起動し、紗枝に渡す。
液晶に移る自分の頭を見て、紗枝は、ふん…と息を吐いた。
「ごめん、ぼさぼさでわからないんだけど」
僕にスマホを返した紗枝は、肩を竦めた。
「こんな雑な仕事じゃ、お金はあげられないね」
「…うん、そのつもりは、無かった」
「ああ、開き直った」
わざとらしく唇を尖らせた紗枝は、立ち上がり、皺がついたスカートを整えた。ぼさぼさになった髪は整えず、僕の方を振り返る。
「それじゃあ、シャワー浴びさせて」
「…うん」
「あと、制服洗って」
「…うん」
「服も貸して」
「うん」
「ナイス、三連コンボ」
テンポよく返事した僕に、彼女は噴き出しながら、僕の胸を小突いた。
「よくできました」
「…うん」
「ボーナスだね」
また、笑った。
落ちた髪ごと新聞紙を丸め、近くにあったゴミ捨て場に放った。細かな髪の毛は塵取りで掃いて、椅子を脇に抱えて、階段を上る。僕は上で、彼女が下。
部屋に入ると、紗枝は改めてシャワーを浴びた。髪の毛は僕が拭いてあげた。短パンとTシャツを貸した。男の部屋にドライヤーなんてものは無いから、扇風機を回して、その風を浴びた。機嫌のいい彼女は、プロペラに向かって「ああああああ」なんて言って、僕も真似して声を発してみたけれど、やっぱり、羞恥心が勝って掠れたものしか出なかった。
「うん、かわいい」
ようやく髪の毛が渇き、鏡を見た紗枝は、自分で自分の容姿を褒めた。
「髪を変えると、すっきりするね」
「そうだね」
「また、何処かにいきたくなるね」
鏡越しに、僕を見る。
僕は肩を竦めると、頷いた。
「わかったよ」
「うん。また行こう」
何処か…とは明確に決めなかった。だけど、必ず、行こうと決めた。二つ返事だったが、それは強固な契約であった。
その日も、時間は穏やかに過ぎていったのだった。
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