第六章『おだやかに』

 運命とは、常に、僕の想像を超えてくるものだ。

 母の膣を通ってこの世に生まれ落ちた僕は、本能で幸福を求めた。母に虐待を受けた時も、その苦痛から逃れようとした。祖母に引きとられた時も、内心、「これで助かる」と安心したものだ。そして、祖母との生活が始まったときは、「自由になりたい」と願った。

 運命はいつも、僕の期待を裏切ってきた。僕は幸せになることはなかったし、苦痛から逃れることもできなかった。助かるわけがない。自由にもなれなかった。

 全部、僕の思い通りにはならない。

 それは、逆もまた叱りだった。

 良くも悪くも、思い通りには、ならないものだな…。

「おーい、ミヤビさん」

 翌日、昼前に扉がコツコツ…と叩かれた。待ちかねていた僕は立ち上がり、扉を開ける。そこには、制服を着た紗枝が立っていて、僕の顔を見るなり、胸を張っていった。

「こんにちは。ミヤビさん」

 出迎えた僕は、うん…。と頷く。すると紗枝はすぐに頬を膨らませ、大きく息を吸い込んだ。

 あ…しまった…。って身構える。

「こんにちは!」

 喉を大きく開けた声が辺りに響き渡った。

 耳がキーンとする。心臓が跳ねあがる。住人の少ない昼間だったことに安堵しつつ、僕は肩を強張らせた。すると、紗枝は再び息を吸い込んだ。

 僕は、慌てて言った。

「こ、こんにちは…」

 僕の声を聞いた紗枝は、息を止め、鼻から空気を吐くと、優し気な笑みを浮かべた。

「こんにちは、ミヤビさん」

「…こ、こんにちは」

 僕は半歩下がり、彼女が部屋に入れるようにした。

「ま、まあ、はい、れよ」

「お邪魔しまーす」

 まるで自分の家に入るかのように、何のためらいもなく部屋にあがる紗枝。居間に入ると、鞄を脇に放り、僕が愛用している椅子に腰かけた。

「ダメだよ、ミヤビさん。挨拶されたら、ちゃんと聞き取れる声で返さなきゃ」

「ごめんよ」

「まあ、強要するものじゃないから、これ以上は言わないけど…」

 紗枝が足を組む。パンツが見えそうになって、思わず下を向く。

「それよりミヤビさん、ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」

「…………」

 なんだ…? の意味を込めて首を傾げたが、すぐにはっとして、声を発した。

「な、なんだよ」

 僕が声を発したのを満足げに聞いた紗枝は、背中辺りまである黒髪をさらり…と掻いた。

「髪を切ってほしいの」

「は?」

 これには、素で声が出た。

「か、髪を?」

「うん。髪。最近ずっと暑いし、ちょっと切るのも悪くないなあ…って。多分、寒くなることにはちょうど良くなるんじゃない?」

「いや…でも」

 手が震える。

「ああ、大丈夫。言葉通り、髪を切るだけでいいの。そんな、美容院のプロみたいなことを求めていないから。変な形になっても大丈夫! ミヤビさんだから許してあげる!」

 いやでも、流石に人の髪を…。しかも女の子のものを切るわけにはいかないよ。君は気にしないにしても、僕が気にする。もし、変な形になってしまったら、罪悪感で胸が押し潰されるっていうか…。

「なに?」

 一人でもごもご言っていると、紗枝が詰め寄ってきた。

「なんて言ってるの?」

「い、いや、だから…。さ、流石に、女の子の、髪を、き、切るわけには…。いかないよ。君が、ゆ、許したとしても…、僕に、罪悪感が、あるっていうか…」

「うん!」

 なぜか、彼女は満足げに頷いた。多分、僕の言い訳を聞きたかったのだろう。

 その卑怯なやり方に泣きそうになりつつ、僕は続けた。

「お、お金はだして、やるから…、美容院に、行こう…」

「やだよ。ミヤビさんに切ってもらいたいの」

 まるで駄々をこねる子どものように言った彼女は、椅子から立ち上がると、壁に置いていた鞄を掴んだ。ファスナーを開けると、中から黒いケースを取り出す。

 まさか…と嫌な予感がした僕は、後ずさった。

 にやりと笑った紗枝が、僕に一歩近づく。黒いケースを開け取り出したのは、案の定、散髪用の鋏だった。

 か弱い人間を襲う殺人鬼の如く、紗枝がさらに一歩近づいた。

「もう、逃げられないよ。ミヤビさん…」

「…わ、わかったよ」

 僕は壁に背中をぶつけながら頷いた。

「切るよ…」

「ありがと」

 紗枝は満面の笑みを浮かべ、手に握った鋏をシャキシャキ…とした。

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