⑧
「…ねえ、もう一度、言って」
「…………」
「ミヤビさんの声を、聴かせてよ…」
涙ながらの訴えに、喉元に熱いものが込み上げた。口を一文字に結んでそれを飲み込み、乾いた息を吐く。静かに頷き、声帯を振るわせようとした瞬間、また、吐き気が込み上げた。
口を押さえて、その場に吐く。手の中に、苦い胃酸が溜まって、指の隙間から滴った。
歯を食いしばって、耐える。
そして、もう二度と彼女を失望させないよう、吐きながら言葉の輪郭を結んだ。
「…で、ない、んだ」
「……うん」
「こ、こえが…、で、でない…、んだ」
「うん」
「…ぼ、ぼ、くは…、ひ、ひとと…、しゃ、べ、れ、ないんだ…」
いつからだろうか? 人としゃべれなくなったのは。
「き、み…の、ことが、き、らいな…、わけじゃ、ないんだ…」
「うん」
「き、みと、お、しゃべ、りを、したい…、って、おも、って、る」
「うん」
「けど…」
頭を抱えた僕は、冷たいアスファルトの上に額を擦りつけた。
「しゃべれないんだ…」
「…うん」
「僕、は、君が、思ってる、ほど、立派、な、人間じゃない…」
「…うん」
「でも、君が僕の、ところに、きて、くれる、から…」
「うん」
「応えなきゃ…、いけなくて…」
「うん」
「でも、やっぱり、僕が、すごい、人間じゃないって、僕が、一番わかっているか…ら」
「…うん」
「なに、も、かも…、わからなく、なって…」
「うん」
「でも、君を、傷つけたくなくて…」
「うん」
「誰かが、傷つくところを、見たくなくて…」
「うん…」
「でも、どうすればいいのか、わからなくて…」
「うん」
「だ、だから、さ、さ、だ、から…」
頭を抱えた僕は、大きく息を吸い込んだ。
喉の奥に溢れた、ものを飲み込んで、乾いた唇で、彼女への想いを形作る。
「…さっきは、ごめん」
僕たちの横を、車が通り過ぎた。巻き上げられた砂が頬に当たり、排気ガスが鼻を掠める。
胸の中にミルクが溶け合ったような感覚の中、僕は必死に彼女への謝罪を口にした。
「怖い、思いを、させたな…。本当にごめん」
「うん」
血まみれの腕を上げて、血まみれの頭を抱える。
「…死にたいよ」
「………」
「生き方が、わからない…」
「………」
「ばあちゃん、に、全部、奪われた…」
「…………」
「生きている、意味なんて…、無いんだ…」
「…………」
「さっきは、ほん、とうに、死ぬ、つもり、だった…」
「…………」
「ごめん」
顔を上げた瞬間、水上が僕に迫ってきて、僕の肩を掴むと、冷たいアスファルトの上に押し倒してきた。息をのむ間もなく、彼女の唇が、僕の唇に重なる。キス…というよりも、歯と歯のぶつかり合い。
まるで獲物の息を止める蛇のように、彼女が唇を押し付けてくる。舌まで入り込んで、僕の欠けた歯に触れた。
「…………」
唇を離した水上紗枝は、唾を飲み込むと、涙が溜まった瞳で僕を見下ろした。
「これでも、ダメ?」
「………」
「これでも、死にたいって、思う?」
「…………」
僕は頷いた。
「きっと、僕は、君を、助けられない…」
「助けられたいなんて思ってないよ…」
歯を食いしばる水上。喉の奥でためた後、言った。
「私はあなたを、助けたかった…」
「……」
「だって、言ったじゃない…、これは、恩返しだって…」
「………」
「私は、命を助けてもらった恩を、ありがとう…なんて言葉で済ませるつもりはないの…」
「…………」
水上がこくりと頷く。ひゅっ…と息を吸い込み、顔を逸らし、唇を結び、何か言い淀んだあと、何もかも吹っ切れたような顔で僕を見つめると、僕の心に囁くように静かで、綺麗な声で言った。
「生かしてもらったなら、私も、ミヤビさんを生かそうって…、そう思ったの…」
「…………」
「だからさ…、お願いだよ」
コツン…と、僕の額に、彼女の額が押し付けられる。
「もう少しさ、私と、お話してよ」
「………」
「ミヤビさんの声、聞かせてよ」
「………」
「私、あなたのこと、何も知らないの…」
水上紗枝の瞳から溢れ出した涙が、僕の頬に落ちた。
僕は小さく頷く。
「独りぼっちは、寂しいんだから…」
触れたった額と額。その奥に、彼女の孤独が透けて見えるようだった。
それを隠してやらないと…って思って、僕は彼女を抱きしめる。布越しに感じる彼女の身体は、些細な衝撃で壊れてしまいそうなくらい、痩せて、骨ばっていた。
何を話すわけでもない、唇を押し当てるわけでもない、その薄い皮膚の下にある体温を求めて、僕たちは抱きしめ合っていた。
そして、お互いの身体に、一定の熱が宿る頃には、夜が明けて、人通りのない道に、白い陽光が差し込んでいた。
吹きつけた風が頬を撫でた時、僕はぽつり…と言った。
「…帰ろうか」
ゆっくりと起き上がると、歩き始める。
時間が動き出したかのように、後ろから走ってきた車が、僕たちの横を通り過ぎた。風が吹きつけて、街路樹の葉をざわざわ…と揺らす。何処からともなく雀の声が響き、民家の開いた窓からは、朝のニュースが聞こえた。
喉に詰まっていたものが、少しだけ取り除かれて、なんだか息がしやすい。
「………」
僕は肩を、水上紗枝の方に寄せた。彼女もまた、僕に肩を寄せる。
二人の肩がぶつかって、熱が生まれた。
「ミヤビさんの本名って、なんだっけ…」
「黒澤、雅」
僕の中で、何かが変わり始めた気がした。
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