「…ねえ、もう一度、言って」

「…………」

「ミヤビさんの声を、聴かせてよ…」

 涙ながらの訴えに、喉元に熱いものが込み上げた。口を一文字に結んでそれを飲み込み、乾いた息を吐く。静かに頷き、声帯を振るわせようとした瞬間、また、吐き気が込み上げた。

 口を押さえて、その場に吐く。手の中に、苦い胃酸が溜まって、指の隙間から滴った。

 歯を食いしばって、耐える。

 そして、もう二度と彼女を失望させないよう、吐きながら言葉の輪郭を結んだ。

「…で、ない、んだ」

「……うん」

「こ、こえが…、で、でない…、んだ」

「うん」

「…ぼ、ぼ、くは…、ひ、ひとと…、しゃ、べ、れ、ないんだ…」

 いつからだろうか? 人としゃべれなくなったのは。

「き、み…の、ことが、き、らいな…、わけじゃ、ないんだ…」

「うん」

「き、みと、お、しゃべ、りを、したい…、って、おも、って、る」

「うん」

「けど…」

 頭を抱えた僕は、冷たいアスファルトの上に額を擦りつけた。

「しゃべれないんだ…」

「…うん」

「僕、は、君が、思ってる、ほど、立派、な、人間じゃない…」

「…うん」

「でも、君が僕の、ところに、きて、くれる、から…」

「うん」

「応えなきゃ…、いけなくて…」

「うん」

「でも、やっぱり、僕が、すごい、人間じゃないって、僕が、一番わかっているか…ら」

「…うん」

「なに、も、かも…、わからなく、なって…」

「うん」

「でも、君を、傷つけたくなくて…」

「うん」

「誰かが、傷つくところを、見たくなくて…」

「うん…」

「でも、どうすればいいのか、わからなくて…」

「うん」

「だ、だから、さ、さ、だ、から…」

 頭を抱えた僕は、大きく息を吸い込んだ。

 喉の奥に溢れた、ものを飲み込んで、乾いた唇で、彼女への想いを形作る。

「…さっきは、ごめん」

 僕たちの横を、車が通り過ぎた。巻き上げられた砂が頬に当たり、排気ガスが鼻を掠める。

 胸の中にミルクが溶け合ったような感覚の中、僕は必死に彼女への謝罪を口にした。

「怖い、思いを、させたな…。本当にごめん」

「うん」

 血まみれの腕を上げて、血まみれの頭を抱える。

「…死にたいよ」

「………」

「生き方が、わからない…」

「………」

「ばあちゃん、に、全部、奪われた…」

「…………」

「生きている、意味なんて…、無いんだ…」

「…………」

「さっきは、ほん、とうに、死ぬ、つもり、だった…」

「…………」

「ごめん」

 顔を上げた瞬間、水上が僕に迫ってきて、僕の肩を掴むと、冷たいアスファルトの上に押し倒してきた。息をのむ間もなく、彼女の唇が、僕の唇に重なる。キス…というよりも、歯と歯のぶつかり合い。

 まるで獲物の息を止める蛇のように、彼女が唇を押し付けてくる。舌まで入り込んで、僕の欠けた歯に触れた。

「…………」

 唇を離した水上紗枝は、唾を飲み込むと、涙が溜まった瞳で僕を見下ろした。

「これでも、ダメ?」

「………」

「これでも、死にたいって、思う?」

「…………」

 僕は頷いた。

「きっと、僕は、君を、助けられない…」

「助けられたいなんて思ってないよ…」

 歯を食いしばる水上。喉の奥でためた後、言った。

「私はあなたを、助けたかった…」

「……」

「だって、言ったじゃない…、これは、恩返しだって…」

「………」

「私は、命を助けてもらった恩を、ありがとう…なんて言葉で済ませるつもりはないの…」

「…………」

 水上がこくりと頷く。ひゅっ…と息を吸い込み、顔を逸らし、唇を結び、何か言い淀んだあと、何もかも吹っ切れたような顔で僕を見つめると、僕の心に囁くように静かで、綺麗な声で言った。

「生かしてもらったなら、私も、ミヤビさんを生かそうって…、そう思ったの…」

「…………」

「だからさ…、お願いだよ」

 コツン…と、僕の額に、彼女の額が押し付けられる。

「もう少しさ、私と、お話してよ」

「………」

「ミヤビさんの声、聞かせてよ」

「………」

「私、あなたのこと、何も知らないの…」

 水上紗枝の瞳から溢れ出した涙が、僕の頬に落ちた。

 僕は小さく頷く。

「独りぼっちは、寂しいんだから…」

 触れたった額と額。その奥に、彼女の孤独が透けて見えるようだった。

 それを隠してやらないと…って思って、僕は彼女を抱きしめる。布越しに感じる彼女の身体は、些細な衝撃で壊れてしまいそうなくらい、痩せて、骨ばっていた。

 何を話すわけでもない、唇を押し当てるわけでもない、その薄い皮膚の下にある体温を求めて、僕たちは抱きしめ合っていた。

 そして、お互いの身体に、一定の熱が宿る頃には、夜が明けて、人通りのない道に、白い陽光が差し込んでいた。

 吹きつけた風が頬を撫でた時、僕はぽつり…と言った。

「…帰ろうか」

 ゆっくりと起き上がると、歩き始める。

 時間が動き出したかのように、後ろから走ってきた車が、僕たちの横を通り過ぎた。風が吹きつけて、街路樹の葉をざわざわ…と揺らす。何処からともなく雀の声が響き、民家の開いた窓からは、朝のニュースが聞こえた。

 喉に詰まっていたものが、少しだけ取り除かれて、なんだか息がしやすい。

「………」

 僕は肩を、水上紗枝の方に寄せた。彼女もまた、僕に肩を寄せる。

 二人の肩がぶつかって、熱が生まれた。

「ミヤビさんの本名って、なんだっけ…」

「黒澤、雅」

 僕の中で、何かが変わり始めた気がした。

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