⑦
十分ほど蹲って、ようやく動けるようになったから立ち上がった。やっぱり、右太ももと、足裏は痛かったけれど、このままでいるわけにはいかないから、歩き始める。
僕が歩んだ道には、血が点々と滴っていった。
帰ったら、何をしよう…。
自殺をしようか…。でも、僕は能無しの役立たずだから、上手く死ねる自信がない。
じゃあ、生きるのか? と言われれば、それも違う。
「…………」
風にさらわれるビニール袋みたいにふらふらと歩く僕は、死ぬこともできない。生きることもできない。どっちつかずのガラクタであった。
その時だった。
「やめてよ!」
路地の向こうから、助けを求めるような水上の声が聞こえた。
僕は我に返り、一瞬、嬉しく思ったが、その不穏な声に身を強張らせる。
「やめて! 放して!」
また、水上の声。
僕は背中を蹴り飛ばされたように走り出すと、右脚を引きずりつつ、声がした方に向けて、路地の角を曲がった。道の先にあったものを見て、思わず立ち止まる。
無意味に点滅を繰り返す信号機。その淡い光の下で、小さな水上を取り囲む、三人の男たちの姿があったのだ。
男たちは水上の腕を引っ張り、脇に停めた車に引きずり込もうとしている。
対して水上は、悲鳴をあげながら必死に抵抗をしている。
「ほら、家まで送ってあげるから」
「うるさい! 私は一人で大丈夫だって!」
「夜は危ないって。お兄さんたちが安全に連れて帰ってあげるから」
「そんなわけないでしょ!」
そうやって金切り声をあげて抵抗を続ける水上に、取り囲んでいた男の一人が舌打ちをした。
「おい、もう時間かけられないぞ」
「そうだな、無理やり連れてくか」
その声を合図に、三人が水上の身体を抱える。
水上は、打ち上げられた魚のように暴れた。
「ねえ! やめて! 放して! お願い! 痛い!」
そのまま、開いた車に押し込まれようとする。
僕は咄嗟に走り出したが、頭の中に祖母の声が響いた。
『首を突っ込むな。お前ひとりで何になる』
「………」
まるで地面から手が生えて、足首を掴まれたかのように、動けなくなった。
「…、あ、ああ…」
この状況…、祖母ならなんて言うだろうか?
『男の家に警戒心も無く通っていた女にはお似合いさ。放っておいたって構わないよ』
「あ、ああ…」
脚を引きずり、また一歩踏み出す。
祖母なら、なんて言うだろうか?
『何をやっているんだい? 早く帰らないか』
水上が、一人の腕に噛みついた。
痛みのあまり、男が手を離す。その拍子に、彼女の身体が落下して、アスファルトの上にしたたかに腰を打ち付けた。
「この女! くそが!」
一人が、水上の腹を蹴りつけた。彼女は、「きゃあっ!」と悲鳴をあげ、丸くなる。
水上が厄介だとわかった男たちは、車に押し込むより先に黙らせるため、彼女を蹴り始めた。
蹴られる度に、水上がうめき声をあげる。
男たちは楽しくなってきたのか、下品な笑い声をあげた。
「……………」
僕はまた一歩踏み出す。祖母ならきっと、「やめろ」という。
それでも一歩、踏み出す。
僕ならきっと、「助けたい」って思う。
きっと、これから先の僕の行動すべてを、祖母は否定するのだろうな。
だけど、それでも…。
やっぱり…、嫌な思いをする人を見るのは、辛かった。
死ぬなら勝手に死ねよ。
だけど、自分が救い上げた命くらい…、責任もって助けろよ…。
「おまわりさあああああああん! こっちでええええええええす!」
街路樹の陰に隠れた僕は、天を仰ぎ、そう叫んでいた。
突然、闇夜に響き渡る声に、水上を蹴っていた男たちが硬直する。
僕はさらに叫んだ。
「おまわりさあああああああん! お願いしまああああああす!」
そんなわけないだろ? ただのオオカミ少年さ。だけど、悪いことをしている自覚はあったのか、男たちはその「おまわりさん」という言葉に、敏感に反応した。
大きく肩を震わせると、水上を放って、いそいそと車に乗り込む。次の瞬間にはエンジンがかかり、車の側面を路肩の植え込みに擦りつけながら、一瞬で走り去ってしまった。
排気ガスが漂う、夜の道。水上が泣きながら倒れている。
それを見た僕は、静かに、踵を返した。
逃げるように、歩き出す。
「ま、待って…」
振り返ると、彼女が僕の方を見ながら、身体を這わせていた。
「お願い、待って…」
「…………」
そんなことを言われて、待たないわけには、行かなかった。
僕は彼女の駆け寄り、蹴られて青く腫れた頬を撫でた。彼女は僕の手を掴むと、顔を押し付けて泣いた。
「ありがとう…、助けてくれて…」
「あ………、あ………」
僕は声を出そうとしたけれど、やっぱり、出ない。
ああ、やっぱり、僕はダメだなあ…。
水上が顔を上げる。しゃくり声をあげると、僕を安心させるように笑って、言った。
「…ねえ、もう一度、言って」
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