喉の奥に栓をされたみたいに、言葉を発することができなくなって、無理やり出そうとすれば、熱くなって吐いた。

 人と喋ろうとすれば、「怒られるんじゃないかな?」「殴られるんじゃないかな?」「どこか冷たいところに閉じ込められるんじゃないかな?」って思って、何を言えば良いのかわからなくなって、そもそも、息の仕方も、声帯の震わせ方もわからなくなって、何もできなくて、頭の中が真っ白になって…。

 結局、誰とも喋ることができなくなって…。

 頑張って始めたバイトも辞めた。せっかく入学した大学だって、友達を作ろことが出来なかった。

 僕は、人とお話をすることが、できない…。

 もうずっと祖母の言いなりになっていたから…。

 声の出し方を、忘れた…。

「あ、ああ…、ああ、ああ…」

 僕は、立ち上がると、救いを求める亡者のように、ふらふらと足を踏み出す。

 階段を降りようとしたところ、足を踏み外した。

 反射的に手すりにつかまったが、身体を支えるほどの力が出ず、そのまま転がり落ちる。 

 ガラガラガッシャンッ! と、夜の闇に、痛々しい音が響き渡った。

 痛い。体中痛い。でもだめだ。追わないと。

 僕は額から血を流しながら立ち上がり、また、歩き始める。

 一階の管理人室から、音を聞きつけた管理人さんが出てきて、僕の名を呼んだような気がしたが、無視をして道路に出た。

 僕は裸足で、しかも、右太ももの激痛で、走ることができない。もう彼女に追いつくことは、できなかった。それでも、僕は進み続けた。

 肺に血が巡り、喉の奥で噎せるような鉄の味がする。それを唾と一緒に飲み込み、歩いた。

 祖母の声が言った。

『逃げるのかい?』

 歩く。

 祖母の声が言った。

『情けないね』

 歩く。

 祖母の声が言った。

『私のいうことを聞かないからこうなるんだよ』

 歩く。

 祖母の声が言った。

『お前は、私がいないとダメなんだ』

 歩く、歩く、歩く、歩く、歩く…。

 歩いて、歩いて、歩いて、歩いて…。

 背後霊のように、僕の記憶にこびり付く祖母の面影を、夜の路地に放り出して歩いた。

「……………」

 気が付くと、僕は公園に立っていた。

 自販機が意味もなく光り、それに吸い寄せられた羽虫が乱舞している。

 そよそよと吹き付ける風に、ブランコが小刻みに揺れていた。その傍にある看板には、「ボール遊び禁止」の文字と共に、男の子の絵が気休め程度に添えられていた。それが、ちかちかと光る街灯に照らされ、不気味に映る。

「……………」

 完全に、水上の姿を見失ってしまった。

 どうしようもなく、とりあえず、色褪せたベンチに歩いていこうと一歩踏み出した瞬間、足の裏に激痛が走った。身体の力が抜け、その場に跪く。地面のごつごつとした砂が痛い。

 見ると、足裏がぱっくりと切れて、鮮血が流れ落ちていた。道中に踏みつけたガラス片でやったのだろう。立ち上がろうにも、痛みと、酸欠と、疲弊でその場から動けない。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 夜なのに、昼間のように辺りが白っぽく見えた。

 我が身を抱くようにしてその場に蹲った。「はあはあ」としていた荒い息は、いつの間にか、「くそくそくそ…」と、誰かに対する恨み言に変わる。

 頭皮に、少し伸びた爪を立てて、ガリガリと引っ掻いた。足の痛みの方が勝って、髪の毛が数本抜けようが、切れた頭皮から出血しようが、何も感じない。

 歯を食いしばって、心臓の裏から込み上げる激情を抑えていると、「あはははは…」と、誰かの笑い声が、僕の耳に届いた。

「あはは、ははっ、あははははははは…」

 僕の笑い声だった。

「はははは…、あははははは…、あは…」

 その瞬間、僕は黒い空を仰いで、叫ぶようにして笑っていた。

「あははははははハハハハハハハハハハハハハハッ! あはははははははははははッ! あははははははハハハハハハハハハハハハハハハは! ははははッ! あはははッ!」

 筋肉に鞭を振って立ち上がると、拳を強く握り締める。

 その拳で、自分の頬を殴った。

骨と薄皮が拳で潰され、ゴツンッ! と、鈍い痛みが広がる。花火のように視界がチカチカと点滅して、僕はよろめいた。

「あははははははハハハハハハハハハハハハハハハはッ!」

 踏みとどまり、もう一発、自分の顔を自分の拳で殴る。

 今度は顔が大きくのけ反って、踏みとどまることができず、背中を地面に打ち付けていた。

「あははははははははは!」 

 それでも、僕は狂ったように、いや、狂いながら笑い、仰向けの状態で自分の顔面を殴る。

 何度も殴る。 それから、手をついて身体を起こすと、額を地面に叩きつけた。

「あははははははハハハハハッ! あはっ! あはははははははははは!」

 何度も叩きつけていると、遂には額の皮が裂けて、赤い血がびちゃびちゃと流れた。

 黒く染まっていく地面を見ながら、僕は叫んだ。

「やったああああああああああああああああ!」

 拳を握り締め、もう一発顔を殴る。よろめいて、倒れる。

 仰向けになり、天に向かって叫ぶ。

「やったぞおおおおおおおおおおおおおお!」

 喉にチリッとした痛みが走る。こんなに大声を出したのは、生まれて初めてだった。

「やった! やった! やった! やった!」

 駄々をこねる子供のように、手足をばたつかせて、地面に叩きつける。

「死んだああああああああッ!」

 目頭が熱くなる。割れた額から流れる血と同じくらい熱い液体が、ぼろぼろと溢れた。

「やったああああ! 死んだアアアあああッ! 死んだ!」

 拳の腹を、硬い地面に叩きつける。

「ざまあ見ろおおおおおおおお!」

 殴る。殴る。殴る。殴る。

「死んだ! 死んだ! あはははははははっ! 死んだ! やったああああああああッ!」

 祖母が死んだ。二十年間、僕を苦しめてきた祖母が死んだ。

 死んだ。

 祖母は、鬼のような顔をして死んだ。

 祖母の人生に、意味は無かった。

つまり、僕の人生にも、意味は無かった。

 祖母の育て方は、間違っていたということだ…。

 祖母が僕に教えてくれたことは、これから先の人生で、何の役にも立たないということだ。

「あはははははははははははははッ!」

 僕は地面に手をついて立ち上がると、縁の下で死んでいる猫のように、頭を抱えて蹲った。

「幸せだああああああああああああっ!」

 血と涙が混ざり合った液体を、垂れ流しながら、地面を殴る。何度も殴る。

 傷口から流れる血を、まるでパーティーの紙吹雪のように散らして、僕は天を仰いだ。

「自由だあああああああああああああああああッ!」

 そうだ。僕は自由だ。僕は嬉しいんだ。

 祖母が死んで、もう僕を縛る者はいない。

 好きな服を着ることができる。漫画も、ゲームも買える。友達付き合いだってできる。好きな大学に進学することも、好きな仕事に就くことも、僕の思うままだ。

 大好きな人だって、僕自身の意思で決めることができる。

「あはははは…、あはははっはは…」

 風船の空気が抜けるように、僕の声が消え入る。

「は、ははは…」

 喉の奥から、どろっとした淡が流れ出て、血だらけの砂の上に落ちた。

 叫び過ぎたせいで、喉に針をさされているかのような痛みが残る。息を吸い込んだだけで、チクチクと痛い。

「やった…、ぞ…」

 僕は皮が剥けた手で、自身の頭に爪を立てた。

 ぼさぼさの髪の毛を、さらにぐしゃぐしゃにしながら、頭皮を引っ掻く。

 その瞬間、胃がうねり、熱いもの食道を通って逆流してきた。

 たまらず、僕はその場に吐いた。胃酸が、噎せるような臭気を放つ。

 深夜の公園で、男が叫び、泣き、自傷して、嘔吐する。

 自分がしていることを一つ一つなぞるようにして自覚した瞬間、空腹と共に、たまらない虚無感が僕を襲った。

 唸りながら、絞り出す。

「独りだ…」

 頭に響く。

『お前は馬鹿だね』『お前は阿呆だね』『お前は畜生だ』『お前は障碍者で…』『お前は猿の脳ミソ以下だ』『お前は…』

 挙げだしたらキリがない。祖母が僕に対して使った「役立たず」を表す言葉。

 そんなことないよ。きっと僕は大丈夫。僕は祖母が言うような人間じゃない。そりゃあ、有能でもないかもしれないけれど、それでも、無能じゃない…。

 心の中ではそう思っていた。

 けれど、ああ、やっぱり僕は馬鹿なんだ…って、実感する。

 溺れていた水上紗枝を助けたのが、一か月前。彼女が僕のアパートに通うようになったのが、一か月前。僕と過ごした時間が、一か月。

 どうして彼女は、休むことなく僕のところに来てくれたと思う? 僕が命の恩人だから? 最初はそうだっただろうよ。けど、僕は陰気臭い生活を送っていて、死んだ魚の目をしていて、壊れかけたロボットみたいに、緩慢な動きしかできない。そして、話しかけたって、頷くばかりで、会話なんてできたもんじゃない。実際、通うようになった一週間は、水上は全く僕の仕草の意図を理解することができていなかった。

 一緒にいたって、ぎこちないだけ。

 面白味も何もない男に、どうして彼女はついてきてくれたと思う?

 どうして、僕の仕草から、僕の言いたいことが理解できるまでに、僕と接してくれたと思う?

 それはきっと、彼女は気づいていたんだ。僕の心にも、傷があるってことを…。

 そして、彼女も心に傷を負っていたから…、一緒に癒そうとしてくれたんだ。でなきゃ、こんな男になんか愛想つかせてさっさといなくなるに決まっている。

 彼女は全部、気づいていた…。だけど僕は馬鹿だから…。彼女の優しさに気づけなかった。最後の最後で祖母の言葉を信じてしまって…、彼女を傷つけた…。

 全部、ばあちゃんの言う通り。

 僕は馬鹿だ…。救いようのない馬鹿だ。

「…………」

 風が吹いていた。夏には似合わない、氷で冷やしたみたいな風だった。

 それは僕の腫れあがった頬を撫でて、ピリピリ…とした痛みを走らせる。ぼんやりとしていた世界が少しだけ明るくなって、でもまた、うっすらと暗くなる。吐き気がこみ上げたが、もう喉の奥から出るものは無い。

 甘い空気を吸い込んで胸の奥で溶かし、そして、生暖かい息を吐きだす。

 素足が、砂利だらけの地面を踏みしめる。とがった小石が踵に刺さったが、もう既知の痛みであり、身体が反応することはなかった。

 腕から血が滴っている。爪の間には、腕の皮膚がこびりついていて、詰まった感覚が妙に気持ち悪い。

 道端にある、ごみ収集の網。躱したつもりだったが、小指が引っ掛かった。

 踏みとどまろうと右足を出したが、太ももに激痛が走る。バランスを崩し、顔面から転げ、道路にファーストキスをした。ゴチン! と嫌な音。鼻血を流しながら顔を上げると、口の中にざらついた感覚が残った。ペッと吐き出し、地面を数回跳ねたそれは、欠けた歯だった。

「……………」

 祖母の葬式は終わった。

もうこの世には、祖母はいない。

 植え付けるだけ植え付けておいて…、めちゃくちゃにするだけしておいて、祖母は行ってしまった。

「…………」

 生き方が、わからない。

 何も教えられなかった。何もかも奪われた…。

 僕を水槽の中の魚に例えるとしたら…、突然、雄大な川の中に放り出されたようなものだった。水が流れることも知らない。他の生き物がいることも知らない。餌の取り方も。住処の見つけ方も、全部、わからない。

「………」

 もう歩けなくなった僕は、道端の電柱に背を持たれて座り込んだ。

 じわ…と、身体のあちこちから血がにじむ感覚がする。

 静かに涙を落しても、拭いてくれる者はいなかった。

「…………」

 これは、詰みってやつだった。

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