第五章『やった。死んだ』
①
目を覚ました時にはもう、昼、夕方を過ぎ、辺りは真っ暗になっていた。
暗闇の中、隣には水上紗枝の体温を感じる。彼女を踏みつけないようにしながら、そっと立ち上がり、手探りで机の明かりを点けた。
白い光で照らされる室内。水上の頬の輪郭が淡く浮かび上がる。
台処を見ると、コンロに鍋が掛かってあった。中には、お味噌汁。きっと、僕が目覚めた時のために作ってくれたんだ。
枕元にあったスマホが光る。着信が、五件。メッセージが、三件。
僕はスマホを掴むと、音を立てないようにしながら外に出た。
時刻は九時半。まだ大丈夫だろう…と思い、伯父さんに電話を掛ける。
まるで待っていたかのように、ワンコールで出た。
『もしもし?』
「…………」
『ミヤビ君かい?』
「………あ、は、い」
消え入るような声で頷く。
『なんで来なかったんだ。君のおばあちゃんの葬式なんだよ?』
案の定、伯父さんは強い口調で、僕が葬式に来なかったことを咎めた。
『大学は今、夏休みだろう? バイトがあったのかい? そのくらい休めるじゃないか…。おばあちゃんは君の恩人なんだよ…?』
「……………」
そう言えば、以前、僕を置いて逃げていった父がこんなことを言っていたな…。
祖母は全員にあのような態度をとるわけじゃない。祖母は、好き嫌いが激しい人だ…と。
父の兄であるこの人は、そういう扱いを受けなかった人だ。
だから、こんなことが言えるのだろう…。
「………」
『みんな残念がっていたよ。ミヤビ君が来なかったから』
そして他の親戚らも、祖母の本当の姿を知らないのだ。
彼らは祖母について、「虐待されて辛い思いをしている孫を引き取り、国立大学に行くまでに立派に育て上げた、立派な母」…なんて認識をしているのだろう。
『キミが来なかったおかげで…』
そう言って、伯父さんが息を吸い込む。
『おばあちゃんも、悲しそうな顔をしていたよ…』
「…………」
思わず、目を見開いていた。
くらっ…とめまい。背中から倒れそうになったが、何とか踏みとどまる。
『おばあちゃんを、悲しませたらダメだよ』
情に訴えるように言う。その言葉を、僕は「嘘だ…」という心の叫びでかき消していた。
…うん、違う。これだけは断言できる。「悲しそうな顔をしていた」…なんて嘘だ。あんたらの目が、節穴なだけなんだ…。
祖母はきっと…、「鬼のような顔」をしていたんだ。
「…………」
昔祖母が言っていた。死ぬ人間には二つの顔がある…って。
一つは、安らかな顔。もう一つは、鬼のような顔。
安らかな顔をしていた者は、とても素晴らしい人生を送ってきた。大して、鬼のような顔をした者は、ろくでもない人生を送ってきた。
死者の顔を見るだけで、その人の人生がわかる…。
祖母は幼い僕にそう言い聞かせていた…。
「…………」
伯父さんの口から「安らかな顔をしていたよ」…という言葉が出なかったということは、つまり…。そういうことだ。
『とにかく、四十九日は来なさい。夏休みなんだろう? 予定なんてすぐに組めるさ』
「………」
『もしも交通費が足りないというのなら、そのくらいは出してあげるから』
叔父さんは念を押すように言った。
『おばあちゃんを、悲しませたらダメだ…』
「…………」
ガシャンッ! と、酷い音がした。
はっ…と我に返る。
見ると、足元にスマホが落ちていた。屈んで拾い上げてみたが、当然、ガラスは粉々に砕けて、画面は真っ黒になっていた。電源ボタンを押しても反応することは無く、砂のようなガラス片がパラパラと落ちるのみだった。
僕はスマホを振り上げ、また地面に叩きつける。
スマホは乾いた音を立てながら跳ね上がり、落ちる。緑色の基盤がむき出しになっていた。
「……………」
僕は握った拳を、自分の太ももに叩き込んだ。
鈍い痛みが太ももに走る。それでも、再び拳を振り上げ、殴る。痛い。でもやめない。拳を振り上げて、殴る。殴る。殴る。何度も殴る。やがて感覚は無くなって、僕はぶよぶよした肉の塊に、ひたすら拳を叩き込んでいた。
そして、手の腹までもが痛くなったところで、やめた。
「…………」
数十発殴られた僕の太ももは、ズボン越しでも真っ青に腫れあがっているのが分かり、少し動くだけで、皮膚が引き裂けるような感覚がした。それでも、その場に留まっておくわけにはいかず、立ち上がる。骨は折れていないようで、何とか歩くことができた。
「…………」
昔、ある本で読んだ、チンパンジーが人間に対して謀反を起こした…という話を思い出した。ある動物園で飼育されていたチンパンジーたちが、人間を殺害し、逃亡したのだ。けれど、そのほとんどが野生の環境に適応することができず、一週間としないうちに、園に戻ってきた…。
もう一つ、こんな話を思い出した。日本に伝わる、ある風習のことだ。
その村で生まれた子どもは、長男、長女以外は、召使いとして育てられ、結婚も、村の外に出ることも許されない…そんな風習だった。それに疑問を思った者たちが逃げ出したけれど、人との付き合い方を知らなかった彼らは、すぐに居心地の悪さを覚え、家に戻り、再び召使いとして死ぬまでこき使われた…。
何処かの偉い人が「環境が人を作る」と言った。
何処かの偉大な人が「置かれた場所で咲きなさい」と言った。
その言葉が正しいとするのならば…、僕は、祖母の下で生きるべきだった。
そもそも、僕は「祖母の子」として育てられたんだ…。
もう、僕の人生の形は「祖母の子」に変わってしまっていた。
逃げ出したチンパンジーが、野生に適応することができなかったように…。
召使いとして使われていた者たちが、外に出ても帰ってきたように…。
今の環境から逃げ出すような行為は…、裸のまま、炎の中に飛び込んでいくのに等しかったのだ…。
「…………」
さて、どうするべきかね…。
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