震えながら振り返ると、祖母が割れた皿の破片を握り締めて立っていた。

 顔は相変わらず真っ赤で、過呼吸を起こしているのか、全身が上下に揺れている。

「行かせないよ…」

 馬鹿の一つ覚えのように、祖母は言った。

「行かせない。私のいうことを聞け。お前は私がいないと生きていけないんだ。私の言う通りにしておけば、困ることなんて無いんだ。私の方が人生の先輩なんだよ。私に逆らっていいと思うのか…!」

「おい…」

 僕は祖母を睨んだ。だめだ、目元に力が入らない。

「犯罪だぞ…!」

「犯罪なわけるか。私はお前の親代わりだ。親のいうことが聞けないんだから、手を上げられたって仕方がないだろう」

 祖母の手の中から、皿の破片が零れ落ちる。

「口で言ってもわからないなら、畜生と同じだよ。調教してやらないと…」

 皿の破片の代わりに、祖母は、僕の手から落ちた「合格証」を拾い上げた。

「親に逆らうな。ちゃんと教えてきたつもりだったんだけどね」

 次の瞬間、祖母は私立の合格証を真っ二つに破った。

 僕は「あ…」と、声を出し、鼻と後頭部から血を垂れ流しながら立ち上がろうとした。しかし、脳震盪を起こしているのか、下半身に力が入らない。

 僕が床の上であぐねている間に、祖母は合格証を細かく破り、紙吹雪にして飛ばした。

 これで大丈夫だ。と言わんばかりに、にんまりと笑う祖母。

 国立の合格証を大事に抱きしめた。

「お前がいけないんだ。私を騙したんだから、このくらいの罰が当たったっていいだろう?」

「てめえ…」

「国立に行ったら許してやるさ。金の支援もしてやる。どうしても県外の私立に行きたいなら、国立を卒業して、いい企業に就職して、金を稼いでから自分の力で行きな」

「だから、一人の力で行こうとしてただろ…」

「馬鹿だね。お前はまだ十八だよ? 十八の餓鬼が、私の助けなしに生きていけるわけないじゃないか。いいかい? 勝手気ままに生きてたら、必ず首を吊ることになるよ?」

 祖母はテーブルの椅子に掛かってあったタオルを掴むと、僕に向かって投げた。

「ほら、血を拭きな。情けないね。このくらいで半べそかくんじゃないよ」

 僕はタオルを掴む代わりに、床に散らばった皿の破片を握った。

 あのままだったら、僕は祖母の顔面をその破片でざっくりと切っていたことだろう。幸か不幸か、それを止めたのは、仕事から帰ってきた僕の父親だった。

 僕と祖母が対峙しているのを見て、「またいつものか」と思って辟易したような顔をしたが、僕の鼻や頭から血が流れ落ちていることに気づき、ただ事ではないと理解したらしい。いつもは早々に自室に引っ込んでしまうのに、その日は「何やっているんだ!」と飛び込んできた。

 父親に怒られたのは、僕だった。

「何やってるんだ!」

 父は、血まみれの僕の顔を殴った。

「どうして、ばあちゃんを怒らせたんだ! もっと穏便にできなかったのか!」

 そう言えば、この人は、最初に祖母に育てられた人だったな…。

 この数か月、まったく話していなかったから、忘れていたよ…。

 祖母はもちろん父親も、頭から血を流す僕を病院に連れていくようなことはしなかった。ただ、タオルで抑えて止血しただけだった。おかげで、僕の後頭部には、今でもその傷跡が残っている。髪で隠すことができるのが幸いだった。

 祖母は、入学申請書まで破り捨てた。父親は、「大学なんてどこも同じだ。諦めろ」と言った。

 結局、僕は望んだ私立大学に行くことはできず、カモフラージュのために合格していた、県内の国立大学に進学した。祖母はご満悦だったよ。近所中に言って回った。いろんな人から、赤飯とか、果物とか、お祝いの品を貰ったけど、全部捨てられた。

 アパートも祖母と一緒に選んだ。部屋の家具も、祖母と一緒に買いに行った。祖母のセンスは最悪で、古臭いデザインのものしか買わなかった。「もう少しかっこいいのがいい」と言うと、「私の方がセンスがあるんだよ! 私が選んだやつを使え!」って怒鳴られた。

 祖母は「大学生になるんだから、もう少し服装に気を使わないとね」と、僕にたくさんの服を買い与えた。キャラクターものとか、迷彩柄のズボンとか、どれも、小学生が着そうなダサいものばかりだった。

 気が付くと、僕は祖母の言いなりの人形になっていた。

 祖母が選んだ家具を買い、祖母が選んだ服を着る。祖母が選んだアパートと契約して、家具の配置も、全部祖母が決めた。「机の本棚は、勉強のためのものしか置くな」って言って、祖母の家にあった、僕の小説を全て処分した。

 大学生になるんだから、もう少し大人っぽくしなさい。

 何もかも奪い取られて、祖母の気に入ったものを与えられる。

 入学式の時、祖母は張り切って着物で来て、注目の的となった。もちろん、向けられるのは希有な目だった。帰ってから、祖母は憤慨した。「私のことを婆だと思いやがって! 新大学生を育て上げた母親だぞ!」って。

 一通り、引っ越しの準備を終えた祖母は、部屋でぼうっとする僕の頬を引っぱたいた。

「なに惚けているんだい? 今日から花の大学生なんだから、しゃっきりしな! お前は私の誇りなんだから!」

 誇り?

 祖母は、「じゃあ、また一週間後に来るから、部屋を綺麗にしておくんだよ! 漫画は絶対に買うな。女も上げるなよ! お前と吊り合う人間なんて早々いてたまるか!」と言うと、父親の運転する車で、実家に帰った。

 祖母の声が聞こえなくなった途端、水を打ったように静かになるアパートの部屋。

 大学から出されている宿題があったが、僕は手を付けず、椅子にどすんと腰を掛けた。

 自分の着ている服を見る。

 濁った緑色のパーカーに、迷彩柄のだぼっとしたズボン。靴下は、くるぶしよりも上まであり、アディダスのロゴが入っている。統一感の無い、ださいファッションだ。祖母は「今はこういうファッションが流行っているんだ!」って言ってたけど、いつの話だろう?

 折り畳みのテーブルの上に、スマホが置いてあった。

 僕はそれをひっつかむと、声にならない叫び声と共に、畳に投げつけていた。

 跳ね返され、畳に乾いた音を立てて転がる。振動を検知した液晶が淡く光った。

 僕は過呼吸を起こして、その様子を見ていた。

 目からぼろぼろと熱い液体が零れ落ちる。頭をくしゃくしゃに引っ掻くと、あの時の傷のかさぶたを抉ってしまい、また、焼けるような痛みと共に血が流れた。

 結局、僕は祖母から逃げられなかった。

 僕は、何処にもいけない。行けないんだ。

 そして、気が付くと…。

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