⑤
昔のことを、夢に見た。
「県内の大学にしな」
高校三年生の受験期に、祖母は台所で沢庵を切りながら、僕にそう言った。
「県内の大学なら、私もついていくことができる」
「まあ、そこらへんは、もう少し考えてみるよ。大学は日本中にあるからさ」
その言葉に、祖母が首をぐるっと回して振り返った。皺だらけの手で握っていた包丁を、まな板の上にガツンッ! と打ち付ける。薄く切られた沢庵が数枚床に落ちた。
「県内の大学しか許さないよ」
「いや、なんでさ」
「耳が聞こえないのかい? 若いのに情けない。近くの大学に行ってくれた方が、私がお前の面倒を見ることができるからってんだ」
いや、確かに県内の大学なら国立だから、金もかからない。僕の成績じゃいけない偏差値でもない。だけど、そこの大学には、僕の勉強したい学部なんて無いし…、それに、祖母のいいなりになっているような気がして嫌だった。
どうにかして、県外の大学に進学して、祖母から逃亡しようと、僕は密かに考えていた。
祖母は包丁をまな板の上に置くと、曲がった身体で鈍重に振り返った。
「まさか、他の大学にいくつもりじゃないだろうな?」
他の大学に行くつもりだった。だけど、何とか誤魔化す。
「その…、他の手段も見ておきたいって…。だから、うん、大学なんて山ほどあるんだから、すぐに『これだ!』って決めるんじゃなくて…、ほかの手段も見ておきたいって言うか…」
「そんな必要は無いね。お前は県内の大学に行くべきだ」
「なんでそう断言できるの?」
「だってそうだろう」
祖母の顔が少しだけ赤く膨れ上がるのがわかった。
「お前、県外の大学に行って、どうやって生きていくつもりだ?」
「どうやって?」
「大学は、タダじゃいけないぞ?」
「そりゃ、奨学金があるじゃないか」
「は!」
祖母は馬鹿にしたように笑った。
「奨学金は、借金だぞ? お前、まだ自分で稼げないくせして、金を借りるってのかい? そうかいそうかい、お前も随分と偉くなったもんだ」
「いや、奨学金ってそういう制度だろ」
「あいわかった。奨学金で学費はなんとかするとして、生活費はどうするつもりだい?」
「生活費? バイトをするに決まっているじゃないか」
そう答えると、祖母はまた小ばかにしたように笑った。
「バイトでどれだけの金が稼げると思っている? ああ? 大学は、高校よりも厳しいところだぞ? 今までみたいにおんぶにだっこじゃいけないんだぞ? アパートの敷金、家賃、水道代、電気代、携帯代、食費、ガス代…、全部自分一人で払うんだぞ? 十万は軽く越えるぞ? 勉強しながら、十万、稼げるのかい?」
僕は言い淀んでしまった。確かに、そこまで細かい計算はしたことが無かった。
祖母は腕を汲んで、そっけなく言った。
「もし、県外の大学に行くようなら、私はお前を助けないよ? 言っとくが、ここまで甘い考えを持っているってなら、お前はすぐにでも野垂れ死ぬね。私の友達の息子も、考え無しに大学に進学して、首吊り自殺をした奴がいたんだ。お前も、首吊りしたいのか?」
首吊りは嫌だなあ…。
「くだらないことは考えるな。お前は、県内の大学に行けばいいんだよ。そうしたら、私がお前を助けてやれるからね」
それ以上、祖母は何も言わなかった。
県内の大学に行けば祖母がついてくる。生活に困ることは無いだろうが、勉強したいことも無いので、きっと地獄だろう。逆に県外の大学に行けば、祖母は来ない代わりに助けてくれない。そうして、生活に困窮して自殺。どうあがいても、僕の目の前には、破滅の道しか残っていなかった。これは、詰みだった。
学校では、皆、受験勉強に切磋琢磨しながらも、その目は希望で輝いている。「ここの大学のサークルに入りたい」とか、「大学に行ったら、何しよう」とか、「一人暮らし楽しみだね」って、まだ合格してもいないのに、未来のことに胸を高鳴らせていた。
いいよな。「命」を守らなくても生きていける奴らは。金とか、親とか、そういうものに患わされずに生きていけるんだから。
アパートはどんな部屋がいい。とか、家具の色は白がいい。って話を聞く度に、「大学ってもう少し、希望を持って進むものだと思っていたな」。と悲観する。将来の自分の姿を想像すると、背中に「命」を貼りつけているみたいだった。
いつまで経っても、第一志望が安定しない僕に、先生は痺れを切らし、何度も呼び出してきた。その度に、職員室の机をとんとんと叩きながら、「他の奴らはもう決めているぞ?」って急かした。その度に、「もう少し待ってください」と言った。
「大学に行く気はあるんだよな?」
「あります」
大学には行ってやる。さて、どうするか。
我が身可愛さで、祖母の言いなりになって、県内の大学に進学して、つまらない勉強内容に辟易するか。自分の意思を貫いて、県外の大学に進学し、生活に困窮して首を吊るか。
命のことを考えれば前者を選ぶべきだったが、祖母と一緒にいたって、いつかは首を吊る。結局、死ぬことに変わりはない気がした。あい、わかった。
だったら、三つ目の道を作るまでだった。
僕は大学の資料を注文しまくった。とにかく、学費が少なくて、祖母も納得して、一人で生きていける場所を探した。
家に大学の資料が届く度に、祖母は、「県内の大学に行くんだから、要らないだろ」とゴミ箱の中に捨てた。その度に、僕はこっそりとゴミ箱から回収して読みふけった。
そして、奨学金制度が充実している私立大学を見つけた。
学費自体は高いが、試験の成績優秀者は全額免除。寮があるから、家賃も安い方だ。今の僕の成績でも十分通用する偏差値。倍率もそこまで高くなかった。
やってやる。やってやるよ。
この大学を受けて成績優秀なら、学費全額免除。そうしたら、奨学金は生活費に回せる。バイト代と合わせれば、かなりの余裕ができるはずだ。やってやるさ。
僕は、祖母には「県内の大学にするよ」と嘘をついて、私立の大学の勉強に専念した。模試で合格点を越えようと、成績優秀者になるために、ペンだこから出血するくらい書きまくった。
祖母は大学について口うるさく言っているが、前期試験、後期試験、センター試験の違い、さらには、私立と国公立の試験日の違いがわからないほど無知だった。
これが、僕が祖母に対して起こした、最初で最後の謀反だった。
勉強して、勉強して、勉強して、勉強して。センター試験を受けて、県内の国立大学も受け、本命の私立大学はセンターの結果のみで受験した。結果として、僕は二つとも合格した。
最高の気分だった。
祖母は、県内の国立大学の合格証を見て、「私の言うとおりにして良かっただろ」と胸を張る。すぐに、ご近所に自慢しに行こうとする祖母に、僕は私立の方の合格証を見せる。
「悪いけど、こっちの大学に行くよ」
祖母は当然、一瞬目を丸くして、「何を言っているんだ?」と言った。
僕は祖母に、一から十まで説明した。県内の国立の大学には行きたくない。だって、勉強したいことがないから。だから、お前に内緒で、国立と平行して私立の受験もしていた。ここなら、僕の勉強がしたいことがあるって。
祖母は怪訝な顔をしながらも、「馬鹿なことあるか」と言った。
「私立と国立じゃ、学費は月と鼈だ。私立になんて行かせないよ」
「残念、僕はいけるんだな」
そう言って、僕は「特待生 学費免除証明」を祖母に翳した。
「試験のテストで、一番を取った。これで、僕は特待生枠で入学できる。今年一年は、金は要らない。来年だって、今の成績をキープしておけば、学費は払わなくていい」
祖母の顔がむくむくと赤くなっていく。
「県内の大学なら、いつでもここに帰ってこれるじゃないか。生活費も高いんだぞ、お前、県外の大学に行ってみろ! すぐに首を吊ることに…」
「残念、首なんて吊る必要は無い」
僕はそれから、学生寮のパンフレットを取り出して、祖母に見せた。
「特待生枠だから、学生寮の家賃も半額なんだよ」
「馬鹿言え! 例え半額だとしても、国立に進んだ方が安いはずだ!」
「じゃあ、計算してみようか?」
僕は電卓を取り出して、祖母の前で計算した。国立大学の入学金、前期、後期の学費、それに合わせて、同窓会の会費。アパートの家賃は、その近くの不動産の平均額を使った。生活費とか光熱費、娯楽費も足して、県外の私立の値段と比較する。
「ほら」
一年で、十万ほどの差があった。
「確かに、まともに行ったら、国立の方が安いだろうな。だけど、僕は特待生だ。ばあちゃん、『特待生』って言葉好きだろ? 名誉が好きで、恥が大っ嫌いだもんな」
祖母の顔がゆでだこのように赤くなる。
僕は面白くなってさらに続けた。
「こっちの方が、学費が安い。僕の勉強したいことがある。電車を使って帰るにしても、せいぜい三時間くらいだ。大した道のりじゃないよ。これの何処に、反論する余地があるのかな?」
祖母はしわがれた声で言った。
「私がいないと、お前は何もできないじゃないか…」
「できるに決まってんだろ。むしろ、今までが邪魔だったんだよ。なんでもかんでも僕の邪魔をしやがって」
罠にはまった鼠をいたぶるように、僕はこの十八年間の恨み言を祖母にぶちまけた。
祖母が友達にきつい言葉を吐いて追い返したから、友達が減った。
祖母は「餓鬼と付き合ったら、お前まで馬鹿になるからだ」と言った。
先生に期待されていたのに、生徒会長になれなかった。
祖母は、「馬鹿な餓鬼共の生徒会長になったって、意味がないだろう」と言った。
熱を出した時、誤った治療をされて、症状が悪化した。
祖母は、「私らの時代の治療法の方が正しいんだ」と言った。
毎日毎日、買い物につき合わされて、友達と付き合うことができなかった。
祖母は、「金の使い方を教えてやったんだ」と言った。
納屋に何時間も閉じ込められて、飯を目の前で捨てられた。
祖母は「お前が私を怒らせるからいけないんだ」と言った。
老人の命を助けたのに、正義の心を否定された。
祖母は、「あの男に助ける価値は無い」と言った。
暫くの間、「畜生」呼ばわりされた。
祖母は、「言ってもわからないのは、牛や豚と一緒だよ」と言った。
一度怒ると三時間は怒鳴り続ける祖母のように、僕は何時間にも渡って、祖母への恨みつらみを吐いた。楽しかった。祖母が今まで僕を傷つけてきた言葉が、今、ナイフとなって僕の手の中にあり、それで祖母を何度も刺しているようだった。
恨み言が百を越えた。
ネタが尽きたというよりも、喉が乾いたので、僕はそこで話を打ち止めた。
「これでいいだろう? 僕はこの家を出ていく。一人で生きてやるさ」
怒ると、必ず一回は「そんなに私が嫌なら、この家から出ていけ!」と怒鳴っていた祖母が、初めて僕にこう言った。
「行かせないよ」
絞り出すような言葉だった。僕は鼻で笑う。
「行かせないって…、今までは『出ていけ』って言ってたのに? それ、矛盾してない?」
「私は年寄りなんだ。もう頭の回転は遅いんだよ。難しい言葉を使うのはやめな。腹立たしい」
「いやいや、どこに難しい言葉があるんだよ。もしかして、『矛盾』のことを言ってる? こんな簡単な言葉がわからないの? ってか、話を逸らすのやめてよ」
「行かせない。お前は、このまま一人で生きていったら、必ず首を吊ることになるぞ? それでもいいのか?」
「根拠は? 僕が首を吊るって根拠は? なんでそんなことが言えるの?」
私立大学に特待生で合格する。という目標を叶えた僕は無敵だった。今まで、口ごたえをすることができなかった祖母に、ペラペラと嫌味、皮肉を言える。最高だ。
目の前の祖母の顔がみるみる膨れ上がる、肩が震える。それに対して、身体が小さくなるように見えた。
「行かせない…」
祖母はそう言った。
「はいはい、もう歳だから、同じことを何回も呟いちゃうんだね」
僕は構わず、踵を返した。その時だった。
ガシャンッ! という音と共に、僕の後頭部に鈍器で殴られたかのような、鈍い痛みが走った。頭蓋骨の中で脳が揺れ、ぐらっと天井を仰いだ瞬間、視界の端で白い火花が弾ける。遅れて、海で溺れた時のように鼻の奥がツンとして、墨汁でも垂らしたように、視界の中に黒いものが滲んだ。
あ…。と思った瞬間、僕は床の上に顔面から倒れこんでいた。
鼻先を打ち付けて、鼻血がボタボタと垂れる。目を回しながらゆっくりと身体を起こす。後頭部に触れると、手の中に熱くてぬるっとしたものが残った。
見れば、勉強のペンを握るためだけにあった僕の手のひらが真っ赤に染まっている。
そこで初めて、後ろから殴られたのだとわかった。
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