④
『おい、起きろ』
「………」
『起きないか、この馬鹿孫』
「…………」
『言ってもわからないなら、畜生と同じだよ?』
布団の上で眠る僕の顔面に、張り手が飛んでくる…。
ビクンッ! と身体が跳ねて、僕は目を覚ました。
「……………」
明け方の、空を水で薄めたように淡く照らされる部屋。
心臓は、爆発するんじゃないか? ってくらいに高鳴り、全身は汗でべたついていた。暑さによるものじゃない。きっと、悪夢を見たんだ…。
「…………」
また、頭の中に、祖母の声が響いた。
『ほら、とっとと動かないか、この愚図が』
「…………」
ああ、そうだ。行かないと。祖母の葬式に、行かないと。
なるべく、必死さをアピールしながら駆け付けよう。お焼香をあげようとするけど、やっぱり無理で、その場に膝から崩れ落ちて、「おばあちゃん」って呼びながら、泣き叫ぶんだ。きっと親戚が宥めに入るだろうから、それでも、取り乱して、何度も何度も、棺桶に向かって訴えるのだ。
僕は、お祖母ちゃんに育てられて、幸せでした…って。
そうしよう。そうしたら、きっと、感動的な話になる。
それがいい…。
「……………」
始発の電車で行けば、葬式には余裕で間に合うはずだから、僕は立ち上がっていこうとした。
だけど、身体が重くて動かなかった。精神論じゃない。物理的に、重かったんだ。
「…………」
目を動かして見ると、僕の腕に、水上紗枝が抱き着いていた。
そっと腕を抜こうとしたが、まるで「行かせない」とでも言うように、強い力で抱きしめてくる。起きているのか…と思い、彼女の頬を撫でてみたが、特に反応は無かった。それに、微かに寝息がする。なんとなく、眠くなった赤子が母の耳を掴んでくる感覚と似ているような気がした。
『何をやっているんだい? 早く起きるんだよ』
耳の奥で、また祖母が言った。
『そんな乳臭いガキの相手なんかしてやんな。今は、やるべきことがあるだろう?』
「………」
うん、そうだね、ばあちゃん…。
「…………」
でも、水上紗枝がいるんだ。
『馬鹿言え。そんな餓鬼とっとと振り払いな』
でも、ばあちゃん、意外に強いんだよ。力が。
『嘘をつけ。わかっているよ。お前は私の葬式に来たくないんだろう? だからそうやって、姑息な嘘をつくんだ。いいかい? 嘘をつくような人間がこの先生きていけると思うなよ? 常に正直者でいなきゃならないんだ』
僕もばあちゃんの葬式に行きたいよ。お焼香をあげたい。ばあちゃんに、この二十年間の感謝を伝えたいよ。でも、水上が僕の腕を掴んでくれるからさ…。
『お前、早く動きな、そして、私の葬式に来るんだよ。いいかい? 来なかったらどうなるか…わかっているだろうね? 言ってもわからないのは畜生と同じだよ? お前はまた倉庫に閉じ込められたいのかい? 飯を抜かれたいのかい?』
ああ、残念だなあ…。
水上紗枝が掴んでさえこなければ…、僕は起き上がって、今すぐ、ばあちゃんの葬式に駆け付けたいよ…。
「…………」
こら、水上。僕は行かなくちゃいけないんだ…。離しておくれ…。
の意味を込めて、僕は腕を振り上げる。そして、振り下ろすと、その柔らかい頬を撫でていた。指を這わせて、髪、肩、腰…。そして、鼻先に触れる。
「…………」
じっと息を潜めて、一時間。太陽が昇って、部屋に鋭い光が差し込んだ。少しずつ、部屋の気温が上がっていく。脇の下に汗が滲む。エアコンを点けても良かったのだが、窓が開いたままだ。残念ながら、閉めることができない。
二時間経った。
まだ間に合う。祖母の葬式には、まだ間に合う。
三時間経った。
ギリギリだろうか? 今から電車に乗るとして、会場に着くのは昼頃だろうか?
四時間が経過した。
もう無理だ。特急ですら間に合わない。
五時間が経つ頃に、枕元のスマホが震えた。メッセージではない。着信だ。きっと叔父さんからだ。そして、言われる内容も分かっていたので、出なかった。
スマホが震えるのが止む。続いて、メッセージを受信した。
「…………」
絶対に見ない。見てなるものか。
「…………」
そして、六時間が経過。もう、間に合わない。
『おい…』
僕の頭の中で、祖母が言った。
『お前、自分が何をしたのか、わかっているのか?』
「…………」
『恩を仇で返すとはこのことか…』
「………………」
僕はこれからやって来る衝撃に供え、身体を固くした。腕が震えて、その振動が、眠っていた水上に伝わる。彼女は薄目を開けて、少し寝ぼけた様子で僕を見た。
蒸し暑さに少し涙目になりつつ、乾いた唇が言葉の輪郭をなぞる。
「…ミヤビさん?」
「…………」
まるで、赤子が乳を求めるように、僕は水上紗枝の胸に顔を埋めていた。
「え、ちょっと…」
恥ずかしそうな声をあげる水上紗枝。
次の瞬間、僕の頭の中に、祖母の怒鳴り声が響き渡った。
『絶対に許さないよ! 私の葬式に来ないなんて! 絶対に許さないからね! 今のお前は何のためにあると思っているんだ! 全部私のおかげだろう! それをなんだ! その態度は! 絶対に許さないよ! お前が、あの馬鹿な母親に虐待されて辛い思いをしていたから、私が引き取ってやったんだ! ちゃんと人との付き合い方も教えただろうが! 飯の作り方も、洗濯の仕方も! 全部教えただろうが! 人に馬鹿にされないように、勉強だって教えた! お前は私に感謝してもしきれないはずだぞ! 言ってもわからない奴は畜生と同じなんだ! 手を挙げられても仕方がないだろう! たかが殴られた程度の痛みでめそめそするんじゃない! 倉庫に閉じ込めたのだって、全部お前のためだったんだ! お前が強い男になるために! 立派な人間になるために全部必要なことだったんだ!』
幻聴だ。ただの幻聴。でもきっと、ここに祖母がいるとしたなら、絶対に言うであろう言葉が、僕の頭蓋骨を割らんとする勢いで響き続ける。まるで針に貫かれているように、お腹の中が痛んだ。まるで、熱した鉄板に触れたみたいに指先が熱くなる。まるで、太平洋の真ん中に突き落とされたかのように、喉の奥で何かが詰まった。
うるさい…。うるさい…。もういいじゃないか…。
僕は涙を流しながら訴えたが、僕の幻想の祖母は怒鳴り続けた。
『私の葬式に来い』
やだよ。
『でないと、また倉庫に閉じ込めてやる』
やめてよ。
『一生出してやらないからね』
ごめんなさい。
『夕食も抜きだ。飢え死にしたくないなら、早く来い』
それだけは…。
『呪ってやる』
祖母は喉に淡を詰めたような、粘っこい声で言った。
『呪ってやる。私の言うことを聞かない子どもなんて要らない…。許さない…。呪ってやる。一生お前に付きまとって、お前が正しい道を歩むまで、何度も何度も言い続けてやる…』
正しい道って、何だよ…。
『付き合うやつは選べ。交通事故に遭うような腑抜けと付き合っていたら、お前まで腑抜けになっちまう。虐められて川に落ちるような馬鹿女と付き合っていたら、お前まで虐められるようになっちまう。助ける価値のない…痴呆の入った老人を助けてみろ。きっとお前は、周りから白い目で見られるだろうよ…。人の期待に応える必要なんて無い。お前に期待を寄せるような奴なんざ、先のことも見通せない馬鹿ばっかりだろうよ…』
やだよ…。
『全部お前のためなんだ』
僕は、人と…。
『私との約束を破ってみろ…。きっと、お前は、いまよりも惨めな生活を送ることになるぞ…』
今よりも、惨めな人生…。それは、やだなあ…。
「ねえ…、ミヤビさん…」
「………」
「大丈夫?」
ぼんやりとした頭の中に、水上紗枝の声が響き渡った。だけど、心が、晴れない。
猿轡を噛み締めるように、水上紗枝の胸に、一層強く顔を押し付ける。
水上紗枝は一瞬止まったように身体を震わせたが、やがて泳いだ手が僕の背中に回り、ぽんぽん…と、叩いた。
「そう言えば、今日、お葬式、だったね」
「………」
うん…。
「行きたくないの?」
行きたくない。でも、行かなくちゃいけない。
だって、ずっと僕の傍で、ばあちゃんが…。
『この恩知らずが、この愚図が、この馬鹿孫。呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…。呪ってやる呪ってやる呪ってやる、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやろ…、呪って、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる。死ね。呪ってやる、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…。呪ってやる呪ってやる呪ってやる、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやろ…、呪って、呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…』
って…、ずっと…。
ああ、うるさい。うるさい。
僕は、腕を動かし、水上紗枝の華奢な身体を抱きしめた。強く引き寄せ、まるで、彼女の体温の中に身を潜めるように、目を閉じる。
そのまま、祖母の声に呑まれて、意識を失った。
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