③
中学生の頃、人助けをしたことがある。
学校を終えた僕が、自転車で帰ろうとしているとき、道路脇の用水路でおじいさんが蹲っているのに気づいたんだ。
自転車を停めて聞いて見ると、足を踏み外して落ちて、動けなくなったらしい。
僕は冷たい水が流れる用水路に降りて、おじいさんを立たせようとしたが、やっぱりうまく行かなかった。おじいさんの手は氷のように冷たくなっていて、仕方がないから、近所の人に助けを求めて、救急車を呼んでもらった。おじいさんは無事運ばれて行って、僕は安堵し、帰宅した。当然、祖母には「帰って来るのが遅い!」と怒鳴られ、殴られた。
一応、「おじいさんを助けていたんだ」と説明したが、信じてくれるわけがなく、むしろ「嘘をついた」として、もう数発殴られた。そして、夕食抜きとなった。
だけどその夜、助けたおじいさんの娘さんが家に来て、「お宅のお孫さんが、用水路で動けなくなっていたところを助けてくれたんです…」「本当にありがとうございました」。と、お礼の野菜とともに、事情を説明してくれた。
応対した祖母は、声を一オクターブ高くして、終始笑顔だった。「あら、そうだったの?」「困ったわ、私、あの子の帰りが遅かったから叱ってしまったわ」「野菜なんかもらえないわよ」「わかったわ、孫にも言っておくわね」…と。
二階から聞き耳を立てていた僕は、胸を撫でおろした。
これで、誤解は晴れたな…。
ぬか喜びであった。
娘さんが帰った後、祖母は僕を一階に呼びつけると、また、罵った。
「馬鹿かお前は! 何で助けたんだ!」
祖母は僕を殴った。何度も殴った。「よくもやってくれたね!」と叫びながら、何度も殴った。
何が起こっているのかわからなかった僕は、畳の上に正座して、ただただ、祖母に殴られ続けた。
頭の中には、大量の「?」が浮かんでいた。
なんで…? なんで僕は殴られているんだ? 誤解は晴れたはずだよな? 祖母も、感謝の言葉と野菜を貰って、嬉しそうにしてたよな…。なんで?
「めんどくさいことに巻き込みやがって! もう少し静かに生きようとは思わないのか! こんな屈辱的なことは初めてだよ!」
屈辱…的?
「どういうことだよ…」
「お前が助けた男はね、昔、奥さんを殴って警察沙汰になってるんだ! 近所じゃ腫物扱いされてる! そんなやつをお前は助けたんだぞ!」
「…それでも」
「口答えするな! ああ、屈辱的だ! あんな腐った一族に褒められたんだぞ!」
僕は震えながら反論した。
「こ、こんなことを言うのも、あれだけど…、人助けは、良いことじゃないのか…? 例え、後ろ指さされている人でも、動けなくなっていたんだよ? 今の季節だ…、あのままじゃ、凍えていたかも…」
「人助けは良いことだと? だから許せだって? お前は褒められたくて人を助けたのか!」
「そういうわけじゃ…」
「もう子供じゃないんだ! 助けていい人間と、助けなくていい人間を区別するんだな!」
「それは無いだろ!」
納得がいかなかった僕は、立ち上がって叫んでいた。
それが、火に油を注ぐことと気づいていながら…。
「ねえ、それはないだろ! それは、人間としてどうかと思うよ!」
「何をいう! 私に口ごたえするのかい! わたしゃ、母親に虐待されて弱っていたお前を引き取った命の恩人だぞ! 恩人に向かってそんな言葉が吐けるのかい! 恩を仇で返すとはこのことか!」
抱えていた野菜…白菜、ジャガイモ、玉ねぎ…。その全てを、台所横のゴミ箱に放り込んだ。
「あんな奴らが作ったものなんて食べてたまるか!」
「待ってよ…、もったいないよ」
「意地汚いね! 恵んでもらって喜ぶなんて、お前はそんなに程度の低い人間だったのか!」
「それでも、感謝の気持ちなんだよ…?」
「恩着せがましくされても気分が悪いだけだ!」
「だけど…」
「口答えするな! この親不孝が!」
そう怒鳴りつけた祖母は、祖父の仏壇のある部屋に飛び込むと、座布団に顔をうずめて、わんわんと泣き出した。
「私の人生、何だったんだ! 立派に育ててやろうと思って引き取った孫に…、こんなに口ごたえされるなんて! ああ、私はなんて不幸なんだ!」
「……………」
泣きたいのはこっちだよ。
僕は肩をがっくりと落とした。
それから、一か月、祖母は家の家事を何もしなくなった。食事も作らない。洗濯もしない。掃除もしない。別に、全部自分でできるから困ることは無いはずだった。しかし、僕は冷蔵庫や洗濯機に手を触れると、祖母は声を荒げて、僕を突き飛ばした。
「これは私の家のものだよ! 居候のお前が触っていいものじゃない!」
はいはい、そうですか。
わかったよ。そういうことですか。
「この家が嫌なら! 出ていけ!」
そっちがその気なら、こっちだって出ていってやるよ。こんなに虐げられてまでも、ここに留まる必要は無い。
出ていってやる。出ていってやる。今すぐ出ていってやる。
夏休みに入ったら出ていってやる。
冬休みになったら出ていってやる。
学年が上がる前までには、出ていってやる。
高校を卒業したら、出ていってやる。
毎日、毎日、あの家を出ていくことだけを考えていた。
だけど、僕の身体は既に「祖母の呪縛」によってからめとられていた。
いざ家出の準備をしてリュックサックに服や食料を詰めていくとき、唐突に「祖母はなんて言うだろうか?」と思ってしまう。そして、たまらなく怖くなって、結局、出ていけなくなる。
私を放って出ていってごらん。すぐに野垂れ死ぬからね。
祖母なら、きっとそういうはずだ。野垂れ死ぬのは嫌だった。
祖母に怒鳴られるのは、もう慣れっこだ。だったら、ここにいた方が、外の世界よりも安全なのではないか? そんなことを思うようにもなった。
結局、僕は大学に進学するまで、祖母の家に住み続けた。怒鳴られ、虐げられ、殴られ、叩かれしながら。
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