第四章『××××××××』

 市民プールの帰りにスーパーに寄って、食材を買ってからアパートに戻った。

 その日は水上が料理を作ってくれた。散々泳ぎ回って疲れた体に、豚の生姜焼きのたんぱく質が染みる感覚がした。

 食事を終えた水上は、「もう少しだけ一緒にいたい」と言って部屋に留まり、他愛のないことを語っていった。「少しだけ水に慣れた」、「涼しかった」「新しい水着が欲しいかも。かわいいいやつ」「ミヤビさんを馬代わりにするのは楽しかった…」って具合に。

 僕は椅子に腰を掛け、彼女の言葉を右耳から左耳に流しつつ、こくこく…と頷き続けた。

 ぼんやりとする視界の中には、昼間の熊崎の笑みが浮かんでいる。

 そして、頭蓋骨の裏で響き続ける、彼の声。


『親は選べないさ。ばあちゃんの元で育ったお前が、世間で生きづらさを感じているのはわかる。だけど、だからって、世間がお前の歩みに合わせて立ち止まってくれるわけ無いだろう? 生きづらいなら、自分から変わっていくしかないんだよ』


 うん、わかっているよ。簡単なことだ。実際、熊崎は乗り越えた。

 あの時言われた祖母の言葉を乗り越えて、社会人として独り立ちして、人にジュースを奢り、アドバイスをできるまでに…成長したんだ…。

 簡単な話。でも、僕には無理な話だった。

「ミヤビさん、眠いの?」

 水上紗枝が聞いてきた。

「…………」

 僕は彼女の方を振り返ると、首を横に振った。

「疲れてるの?」

 そりゃそうだろ? って頷く。

「じゃあ、早く休まないとね」

 水上紗枝は立ち上がると、押し入れを開けて、僕の布団を引っ張りだした。それを畳の上に敷いて、シーツの皺を整える。ものの数十秒で支度を終えると、布団を叩いた。

「眠くなるまで一緒にいてあげる」

 僕は首を横に振ると、立ち上がった。

 まだお風呂にも入っていないし、歯も磨いていない。ベランダの洗濯物だって、取り込んでいないんだ…。

「じゃあ、洗濯ものは私が畳んでおくから、ミヤビさんはお風呂入ってきていいよ」

「………」

 お言葉に甘えて、僕は風呂場に向かった。

 水上紗枝がベランダに出たタイミングで、ズボンを脱ぐ。ゴトン…と鈍い音がした。

 しまった…。ポケットの中にスマホを入れっぱなしだった…。割れていないよな…と、不安になりつつ、ズボンに手を入れて取り出す。大丈夫。液晶は無事だった。

 ああ…、よかった…。と安堵したのは束の間、まるで計ったかのように、伯父さんからメッセージが入った。

『おばあちゃんのおそうしきはあしたですかんしゃのきもちをつたえるためぜったいにかえってきてください』

 お祖母ちゃんの葬式は明日です。感謝の気持ちを伝えるため、絶対に帰ってきてください…。

「………」

 ガシャンッ! と、酷い音がした。

「え、なになに?」

 洗濯ものを抱えた水上紗枝が部屋に飛び込んでくる。そして、風呂場の前に立ち尽くす僕を見るなり、怪訝な顔で駆け寄ってきた。

「ちょっと、ミヤビさん、なに今の音…」

 そう言った水上は、僕の足元に落ちているスマホに気づく。

 そのスマホの液晶には、蜘蛛の巣のような亀裂が入っていた。

「あ、ミヤビさん、もしかして落としたの?」

スマホを拾い上げて、動作を確認する。

「よかった…、ガラスが割れてるだけだね…。一応使えるけど…」

 パンツ姿の僕を見て、少し恥ずかしそうに目を逸らした。

「お風呂入るなら、スマホは要らないよね? 机の上に置いておくから、ミヤビさん、先に入っててよ」

「…………」

 僕は頷きも、首を横に振ることもせず、黙ってTシャツを脱ぎ始めた。

 昼間、散々半裸の僕に抱き着いてきたくせに、彼女は慌てて居間の方へと戻っていった。

 裸になった僕は、目の前の扉を開けて、湯気が立ち込める風呂に入った。かけ湯をしないまま、湯船に身体を浸かる。夏…ということで、水上紗枝がぬるく沸かしたようだが、物足りないと思った。

「……………」

 黴だらけの天井を見上げる。

 ぼんやりとしていると、耳元で声が響いた。

『お前は本当に、腑抜けだね』

 次の瞬間、僕は腕を振り上げ、湯船を殴っていた。

 バンッ! とぬるい湯が弾け、四散する。僕の顔にもかかり、頬を伝った。

 それでも、祖母の声は止まない。むしろ、楽しそうに続けた。

『おい、今、何やったんだい?』

「………」

『お前は、恩人である私の葬式に、参加しないつもりかい?』

「…………」

 拳を振り上げる。何度も何度も、何度も、湯船を殴る。その度に水しぶきが弾けた。

 風呂の扉の前に、ぼんやりと紗枝の姿が浮かび上がった。

「み、ミヤビさん? 大丈夫?」

「…………」

 我に返った僕は、大丈夫だよ…の意味を込めて頷いた。当然、扉越しに彼女が僕の仕草を見られるはずもなく、彼女は「び、びっくりしちゃったよ…」と言いながら引っ込んでいった。

「…………」

 静かになる風呂場。湯船だけが、まるで嵐に遭ったときのように揺れている。

 顎を伝って、雫が落ちた瞬間、喉の奥から、何かが溢れるような感覚がした。

 声が、溢れる。

 反射的に、僕は首を掴み、それが溢れないようにした。しかし、その程度で抑えることはできず、食いしばった歯の隙間から、変なうめき声が洩れる。

 指先に宿る力をさらに強める。視界の中に火花が弾けるようになったタイミングで、僕は首の皮膚に食い込んでいた手を離した。

「………」

 ブラウン管テレビのノイズのようなものが、視界の隅で弾けていた。

 身体を洗うことを忘れ、風呂を出る。

 扉の前に置いてあったTシャツと半ズボンを着て居間に戻った。

「あ、出たね…」

 僕の椅子に腰を掛けていた水上紗枝が振り返る。

 僕の顔を見た途端、顔をひきつらせた。

「ねえ、その首の痣、どうしたの?」

「………」

 自分で自分の首を絞めたんだ…とは言えず、僕は力尽きたように、布団に倒れ込んだ。

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