「よお、ミヤビ」

 あの時とは、一八〇度近く変わってしまった熊崎は、僕を見るなりにやっと笑い、その大きな手で、僕の肩をバシバシと叩いた。

「いやあ、びっくりした。まさか、お前がいるとは思わなかったよ」

 こっちのセリフだ。

 なんでお前が、こんな偏狭な市民プールにいるんだ? お前、何処の大学に行ったんだ?

 そう言いたそうな目を向けると、熊崎は感慨深く頷いた。

「オレ、就職してるぞ?」

「……………」

 十秒ほどの沈黙。

 ああ、そうか。そうだよな、そのスーツ姿を見たら、一目瞭然だよな…。

 空気が抜けた人形のように身体の力が抜け、視線を落とす。

 後ろの水上紗枝が、僕の腕をつついた。

「ミヤビさん、知り合い?」

 うん…と頷く。それに反応して、熊崎が「中学のな」と付け加えた。

 熊崎は「ちょっと待ってろ」というと、近くにあった自販機に駆けより、ポカリスエットを二本買って戻ってきた。一つは僕に、もう一つは水上紗枝に。

 僕は首を横に振った。「こんなの受け取れない」という意味だった。

「馬鹿にすんなよ。もうオレは社会人だぞ? たかが飲み物くらい、簡単に買えるんだ」

 笑いながらそう言われ、僕は渋々受け取った。

 僕の背後では、水上紗枝が既にポカリスエットを飲んでいる。

 熊崎は右手の鞄を掲げた。

「今年から、この町に配属されてな。今日は昼までだったから、ストレス発散がてらに来たんだよ。まあ、ちょっとだらだらしすぎて、閉館まで二時間も無いんだけど…」

 鞄の中には、僕の中の彼の象徴とも言える、面積の小さい競泳用水着が入っていた。

 まだ水泳を続けていたのか…。いや、ほとんど趣味だよな…。

 俯く僕を見て、熊崎は昔と同じように、いたずらっぽく笑うと、僕の腹を小突いた。

「彼女か? お前もやるようになったな」

「…………」

「安心したよ」

 いや…違うよ。の意味を込めて、首を横に振る。

「うん? 友達か?」

 まあ、そんなものかな? の意味を込めて、頷く。

「なんにせよ、安心したよ」

 熊崎が僕の頭を、ぽんっと叩いた。

「お前、ばあちゃんに支配されてたもんな…。当時じゃ、彼女も、友達も、作ることできなかっただろ…」

「……………」

 その言葉に、僕の視界の隅が、黒く靄が掛かったようになった。

 僕の表情が変わったことに気づいた熊崎は、慌てたように…、でもおどけたように言った。

「あ、悪いな…、嫌なこと思い出させちまったか」

「……………」

 いいや、慣れっこだ…。

「ばあちゃんは相変わらずか?」

 僕はバッグからスマホを取り出すと、伯父からのメッセージを熊崎に見せた。『おばあちゃんがしにました』…という言葉を一目見ただけで、熊崎は理解して頷いてくれた。

「…そうか」

 昼過ぎの、市民プールのエントランス。

 風が、向かいの遊歩道の熱気を孕みながら僕たちの横を通り抜けていく。

「まあ、死ぬだろうな。だってもう、お前も二十歳だからな」

「…………」

「結構な歳だったんじゃないか? 何歳だっけ?」

 わからない…と意味を込めて、首を横に振った。…祖母の歳なんて、考えたことも無かったな…。多分、七十歳は超えていた。八十歳は…どうだろう?

 何も答えない僕を見て、熊崎は、ははっと笑った。

「まあいいや。良かったじゃないか。死んで」

 はっとして顔を上げる。

 熊崎の背後を通り過ぎた子ども連れの女が、「何事?」と言いたげな顔を振り返った。

 ちょうどそのタイミングで、木の葉を揺らす風が止み、蝉たちも鳴き止んだ。

 熊崎は何も気にする様子は無く、よく通る声で言った。

「お前はもう自由だよ。好きに生きればいい」

「……………」

 また、僕の胸を小突く熊崎。兄貴気質なのか、それとも、そっち系なのかは知らないが、こいつは昔から、他人に対してスキンシップが多かった。気恥ずかしいし、気持ち悪いのだが、その大きな手で撫でられると、少し、まんざらでもない気にさせられる…。

「オレも、お前のばあちゃん大っ嫌いだからな…。心底嬉しいよ」

 …よくそんなことが言えるな。

 まあ、そうか…。彼は中学時代に、僕の祖母から嫌なことを言われているのだから…。

「もう死んだんだ。あの時言われたことは、無効だよな?」

 彼は鞄を握る力を強め、さらに続けた。

「正直、お前のばあちゃんには心を抉られたよ…。オレが水泳を諦めたのは、『事故のせい』じゃなくて、単にオレの心が弱かったのかな? って。オレが事故を起こしたのは、オレを撥ねた運転手が悪いんじゃなくて、ぼーっと道を歩いていたオレが悪いんじゃないか? って」

 肩を竦める。

「そんなの違う! って、思えなかったんだ…。だって、オレはまだ中学生で、世間を知らないガキだった。何十年と生きたお前のばあちゃんの言葉の方が、正しいんじゃないか? って…、そう思えてならなかったんだよ…」

「………………」

 背後にいた水上紗枝が、僕の手首を掴んだ。少し、震えていた。

 数年ぶりの再会のはずが、だんだんと重い話になっていることに気づいた熊崎は、ため息をつき、少し早口で、話をまとめようとした。

「だけど、死んでくれたなら安心だ。オレは、お前のばあちゃんの言葉が無かったものとして、好きに生きてみるよ。ちょうど、オレの会社に水泳部があってな…。大して強いところじゃないけど…、これも何かの縁だ。決心がついた…」

 そう言った彼は、最後に一度、僕の頭を撫でた。

「お前のこと、『気の毒』だとは思うけど…、それ以上は何も思わないぜ」

「……」

 言っている意味は、なんとなく分かった。

「親は選べないさ。ばあちゃんの元で育ったお前が、世間で生きづらさを感じているのはわかる。だけど、だからって、世間がお前の歩みに合わせて立ち止まってくれるわけ無いだろう? 生きづらいなら、自分から変わっていくしかないんだよ」

 ふふっと笑う熊崎。彼は、背後の水上に視線を向けて、言った。

「まあ、この調子なら大丈夫だろう。せっかく傍にいてくれているんだから、失望させんなよ」

「…………」

 僕の横を通り過ぎて、更衣室へと向かう熊崎。

 直前で立ち止まり、「あ…」と思い出したような声をあげると、こちらを振り返った。

「オレはまだ、お前の声を聞いてない」

「…………」

 少し悲しそうな声で言った熊崎の言葉が、まるで槍のような勢いを持って飛んできて、僕の喉元に突き刺さったような気がした。

 血が滲むみたいに、胸の奥が熱くなる。

「ねえ、ミヤビさん…」

 水上が僕の腕を引っ張った。

 あからさまに動揺した僕を見て、熊崎は笑うと、片手をあげた。

「それじゃあな。この町に住んでんなら、また会えるだろう? その時に、ゆっくりと聞かせてくれや…」

 去り際に、熊崎はこう言い残した。

「お前の口でな」

「…………」

 熊崎の姿が更衣室の暖簾の向こうに消えた、ちょうどそのタイミングで、館内放送で、『ただいまより、十分の休憩をとります。プールにいる者は…』と流れた。

 背筋に冷たいものが垂れてくるような感覚がして、思わず身震いする。

「ミヤビさん」

 また、水上紗枝が腕を引っ張った。

「帰ろうよ」

「………」

 急に現実に引き戻されたような気がして、僕は小さく頷いた。

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