④
疲れてきたのでプールから上がり、帰ることにした。水上紗枝は「もう少しいたい」とごねたが、彼女を背負って歩き回った僕は、体力の限界だった。
更衣室に戻り、バスタオルで水滴を拭い、着替えてから外に出る。
低重力の中を歩き続けた影響なのか、一歩一歩が重く、まるで地面に亀裂が走るようだった。
三半規管も少し狂い、眩暈がする。自販機でミネラルウォーターを買うと、一口飲んでからベンチに腰を掛けた。
ぼーっとして、疲れから眠りかけた時、女子更衣室の方から水上紗枝が出てきた。
「お待たせ。重力が強いね」
僕と同じ感想を口走った彼女の髪はまだ濡れていて、首や頬に張り付いていた。
しっかり拭かなかったのか? の意味を込めて、僕は自身の頭をコツコツと叩いた。
水上紗枝は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、ミヤビさんを待たせるわけにはいかないから」
「…………」
いや、多分、こういうことをしてほしいんだろうな…。
僕は立ち上がると、水上紗枝に手を伸ばした。彼女は頷くと、僕にバスタオルを放り投げる。
ベンチに腰を掛けると、少し湿ったバスタオルを広げ、彼女の髪を拭いてやった。
「髪も梳かしてよ」
櫛を差し出されたので、僕は、はいはい…と頷き、彼女の背中までの黒髪を梳こうとした…。
その時だった。
「おい、黒澤」
背後から、誰かが僕の名前を呼んだ。
水上紗枝の髪に櫛をあてた状態で振り返る。
そこには、スーツ姿の男が立っていた。
パーリーピーポーを彷彿とさせる、オールバックで、金色の髪。派手な髪には似合わない、地味な紺色のスーツは、外回りをしてきたのかよれていて、身体は相手を威圧するような逆三角形だった。
「……………」
厳つい男を見た水上紗枝が、小さな悲鳴をあげた。
僕は目を細め、男の顔を凝視した。
…誰だ? なんでこいつ、今、僕の名前を呼んだんだ?
「おい、オレだって」
男はへらっと笑うと、片手をあげた。
決して整っているとは言えない、野暮ったい顔。毛穴が開いて、脂っぽくなっている。
やっぱり…、わからない。
「相変わらずだな…」
男は、やれやれ…と肩を竦めると、名乗った。
「熊崎だよ。熊崎」
「…………」
くま、さき…。
その名が、僕の胸に落ちてきて、波紋を形作った。波紋はいろいろな記憶に当たり、跳ね返ることでようやく、忘れようと努めていた記憶が呼び起こされる。
あ…。と、心の中で声をあげた。
僕の表情を見て、熊崎はにやっと笑うと、片手を挙げた。
「久しぶり、ミヤビ!」
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