僕が暮らしていた地域の児童会で、毎年、近所にある市民プールで朝から夕方まで遊ぶ…という恒例行事があった。祖母はその行事に参加させてくれたはいいものの、僕が流れるプールで泳いだり、他の友達とはしゃいだりすることを禁止した。じゃあ、何は許可してくれたのか…? というと、それは、流れるプールの横にあった、競技用の五〇メートルプールで泳ぐことだった。

 大人を基準にした競技用のプールだから、底に足が着かないんだ。

 毎年のように、祖母は僕の首根っこを掴んで引っ張っていくと、そこのプールに突き落とした。そして、「朝から晩まで泳げ」と言うのだった。

 言う通りにしないと、帰ってから殴られるから、僕は必死に泳いだ。祖母はじっと、プールサイドから僕を睨んでいた。三〇分おきの休憩時間以外、まったく休むことができなかった。

 以来、僕の中で市民プールとは、流れるプールを楽しむものではなく、「朝から晩まで泳ぐ」という印象を抱いてしまっていたのだ。

 まあ、今回の場合は、それでいいのだが…。

「…………」

 軽いストレッチの後、プールに入る。後に続いて水上も入ったのだが、彼女は早速、酸欠の金魚のように口をあっぷあっぷとさせていた。

 仕方なく、赤子を抱くみたいに彼女の脇に手を滑らせ、支える。

「…死ぬかと思った」

 たった水に浸かっただけなのに、彼女は顔を真っ青にしてそう洩らした。

 一度水上をプールサイドに座らせてから、僕は目の前で、うつぶせの状態で浮いて見せた。

 身体の力を抜けば、こうやって浮ける。まずは身体の力を抜くことから始めろ。

 そう、目で訴える。

「わかった!」

 力強く頷いた水上は、「えーい!」と、奇声をあげつつ、プールに飛び込んだ。

 そして、案の定、また手足をばたつかせるのだった。

「私の身体が重いからかな?」

 僕の背中にしがみ付いた水上が心底疲れた声で言った。

「ねえ、ミヤビさん、体重何キロ?」

 多分、体重は関係ないだろ…の意味を込めて首を横に振る。一応、指で数字を示した。五十四キロって。

「うーん、私の方が軽いのに…、なんでかな」

 …だから、身体の力を抜けって、なんかいいったらわかるんだよ。この…

 そう心の中で悪態を付きかけて、やめた。

初めてなんだ。できないのは当たり前だろう? 自分ができるからって、人に強制したり、悪態を付いたりするのは違うじゃないか。

「…………」

 脳裏を過るのは、祖母の激怒した顔。

『なんでこんなことができないんだ!』『こんなことできて当たり前だ!』『私たちが子供の頃は教えてもらわなくてもできたぞ!』

 …そうやって、罵られ続けた。

 泳げもしないのに川に突き落とされて、溺れて、「お前が泳げないのが悪い」と言われた。初めて包丁を握らされて手を切っても、「この愚図」と言われ、殴られた。怖くて泣いた時も、「このくらいで泣くな、男だろ」って言って、倉庫に閉じ込められた。

「…………」

 少なくとも、水上を、あのような目には合わせたくないよな…。

 僕はかすかに頷くと、水上を背負ったまま歩き始めた。

 突然歩き始めた僕に、思わず、しがみ付く力を強める水上。その控えめな胸が背中に当たって、ちょっとドキドキする。

 歩きながら僕は軽く揺れてみた。

「わっ!」

 水上紗枝が驚いた声をあげる。

 今度は、水の中で走ってみる。大してスピードは上がらなかったが、水しぶきが上がって、背中の水上紗枝に掛かった。

「うわっ、ぺっぺ…」

 どうやら顔に掛かったようだ。

 今度は膝を曲げてしゃがみ込む。

「ちょっと! まって! 私泳げないんだからさ!」

 沈んでいく感覚に、水上紗枝は慌てて僕の肩によじ登ってきた。彼女の足が僕の肩を踏みつけたタイミングで、膝を伸ばし、立ち上がる。

「うわっ!」

 押されて浮かび上がった水上紗枝は、バランスを崩し、背中から水に落ちた。

 ドボーン! と水しぶきが上がる。それに気づいた監視員がこちらを振り向いた。

 水上紗枝が恐怖するよりも先に腕を伸ばし、彼女の脇に手を挟み、抱え上げる。

 水から上がった水上紗枝は、髪を頬に貼り付けた状態で、目をぱちくりとさせていた。

「……ミヤビさん」

「…………」

 どうだ? 意外に大丈夫だろう? の意味を込めて、僕は首を傾げる。

 だが、水上紗枝には伝わらなかったようで、彼女は頬を膨らませた。

「あの、怖かったんですけど」

「…………」

 手を離す。

 再び水に落ちた水上紗枝は、腕を器用に掻いて回り込み、僕の背中によじ登った。反射的にやったのか、それとも、さっきので感覚を覚えたのかはわからない。

「バツとして、ここのプール三周して」

「…………」

 お安い御用さ…という意味を込めて頷く。

 彼女は罰ゲームのつもりで言ったようだが、僕にとっては、本当に、お安い御用だった。なんたって、僕は祖母に川に突き落とされたこともあるし、プールで丸一日泳がされたこともある。海に突き落とされたことだって、あるんだ。

 この程度、本当に、ただの安らかな散歩だった。

 僕が水の中を突き進んでいる間、彼女は「いやあ、ゴクラクゴクラク…」と、人を乗り物にしていることに快感を覚えていた。

 その後は、水上のリクエストで、流れるプールに入った。だけど、浮き輪は持っていない。じゃあ、誰が泳げない水上の浮き輪代わりになるのか…? と言えば、当然僕だった。

「あー、たのしい」

 僕にしがみ付いたまま、彼女がそう言う。

 この流れる生温い水のように、時間はゆったりと過ぎていったのだった。

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