③
僕が暮らしていた地域の児童会で、毎年、近所にある市民プールで朝から夕方まで遊ぶ…という恒例行事があった。祖母はその行事に参加させてくれたはいいものの、僕が流れるプールで泳いだり、他の友達とはしゃいだりすることを禁止した。じゃあ、何は許可してくれたのか…? というと、それは、流れるプールの横にあった、競技用の五〇メートルプールで泳ぐことだった。
大人を基準にした競技用のプールだから、底に足が着かないんだ。
毎年のように、祖母は僕の首根っこを掴んで引っ張っていくと、そこのプールに突き落とした。そして、「朝から晩まで泳げ」と言うのだった。
言う通りにしないと、帰ってから殴られるから、僕は必死に泳いだ。祖母はじっと、プールサイドから僕を睨んでいた。三〇分おきの休憩時間以外、まったく休むことができなかった。
以来、僕の中で市民プールとは、流れるプールを楽しむものではなく、「朝から晩まで泳ぐ」という印象を抱いてしまっていたのだ。
まあ、今回の場合は、それでいいのだが…。
「…………」
軽いストレッチの後、プールに入る。後に続いて水上も入ったのだが、彼女は早速、酸欠の金魚のように口をあっぷあっぷとさせていた。
仕方なく、赤子を抱くみたいに彼女の脇に手を滑らせ、支える。
「…死ぬかと思った」
たった水に浸かっただけなのに、彼女は顔を真っ青にしてそう洩らした。
一度水上をプールサイドに座らせてから、僕は目の前で、うつぶせの状態で浮いて見せた。
身体の力を抜けば、こうやって浮ける。まずは身体の力を抜くことから始めろ。
そう、目で訴える。
「わかった!」
力強く頷いた水上は、「えーい!」と、奇声をあげつつ、プールに飛び込んだ。
そして、案の定、また手足をばたつかせるのだった。
「私の身体が重いからかな?」
僕の背中にしがみ付いた水上が心底疲れた声で言った。
「ねえ、ミヤビさん、体重何キロ?」
多分、体重は関係ないだろ…の意味を込めて首を横に振る。一応、指で数字を示した。五十四キロって。
「うーん、私の方が軽いのに…、なんでかな」
…だから、身体の力を抜けって、なんかいいったらわかるんだよ。この…
そう心の中で悪態を付きかけて、やめた。
初めてなんだ。できないのは当たり前だろう? 自分ができるからって、人に強制したり、悪態を付いたりするのは違うじゃないか。
「…………」
脳裏を過るのは、祖母の激怒した顔。
『なんでこんなことができないんだ!』『こんなことできて当たり前だ!』『私たちが子供の頃は教えてもらわなくてもできたぞ!』
…そうやって、罵られ続けた。
泳げもしないのに川に突き落とされて、溺れて、「お前が泳げないのが悪い」と言われた。初めて包丁を握らされて手を切っても、「この愚図」と言われ、殴られた。怖くて泣いた時も、「このくらいで泣くな、男だろ」って言って、倉庫に閉じ込められた。
「…………」
少なくとも、水上を、あのような目には合わせたくないよな…。
僕はかすかに頷くと、水上を背負ったまま歩き始めた。
突然歩き始めた僕に、思わず、しがみ付く力を強める水上。その控えめな胸が背中に当たって、ちょっとドキドキする。
歩きながら僕は軽く揺れてみた。
「わっ!」
水上紗枝が驚いた声をあげる。
今度は、水の中で走ってみる。大してスピードは上がらなかったが、水しぶきが上がって、背中の水上紗枝に掛かった。
「うわっ、ぺっぺ…」
どうやら顔に掛かったようだ。
今度は膝を曲げてしゃがみ込む。
「ちょっと! まって! 私泳げないんだからさ!」
沈んでいく感覚に、水上紗枝は慌てて僕の肩によじ登ってきた。彼女の足が僕の肩を踏みつけたタイミングで、膝を伸ばし、立ち上がる。
「うわっ!」
押されて浮かび上がった水上紗枝は、バランスを崩し、背中から水に落ちた。
ドボーン! と水しぶきが上がる。それに気づいた監視員がこちらを振り向いた。
水上紗枝が恐怖するよりも先に腕を伸ばし、彼女の脇に手を挟み、抱え上げる。
水から上がった水上紗枝は、髪を頬に貼り付けた状態で、目をぱちくりとさせていた。
「……ミヤビさん」
「…………」
どうだ? 意外に大丈夫だろう? の意味を込めて、僕は首を傾げる。
だが、水上紗枝には伝わらなかったようで、彼女は頬を膨らませた。
「あの、怖かったんですけど」
「…………」
手を離す。
再び水に落ちた水上紗枝は、腕を器用に掻いて回り込み、僕の背中によじ登った。反射的にやったのか、それとも、さっきので感覚を覚えたのかはわからない。
「バツとして、ここのプール三周して」
「…………」
お安い御用さ…という意味を込めて頷く。
彼女は罰ゲームのつもりで言ったようだが、僕にとっては、本当に、お安い御用だった。なんたって、僕は祖母に川に突き落とされたこともあるし、プールで丸一日泳がされたこともある。海に突き落とされたことだって、あるんだ。
この程度、本当に、ただの安らかな散歩だった。
僕が水の中を突き進んでいる間、彼女は「いやあ、ゴクラクゴクラク…」と、人を乗り物にしていることに快感を覚えていた。
その後は、水上のリクエストで、流れるプールに入った。だけど、浮き輪は持っていない。じゃあ、誰が泳げない水上の浮き輪代わりになるのか…? と言えば、当然僕だった。
「あー、たのしい」
僕にしがみ付いたまま、彼女がそう言う。
この流れる生温い水のように、時間はゆったりと過ぎていったのだった。
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