⑦
ここでもう一つ、朝ご飯に関連して、祖母との思い出が脳裏を過った。
あれは、小学校の入学式の日のことだった。
仕事で来れない父の代わりに、保護者席に座っていたのは祖母だった。
めでたい日で、周りの父母らは、みんな幸せそうに笑っていた。ただ一人、祖母だけが、顔を般若のように歪め、犬みたいに震えていた。
もしかして、怒っているのだろうか? と、僕は不安に思った。
案の定、祖母は怒っていて、式が終わるなり、僕の腕を掴み、引きずるようにして帰宅した。
「ああ、腹が立つね! あの若い女たち、私のことを老人扱いして見やがって!」
扉を激しく閉めた祖母は、唾をまき散らしながらそう言った。
確かに、あの場にいた老人と言えば、僕の祖母だけだった。だからと言って、周りの父母らが祖母に冷たい視線を向けたわけではない。むしろ、温かい目を向けていた。
お孫さんのご入学おめでとうございます。良かったですね…って具合に。
貶されたわけじゃない。でも祖母は、老人扱いされるのが、心底気に入らなかったのだ。
そして僕は、無知だった。「生みの親」「育ての親」というものを理解していなかった。だから、祖母にこんなことを言ってしまった。
「なんで、他の子の親は、若いの?」と。
それが、祖母の怒りにさらに薪をくべることとなった。
「なんだい? 私が親じゃ不服か!」
祖母は激しく地団太を踏んで激昂した。
「仕方ないだろう! お前の馬鹿親が、馬鹿女と結婚したんだから! 案の定気が狂ってこれだ! 不服か? 不服なんだね! 贅沢言うんじゃないよ!」
そう怒鳴って僕の細い腕を掴むと、いつものように家の外に引きずり出された。
「ごめんなさい!」
なんで怒られているのかはわからなかったが、とにかく謝る。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 倉庫はやめて!」
「うるさいね! 悪いことをしたんだから罰を受けるのは当たり前だ! 人生を舐めるんじゃないよ! このクソガキ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「うるさい! これで黙れないなら畜生だよ!」
祖母は僕の耳を引っ張って黙らせると、そのまま、倉庫の中に放り込んだ。
冷たい床にしりもちをついた僕は、慌てて扉に駆け寄る。枠を掴んだ途端、扉が勢いよく閉められ、僕の指を挟んだ。悲鳴をあげて転がった隙に、祖母は扉を閉め切った。
「そこで反省しな!」
そう扉の前で祖母は言うと、倉庫から離れていってしまった。
僕は何度も何度も、扉を叩いた。「開けて!」「ごめんなさい!」と叫び続けた。
何度も何度も扉を叩いたせいで、指の皮が剥けて血だらけになった。何度も何度も叫び続けたせいで、喉が枯れて声が出なくなった。
いつの間にか、気を失った。
どのくらい経っただろうか?
床を這う春の肌寒さに身震いをして、ふと顔を上げると、倉庫の中に朝日が差し込んでいて、それを背に祖母が僕を見下ろしていた。
「何やってんだっ!」
祖母は怒鳴ると、僕の頬を殴った。
何が起こっているのかわからず放心していると、祖母は倉庫の中に響く声で叫んだ。
「反省したと思って見に来たら眠りこけてやがる!」
もう一度、僕の頬を叩く。
「そんなに倉庫が気にいったのか! だったら、一生倉庫の中で暮らしな!」
一生、倉庫の中?
その瞬間、僕の目にぶわっと涙が溢れて、僕は祖母の服にしがみついていた。
ごめんなさい。ここから出してください…と、何度も懇願した。祖母は鼻を鳴らし、僕のTシャツの襟首を掴むと、首を締めるような力で僕を家の中に引きずり込んだ。
「ったく、黴臭くなっちまって! その部屋で台所に来るんじゃないよ!」
タイル張りの風呂に放り込まれて、服を着たまま、頭から冷たいシャワーを浴びせられた。
祖母は「ああ汚い汚い。絶対に鼠の小便を掛けられたに決まってる!」と言いながら、僕の頭をワシワシと洗った。
着替えた僕が台所に戻ると、テーブルの上に、冷え切った味噌汁とご飯、焼き魚が置いてあった。僕の朝食のようだった。
半日以上何も食べておらず、今に倒れそうだった僕は、蜜に誘われる蜂のように食事に近づく。すかさず、祖母が言った。
「食べるな! 許可も無く食べるなんて、無銭飲食だぞ! お前は泥棒になりたいのか!」
立ち止まる。
「私に何か言うことあるだろう! 言えたら食べてもいい!」
「ごめん、なさい」
「馬鹿か! それはさっき言っただろう!」
早く食べたい。お腹が空いたんだ。お腹が空いた…。早く…、食べたい。
でも、「何か言うこと」ってなんだ?
ごめんなさい…じゃないとしたら、他になんて言えばいいんだ?
また変なことを言って叩かれたり、倉庫の中に閉じ込められたり、冷たいシャワーを浴びせられるのは御免だった。
祖母は、僕に何を求めているのか…。
考えて、考えて、そして、五分が経った。
答えを出すことができていない僕に、祖母が痺れを切らして怒鳴り散らした。
「そうかい! 私の飯が不味いって言うんだね! よくわかった! もう一生何も食べるな!」
祖母がテーブルの上の皿を掴む。
嫌な予感がした僕は、空腹に背中を押されて、祖母に腕にしがみ付いた。
だが、祖母の力の方が強い。そのまま床に突き飛ばされた。
「意地汚いね! 約束を守れなかったんだから食べられるわけがないだろう!」
祖母は僕にそう吐き捨てると、皿の料理を、全て流しの三角コーナーへと入れてしまった。
「まったく! 人がせっかくチャンスを与えてやったのに! 『おばあちゃんに育てられて幸せです』の一言くらい言えないもんかね!」
ガシャンッ! と皿を叩きつける祖母。
「自分の非なんだ! 自分で洗え!」
そう言うと、居間に戻り、電源の入っていない炬燵に寝転がってしまった。
ぶつぶつと声が聞こえる。「まったく、なんであんな役立たずなんだろうね」「最近の子どもは馬鹿で困る」と言っていた。
時計を見ると、学校に行かなければならない時間だった。
お腹がきゅっと鳴る。
三角コーナーを覗き込むと、先ほどの白飯と味噌汁、焼き魚が、道端で死んでいる猫のようになっていた。猫の死体を見て「可愛い」と思わないのと同じように、三角コーナーに入った料理を見ても、「美味しそう」「食べたい」とは思わなかった。
仕方ないので、お釜を開けて白ご飯をよそう。
「何やってんだ!」
その微かな音に気付いて、祖母が怒鳴り声をあげた。
「何もやっていないお前が食べ物を貰えると思うのか! 世の中はそんなに甘くないよ!」
僕は静かに炊飯器の蓋を閉じると、そそくさと家を出たのだった。
そんな、朝ご飯にまつわる、祖母との思い出だった。
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