⑥
夜が明けて、世界が青白くなり始めた頃に、僕は異様な暑さを覚えて目を覚ました。
身体を起こすと、首筋を汗が伝う。枕やシーツから酸っぱい臭いがした。
なんでこんなに蒸し暑いんだ?
僕はふらつきながら立ち上がり、窓の外を見た。
雲一つない快晴。それが逆に、嵐の前の静けさを感じさせ、怖くなる。
すっかり目が覚めてしまった僕は、シャワーを浴びてさっぱりした後、汗まみれのシーツと枕カバーを洗濯機に放り込み、回した。そして、椅子に腰を掛けると、ぼーっと、時間が過ぎるのを待った。
水上紗枝がやってきたのは、その一時間後だった。
いつもとは違い、控えめに扉を叩かれた。開けると、当然そこには彼女がいるのだが、僕と目が合った途端、彼女は驚いたような顔をしていた。
「あれ…、なんで起きてるの?」
僕の身体からシャンプーとボディソープの香りがして、察し、頷く。
「私も暑くて眠れなくて…。早くに目が覚めちゃったから…」
彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。左手のコンビニの袋を掲げる。
「コンビニでアイス買ってきたから、また、何かのタイミングで食べよう」
感謝の気持ちを込めて、手を伸ばし、受け取る。
「朝ごはんはもう食べたの?」
いや、まだ食べてない…。
「じゃあ、私が作るね」
いや、いいよ。
僕は首を横に振ったのを見て、水上紗枝は「うん?」と首を傾げた。
僕は自分の胸をトントン…と叩く。
「ああ、ミヤビさんが作るの?」
うん…。
「そうだな…」
水上は顎に手をやると、にやっと笑った。
「昨日話したミヤビさんの料理のお手前、拝見しようじゃないの」
はいはい…。
頷いた僕は、アイスを袋ごと冷凍庫に放り込んだ後、冷蔵庫から味噌と麩、豆腐を取り出した。全部、水上が買っておいてくれたものだった。
「ああ、味噌汁作るの」
うん。朝はやっぱり味噌汁だろう。
「だったら、もう少し具材買っておいたのに…。なんかごめん」
このままで十分美味しいよ…。と思いつつ、僕は玉ねぎも取り出した。味噌汁の具にできるものと言えば、このくらいだろう。
準備が整った僕は、背後に立っている水上紗枝を居間の方に追っ払った。
そして、早速取り掛かる…つもりだったのが、また背後に水上紗枝が立った。
なんだよ…。という目をして振り返ろうとした時、水上紗枝が腕を回し、僕の胸から下にかけてエプロンを垂れ下げた。彼女がいつも使っている奴だった。
「私愛用のエプロン」
そう言って紐を回し、まるで抱きしめるような形で、僕の腹のところで結んだ。
悪い気はしなかったが、包丁を使うのですぐに離れてもらった。
決して、嫌いで突き放したのだと思われないよう、「また後でな」の意味を込めて、水上紗枝の頬を撫でる。
彼女は「わかっているよ」と頷き、居間のほうに戻っていった。
味噌汁を作るのは、二年ぶりだった。大学に行く前に祖母のために作ったんだ。まあ、祖母は「こんな塩辛いもの食べられるか」「出汁の取り方がへたくそだ」と言って、熱々の汁を僕に引っかけたのだが…。
こうも言われたな。
『こんなの、畜生の食べ物だ』って。
そんな、家畜に食べさせるようなものを水上に食べさせるなんて、僕もとんだ畜生だ。
そう思いながら、僕は手を動かした。
自転車に乗る感覚を忘れないのと同じように、慣れた手つきで包丁を操り、具材を切っていく。味噌はスプーンで掬ったのだが、測らなかった。指先が重さを覚えていたのだ。
そうして、ものの十数分で味噌汁が完成。これだけじゃ物足りないので、卵を四つ割って、目玉焼きにした。
炊き立ての白ご飯を茶碗によそい、水上紗枝が待つ居間に戻る。
部屋に充満する味噌汁の香りに、彼女はうっとりとした表情になった。
「落ち着く匂いだね」
黙って、テーブルの上に皿を並べる。グラスに牛乳を注ぐと、昨日と同じように、向かい合って座った。いただきます…と手を合わせた後は、緩慢な動きで箸を掴む。ちらっと見ると、水上紗枝は、箸で味噌汁を溶いていた。そして椀を掴むと、ふうふう…と息を吐きかけたあと、慎重に啜る。ずずず…という音が、僕の舌先に熱を宿らせた。
どうだ…まずいだろう? 畜生の食べ物だ…。
「うわっ、美味しい…」
たった一口、たった少し舌に触れただけだというのに、彼女は目を丸くして、そう洩らした。
「めちゃくちゃ美味しいじゃん…」
「…………」
その言葉に、心臓が跳躍する。
…そうか?
けれど、すぐに我に返り、心臓は音もなく着地した。
僕に心酔する水上紗枝の言葉なんて、信用に足るわけが無かった。どうせ、塩辛いのに、不味いのに、無理して、大げさに褒めているんだよ…。
「ねえ、出汁は…鰹節だよね? 味噌も辛すぎないし、薄すぎないし、ちょうどいいし…」
なんか、隠し味とかあるの?
水上紗枝がそう言って身を乗り出してくるから、僕は首を横に振った。
「じゃあ、味噌の分量とかは?」
首を横に振る。それから、指を振る。
「もしかして、適当なの?」
そうだよ。適当だ。何グラム入れなきゃならない…なんてことは全く考えていない。
「すごいなあ…。あれ、なんていうんだっけ? 感覚でわかるやつ…。Xシステム…? だっけ? 昔、アンビリでやってたやつ…」
それは知らんが、確かに、指先の感覚だけで重さを測った。だって、そうしないと、祖母が殴って来るんだ。「わざわざ測りを使う馬鹿がいるか」「ベテランの人間は指先で重さが分かるんだよ」って。まあ、でも、そうやって覚えた感覚で作った料理も、祖母の前じゃ「塩辛い」「不味い」「畜生の食い物」だったが…。
「いやあ、美味しいなあ…」
水上は首を捻ると、また味噌汁を啜る。それから、半熟の目玉焼きを箸で突き、溢れ出した黄身を白身で掬って口に運んだ。そしてやっぱり、「うーん、おいしい!」と大げさに言うのだ。
嘘ご苦労様…。恋は盲目とはよく言ったものだ…。
「これ、毎日ミヤビさんに作ってもらおうかな?」
別に、それでもいいよ。君が、豚の餌で満足するというのなら…。
「ああ、でもダメ。そういう甘えはよくない。私が恩返しする側で、ミヤビさんが恩返しされる側だもんね」
別にどうでもいいだろう…。
「私よりもミヤビさんの方が料理が上手いって痛感したからね、私はそれを上回るようにしなきゃ。じゃないと、ミヤビさんの舌を満足させてあげられないから」
そうやって拳を握る水上の目は、爛々と輝いていた。
その後、彼女は味噌汁を真っ先に飲み干し、お代わりをした。部屋は暑いというのに、「美味しい美味しい」なんて言って、汗をかきながら汁を啜った。
そんなに美味しいの? という意味を込めて、僕は首を傾げた。
彼女はにこっと笑った。
「うん、美味しいね。優しい味がする」
そうか…。
僕は頷くと、ぬるくなりつつある味噌汁を啜った。
あんな祖母から教えてもらった味噌汁の味が、「優しい味」なのか…。
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