夜が明けて、世界が青白くなり始めた頃に、僕は異様な暑さを覚えて目を覚ました。

身体を起こすと、首筋を汗が伝う。枕やシーツから酸っぱい臭いがした。

 なんでこんなに蒸し暑いんだ? 

 僕はふらつきながら立ち上がり、窓の外を見た。

 雲一つない快晴。それが逆に、嵐の前の静けさを感じさせ、怖くなる。

 すっかり目が覚めてしまった僕は、シャワーを浴びてさっぱりした後、汗まみれのシーツと枕カバーを洗濯機に放り込み、回した。そして、椅子に腰を掛けると、ぼーっと、時間が過ぎるのを待った。

 水上紗枝がやってきたのは、その一時間後だった。

 いつもとは違い、控えめに扉を叩かれた。開けると、当然そこには彼女がいるのだが、僕と目が合った途端、彼女は驚いたような顔をしていた。

「あれ…、なんで起きてるの?」

 僕の身体からシャンプーとボディソープの香りがして、察し、頷く。

「私も暑くて眠れなくて…。早くに目が覚めちゃったから…」

 彼女は恥ずかしそうに頭を掻いた。左手のコンビニの袋を掲げる。

「コンビニでアイス買ってきたから、また、何かのタイミングで食べよう」

 感謝の気持ちを込めて、手を伸ばし、受け取る。

「朝ごはんはもう食べたの?」

 いや、まだ食べてない…。

「じゃあ、私が作るね」

 いや、いいよ。

 僕は首を横に振ったのを見て、水上紗枝は「うん?」と首を傾げた。

 僕は自分の胸をトントン…と叩く。

「ああ、ミヤビさんが作るの?」

 うん…。

「そうだな…」

 水上は顎に手をやると、にやっと笑った。

「昨日話したミヤビさんの料理のお手前、拝見しようじゃないの」

 はいはい…。

 頷いた僕は、アイスを袋ごと冷凍庫に放り込んだ後、冷蔵庫から味噌と麩、豆腐を取り出した。全部、水上が買っておいてくれたものだった。

「ああ、味噌汁作るの」

 うん。朝はやっぱり味噌汁だろう。

「だったら、もう少し具材買っておいたのに…。なんかごめん」

 このままで十分美味しいよ…。と思いつつ、僕は玉ねぎも取り出した。味噌汁の具にできるものと言えば、このくらいだろう。

 準備が整った僕は、背後に立っている水上紗枝を居間の方に追っ払った。

 そして、早速取り掛かる…つもりだったのが、また背後に水上紗枝が立った。

 なんだよ…。という目をして振り返ろうとした時、水上紗枝が腕を回し、僕の胸から下にかけてエプロンを垂れ下げた。彼女がいつも使っている奴だった。

「私愛用のエプロン」

 そう言って紐を回し、まるで抱きしめるような形で、僕の腹のところで結んだ。

 悪い気はしなかったが、包丁を使うのですぐに離れてもらった。

 決して、嫌いで突き放したのだと思われないよう、「また後でな」の意味を込めて、水上紗枝の頬を撫でる。

 彼女は「わかっているよ」と頷き、居間のほうに戻っていった。

 味噌汁を作るのは、二年ぶりだった。大学に行く前に祖母のために作ったんだ。まあ、祖母は「こんな塩辛いもの食べられるか」「出汁の取り方がへたくそだ」と言って、熱々の汁を僕に引っかけたのだが…。

 こうも言われたな。

『こんなの、畜生の食べ物だ』って。

 そんな、家畜に食べさせるようなものを水上に食べさせるなんて、僕もとんだ畜生だ。

 そう思いながら、僕は手を動かした。

 自転車に乗る感覚を忘れないのと同じように、慣れた手つきで包丁を操り、具材を切っていく。味噌はスプーンで掬ったのだが、測らなかった。指先が重さを覚えていたのだ。

 そうして、ものの十数分で味噌汁が完成。これだけじゃ物足りないので、卵を四つ割って、目玉焼きにした。

 炊き立ての白ご飯を茶碗によそい、水上紗枝が待つ居間に戻る。

 部屋に充満する味噌汁の香りに、彼女はうっとりとした表情になった。

「落ち着く匂いだね」

 黙って、テーブルの上に皿を並べる。グラスに牛乳を注ぐと、昨日と同じように、向かい合って座った。いただきます…と手を合わせた後は、緩慢な動きで箸を掴む。ちらっと見ると、水上紗枝は、箸で味噌汁を溶いていた。そして椀を掴むと、ふうふう…と息を吐きかけたあと、慎重に啜る。ずずず…という音が、僕の舌先に熱を宿らせた。

 どうだ…まずいだろう? 畜生の食べ物だ…。

「うわっ、美味しい…」

 たった一口、たった少し舌に触れただけだというのに、彼女は目を丸くして、そう洩らした。

「めちゃくちゃ美味しいじゃん…」

「…………」

 その言葉に、心臓が跳躍する。

 …そうか?

 けれど、すぐに我に返り、心臓は音もなく着地した。

 僕に心酔する水上紗枝の言葉なんて、信用に足るわけが無かった。どうせ、塩辛いのに、不味いのに、無理して、大げさに褒めているんだよ…。

「ねえ、出汁は…鰹節だよね? 味噌も辛すぎないし、薄すぎないし、ちょうどいいし…」

 なんか、隠し味とかあるの?

 水上紗枝がそう言って身を乗り出してくるから、僕は首を横に振った。

「じゃあ、味噌の分量とかは?」

 首を横に振る。それから、指を振る。

「もしかして、適当なの?」

 そうだよ。適当だ。何グラム入れなきゃならない…なんてことは全く考えていない。

「すごいなあ…。あれ、なんていうんだっけ? 感覚でわかるやつ…。Xシステム…? だっけ? 昔、アンビリでやってたやつ…」

 それは知らんが、確かに、指先の感覚だけで重さを測った。だって、そうしないと、祖母が殴って来るんだ。「わざわざ測りを使う馬鹿がいるか」「ベテランの人間は指先で重さが分かるんだよ」って。まあ、でも、そうやって覚えた感覚で作った料理も、祖母の前じゃ「塩辛い」「不味い」「畜生の食い物」だったが…。

「いやあ、美味しいなあ…」

 水上は首を捻ると、また味噌汁を啜る。それから、半熟の目玉焼きを箸で突き、溢れ出した黄身を白身で掬って口に運んだ。そしてやっぱり、「うーん、おいしい!」と大げさに言うのだ。

 嘘ご苦労様…。恋は盲目とはよく言ったものだ…。

「これ、毎日ミヤビさんに作ってもらおうかな?」

 別に、それでもいいよ。君が、豚の餌で満足するというのなら…。

「ああ、でもダメ。そういう甘えはよくない。私が恩返しする側で、ミヤビさんが恩返しされる側だもんね」

 別にどうでもいいだろう…。

「私よりもミヤビさんの方が料理が上手いって痛感したからね、私はそれを上回るようにしなきゃ。じゃないと、ミヤビさんの舌を満足させてあげられないから」

 そうやって拳を握る水上の目は、爛々と輝いていた。

 その後、彼女は味噌汁を真っ先に飲み干し、お代わりをした。部屋は暑いというのに、「美味しい美味しい」なんて言って、汗をかきながら汁を啜った。

 そんなに美味しいの? という意味を込めて、僕は首を傾げた。

 彼女はにこっと笑った。

「うん、美味しいね。優しい味がする」

 そうか…。

 僕は頷くと、ぬるくなりつつある味噌汁を啜った。

 あんな祖母から教えてもらった味噌汁の味が、「優しい味」なのか…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る