目を覚ますと、時間は十五時を回っていた。

 ぼんやりとした頭で、七時間近く眠っていたことを実感し、なんだかもったいないことをしたような気分になる。

 とにかく、無駄にした七時間を取り戻すように、勢いを付けて起き上がる。汗をぐっちょりとかいていて、水分不足からか、頭が割れるように痛んだ。

 隣では、まだ水上紗枝が眠っていた。まるで何かを求めるように腕を広げ、口を半開きにして、喉の奥からいびきに近い寝息を洩らしつつ、Tシャツの下にある薄い胸を上下させている。「無防備」って言葉をこれでもかと体現していた。

 僕は彼女を起こさないよう、ゆっくりと立ち上がると、台所に向かった。

 鍋をコンロに置き、冷蔵庫に入れてあった昨日のカレー二人前を移し、火を付ける。ゆっくりと温め、煮込んでいくのだが、それだけじゃ物足りなかったので、隣のコンロにフライパンを置いて、熱した後に、よく溶いた卵を掛けた。

 カレーが煮えるコトコト…という音、卵が焼ける音で、居間の水上紗枝が目を覚ました。

 身体を起こすと、寝ぼけ眼で、僕が台所に立っているのを見て、「ああああ!」と声をあげる。

「ちょっと! ミヤビさん! ご飯は私が作るって!」

 僕は首を横に振った。

これを「作る」とは言わんよ。「温めている」だけ。「焼いている」だけ。誰でもできる。僕でもできる。

 僕は顎で棚の方をしゃくった。

 僕の言いたいことを察して、水上紗枝は立ち上がり、棚から皿をとった。

 そのタイミングで、僕はコンロの火を消す。

 少し遅めの昼ご飯。昨日のカレーに、半熟のスクランブルエッグを乗せて…。

 昨日と同じように、向かい合って座った僕たちは、同時にスプーンを掴み、同時にカレーを掬った。先に声を出したのは、水上紗枝の方だった。

「ってか、ミヤビさん、料理できるの? 結構手慣れていたけど…」

 だから、あれを「料理ができる」とも「手慣れている」とも言わないだろう。

 とは言え、それなりに料理ができるのは事実だったので、僕は小さく頷いた。

「へえ、そうなんだ…。でも、私の前じゃほとんど作らないよね?」

 それは、僕が作ろうとするよりも先に、お前が作るからだろ…。

「私がミヤビさんの部屋に初めて入った時は、めちゃくちゃ汚れてたって言うか…、エネルギーゼリーとか、カップラーメンばっかりだったし…」

 ああ、それは…。

 また、脳裏を過る、祖母の面影。

 僕に料理を教えてくれたのは、当然、祖母だった。

 野菜炒め、カレーライス、味噌汁に、から揚げ…。基本的なものは何でも作ったよ。作らされたよ。祖母が「料理が作れない奴は、世間に出ても役立たず」って言うから。

 まあでも、僕が作ったものを、祖母が褒めてくれることは無かったな…。

 いっつも、一口食べては、散々に貶された。

『不味い。なんでこんな残飯しか作れないんだ』

 祖母はそう言って、僕が作ったものを捨てた。

『塩辛い。私は老人なんだ。お前は私を殺す気かい?』

 祖母はそう言って、僕に料理を投げつけた。

 そういったことがあったから、僕は一人暮らしを始めてから、全く料理を作らなかった。彼女の気づきにあった通り、ずっと、エネルギーゼリーやカップラーメンで飢えをしのいでいたんだ。

「ねえなんで?」

 水上紗枝は、純粋な目で首を傾げた。

「なんで、作れるのに、作らないの?」

僕は首を横に振った。勘弁してくれって意味だった。

 水上は目をぱちくりとさせた後、ふふっと笑って頷いた。

「まあ、ミヤビさんの食べ物は、全部私が作るからね。ミヤビさんは気にしないで座っていればいいよ。これは恩返しだから」

 うん。頼むよ…。の意味を込めて、僕は頷いた。

 ふと見ると、水上紗枝が、また目をぱちくりとさせていた。

 どうした? の意味を込めて首を傾げる。

「あ、いや…。なんか、ミヤビさん…、ちょっと、素直になった?」

 いや…、それは。

「私が何かやったら、やめろ…って雰囲気を醸し出していたのに…。一緒に寝てくれるし、ご飯も作ってくれるし、頷いてくれるし…」

 彼女の声が、みるみるにやけていく。

「やっぱり、ちょっとずつ心開いてくれてる?」

 僕は身を乗り出すと、その腹立たしくも愛おしい顔を指ではじいた。

 そんなわけないだろう…? って意味だ。

そうしてまた、カレーを掬って口に運ぶ。ちらっと見ると、彼女はやっぱりにやけていた。

「いやあ、やっぱり、まっすぐに向き合うものだね」

 水上は嬉しそうに言ったが、僕は「ああ、やっちまったな」って後悔をしていた。

 今日の僕は、僕らしくない行動をとったと思う。水上紗枝の頭を撫でるだけじゃなく、彼女の胸に顔を埋めて眠り、彼女のためにカレーを温めたのだ。

 昨日までの、彼女をちょっと突き放していた僕の変化。「些細」なんていうものではない。韃靼海峡を跨いだかのような、大きな変化だった。

嬉しいだって? なわけあるか。気分が悪いよ。

 まるで、祖母の死が、僕の中の何かを変えたみたいじゃないか…。

「ねえ、唇から、血、出てるよ」

 そう言われて、我に返った。

 反射的に唇を拭うと、ひっかき傷だらけの手の甲に、赤い線が引かれた。

 無意識のうちに噛み締めていたらしい。カレーの味とともに、鉄の味が舌先に広がった。

「疲れてると、舌と唇を噛みやすいって言うし、ちゃんと休まなきゃね」

 僕が自ら噛んだことに気づいていない水上は、笑って頓珍漢なことを言った。

 それから、こんなことを言う。

「血、舐めてあげようか?」

 一瞬にして、その場が凍り付く。

「ごめん、今の無し。めちゃくちゃ気持ちの悪いこと言った…」

 僕がいつもと違うからって調子に乗って、恥ずかしげもないセリフを吐いた後、前言撤回世界記録を樹立した水上紗枝は、顔を真っ赤にして項垂れてしまった。

「ごめん…、ちょっと調子に乗ってた。ミヤビさんの静けさで我に返ったよ」

 だろうな…。

「とにかく! 疲れてるなら休もうね! 私も付き合うから!」

 ああ、誤魔化したな…。

 まあ、いいんじゃないか? 祖母のことを思い出すのが嫌だからって、血が出るまで頭を掻いたり、手を掻いたり、唇をかみしめるような奴とは違う。可愛げのある自己防衛だ。

 僕は血が滲む唇を舐めると、また、カレーを食べた。

 カレーの熱が傷に染みて、痛かった。

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