スイミングスクールに通い始めたのは、小学一年生夏の頃のことだった。いや、秋だったっけか? よく覚えていないや。

 とにかくあの日、仕事から帰ってきた父が、唐突に「何か習い事をさせた方が良い」と言った。いつもは何も言わない父が、なぜそんなことを言ったのか、今でもわからない。まあ多分、何もしないのは父親として後ろめたいことだから、なんとなく言ったのだろう。

 父の言葉を聞いた時、僕は嬉しかった。

 ちょうど、クラスの友達にサッカークラブに誘われていたから、嬉々として「じゃあ、サッカーがやりたい」と言った。父も「サッカーか。悪くないな」と、父親面して笑った。

 だけど、祖母は「サッカーはだめだ。頭の悪い奴しかやらない」と反対した。

 ちょうどその年は、アテネオリンピックが開催された年だった。

「水泳をやれ。泳げたら、海で死ぬことも無い。それに、今は水泳の時代だ」

 祖母はオリンピックで金メダルを獲得した選手が報道される度に、「この子はすごいねえ」「この子は立派だねえ」とべた褒めしていた。

 水泳は嫌いだ。息ができないし、前が見えない。

「やだよ。サッカーがやりたいんだ」

 僕は、己の発言が祖母をどれだけ激高させるか想像せず、その言葉を軽々しく口にしていた。

 そして当然、その言葉は、祖母の逆鱗に触れた。

「なんだと!」

 夜だというのに、あらぶった祖母の声が響き渡る。

「サッカーなんて馬鹿がやるスポーツをやってみろ! お前が馬鹿になるよ! うちの子なんだ、水泳をやれ! 他のことをしたら許さないからね!」

「でも、友達が、『一緒にやろう』って言ったから」

 愚かにも、僕は祖母に反論してしまった。

「そうかいそうかい。お前は、人の意見に流される子供なのかい! 自分の意思を持たない子供は、将来生きていけると思うなよ!」

 今考えたら、滅茶苦茶な話だ。「人に意見に流されるな」と言ったくせに、僕に水泳をやらせようとしたのだから。

「いいかい? 意思の無い子供はいけないよ。良いところに就職できない! 一生、家畜みたいな扱いを受けることになるんだ! それでもいいのかい? サッカーをやったら、お前はそうなるんだぞ!」

 本当に滅茶苦茶な話だ。だけど、幼い僕にとって、祖母の言葉は、まるで鈍器のような勢いを持って僕の後頭部を殴った。

 意思の無い子ども…。それは嫌だな。そう思った。

 祖母の怒りは収まらず、「私に逆らうような子どもはご飯を食べなくていい!」と怒鳴り。用意していた料理を全部捨てた。勢いあまって、皿が割れた。

 そうして、いつものように、倉庫に押し込まれ、翌日まで放置された。

 解放されたらすぐに、僕は祖母に土下座をして、「水泳をやらせてください」と頼み込んだ。

 習い事をした方が良い…と話を振ってきた父は、いつの間にか会社に行っていた。帰ってきた後も、特にその話に言及することは無かったし、どこか、僕を避けているようだった。

 そうして僕は、スイミングスクールに通うことになった。

 まあ、悪くなかった。水に慣れて、泳げるようになるのは、楽しかった。

 だけど、その楽しさは直ぐに、恐怖にかき消される。

 僕が通っていたスイミングスクールでは、二か月に一度「記録会」というものがあった。その名の通り、記録を計測し合って、設定タイムをクリアすることができたら、進級でき、ささやかなプレゼントをもらうことができた。

 どんなスポーツにも言えることだが、毎回いい記録が出るわけがない。

 けれど、祖母は、結果が出なかった日は、鬼の首を取ったように怒った。

「金を払って通っているんだぞ! 結果を残さないとだめだろうが!」

 家に帰った僕を、居間の前の廊下に立たせて、頬を二、三発殴るのだ。

「ああ、情けない! 飛び込みの動きを見てすぐにわかったさ! 『今日はダメだ』って! 北島康介の泳ぎをちゃんとみて勉強しな!」

 別に、オリンピックを目指すわけでもない。練習だって、週に一度だ。食事制限をしているわけでもない。それなのに、供給されるものに吊り合わない結果を要求された。

 記録会の度に、怖くなる。

 ああ、今日も祖母に殴られるかも。いや、倉庫に閉じ込められるかもしれない。

 そう思うと、身体が強張り、散々の結果になるのだった。そしてやっぱり、殴られて、食事抜きになって、倉庫に閉じ込められた。

 だから、今でも水泳は嫌い…と言うよりも、怖い。

 まるで、背中に一生消えない印を押されたようだった。けれど、あの狂気じみた教育があったからこそ、僕はあの時、溺れていた水上紗枝を助けることができたのだ。

 そう思うと、泳ぐことを憎むことに、どうしようもない後ろめたさを感じてならなかった。

「………」

 手に触れられる感触があって、僕は我に返った。

 見ると、水上紗枝が僕の手を握っている。いや、握っている…と言うよりも、弄んでいた。人差し指と中指を掴んで、まるでフライドチキンを裂くみたいに、広げる。痛みは無いが、なんか変な感じ。

 何やってるんだ? の意味を込めて、肩で水上紗枝を小突く。

「いや…、水泳やっている人って、水かきができるって聞いたことがあるから…」

 ああ、水かきか。

「でも、無いねえ…。やっぱりデマなのかな?」

 デマに決まっているだろ? の意味を込めて鼻で笑うと、僕は彼女の手を払った。

 …そう言えば、祖母もこの話を信じていたな。「水泳をやり込んでいると、手に水かきができるんだ」って言って、いつも僕の指を掴んで広げていた。無理な方向に引っ張られるから、結構痛かったんだ。「やめて」って言うと、「このくらいの痛みで泣き言を言うな」って頭を殴られた。そして、水かきが無いことを確認して、「努力が足りないせいだ!」って言って、僕を殴った。それだけじゃなく、近くの川まで引っ張って行って、そこに突き落とした。

 ああ、また嫌なことを思い出した。

 底の浅い川だから溺れることは無かったのだが、藻まみれで臭かった。たまらず岸まで泳いでいくと、「水かきができるまで泳げ」って言って、また突き落とされた。日が暮れるまで泳がされ。翌日、体内に菌が入って高熱を出した。

 熱を出すなんて、情弱な証拠だ…。祖母はそう言って、また僕を殴るのだ。

「……………」

 ああ、ダメだ…。これは、ダメだ。

 芋づる式に、嫌なことが思い出されて行って、僕は背中に冷汗をかいた。

 目を細めている間もなお浮かび続ける、忘れたい記憶。それをかき消すために、反射的に手の甲を引っ掻く。ガリガリと掻く。

「…どうしたの? 蚊に噛まれた?」

 聞いてくる水上紗枝に構っている余裕は無く、僕は口を一文字に結び、手の甲を掻き続けた。

 そのうち、熱を孕み始める。

「ちょっと…」

 水上が僕の手首を掴んだ。

「ねえ、赤くなってるよ? ちょっと血、滲んでるし…。やめようよ」

 強く引っ張られ、我に返った。

 見ると、手の甲は僕の爪の形に真っ赤に腫れていて、一部の皮膚が、鰹節をまぶしたみたいになっていた。その奥の細い血管が裂けて、じわ…と血が滲み始める。

「…………」

 もし、水上紗枝が止めてくれなければ、血まみれになるまで掻いていたことだろう。

 背筋に冷たいものを宿した僕は、ため息をついた。

「蚊に噛まれたんなら言ってよ。私、鞄の中に薬入れてるから…」

 ごめんよ…。の意味を込めて、僕は頷いた。

「傷がついてるから、今薬塗っても染みるだけじゃん…」

 …うん。悪かったよ。

 とりあえず落ち着きを取り戻した僕は、これ以上変なことを思い出さないよう寝返りを打ち、耳を塞ぐみたいに、彼女の胸に顔を埋めた。

 もう喋らない。眠る…。

 その意思を、彼女の心臓に語り掛けるように、額をぐりぐり…と擦る。

 自分から寄って来るくせに、いざ僕から寄られたら、水上紗枝はこうやって、身体をびくっと強張らせる。心臓の音を高鳴らせる。そして、それを紛らわせるように、ちょっとつんけんとした声で言うのだ。

「えっち」

 まあ、あながち間違いではないが…。

 僕は目の前の、小さな女の子の熱に溶け込むみたいに、瞼を閉じたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る