③
スイミングスクールに通い始めたのは、小学一年生夏の頃のことだった。いや、秋だったっけか? よく覚えていないや。
とにかくあの日、仕事から帰ってきた父が、唐突に「何か習い事をさせた方が良い」と言った。いつもは何も言わない父が、なぜそんなことを言ったのか、今でもわからない。まあ多分、何もしないのは父親として後ろめたいことだから、なんとなく言ったのだろう。
父の言葉を聞いた時、僕は嬉しかった。
ちょうど、クラスの友達にサッカークラブに誘われていたから、嬉々として「じゃあ、サッカーがやりたい」と言った。父も「サッカーか。悪くないな」と、父親面して笑った。
だけど、祖母は「サッカーはだめだ。頭の悪い奴しかやらない」と反対した。
ちょうどその年は、アテネオリンピックが開催された年だった。
「水泳をやれ。泳げたら、海で死ぬことも無い。それに、今は水泳の時代だ」
祖母はオリンピックで金メダルを獲得した選手が報道される度に、「この子はすごいねえ」「この子は立派だねえ」とべた褒めしていた。
水泳は嫌いだ。息ができないし、前が見えない。
「やだよ。サッカーがやりたいんだ」
僕は、己の発言が祖母をどれだけ激高させるか想像せず、その言葉を軽々しく口にしていた。
そして当然、その言葉は、祖母の逆鱗に触れた。
「なんだと!」
夜だというのに、あらぶった祖母の声が響き渡る。
「サッカーなんて馬鹿がやるスポーツをやってみろ! お前が馬鹿になるよ! うちの子なんだ、水泳をやれ! 他のことをしたら許さないからね!」
「でも、友達が、『一緒にやろう』って言ったから」
愚かにも、僕は祖母に反論してしまった。
「そうかいそうかい。お前は、人の意見に流される子供なのかい! 自分の意思を持たない子供は、将来生きていけると思うなよ!」
今考えたら、滅茶苦茶な話だ。「人に意見に流されるな」と言ったくせに、僕に水泳をやらせようとしたのだから。
「いいかい? 意思の無い子供はいけないよ。良いところに就職できない! 一生、家畜みたいな扱いを受けることになるんだ! それでもいいのかい? サッカーをやったら、お前はそうなるんだぞ!」
本当に滅茶苦茶な話だ。だけど、幼い僕にとって、祖母の言葉は、まるで鈍器のような勢いを持って僕の後頭部を殴った。
意思の無い子ども…。それは嫌だな。そう思った。
祖母の怒りは収まらず、「私に逆らうような子どもはご飯を食べなくていい!」と怒鳴り。用意していた料理を全部捨てた。勢いあまって、皿が割れた。
そうして、いつものように、倉庫に押し込まれ、翌日まで放置された。
解放されたらすぐに、僕は祖母に土下座をして、「水泳をやらせてください」と頼み込んだ。
習い事をした方が良い…と話を振ってきた父は、いつの間にか会社に行っていた。帰ってきた後も、特にその話に言及することは無かったし、どこか、僕を避けているようだった。
そうして僕は、スイミングスクールに通うことになった。
まあ、悪くなかった。水に慣れて、泳げるようになるのは、楽しかった。
だけど、その楽しさは直ぐに、恐怖にかき消される。
僕が通っていたスイミングスクールでは、二か月に一度「記録会」というものがあった。その名の通り、記録を計測し合って、設定タイムをクリアすることができたら、進級でき、ささやかなプレゼントをもらうことができた。
どんなスポーツにも言えることだが、毎回いい記録が出るわけがない。
けれど、祖母は、結果が出なかった日は、鬼の首を取ったように怒った。
「金を払って通っているんだぞ! 結果を残さないとだめだろうが!」
家に帰った僕を、居間の前の廊下に立たせて、頬を二、三発殴るのだ。
「ああ、情けない! 飛び込みの動きを見てすぐにわかったさ! 『今日はダメだ』って! 北島康介の泳ぎをちゃんとみて勉強しな!」
別に、オリンピックを目指すわけでもない。練習だって、週に一度だ。食事制限をしているわけでもない。それなのに、供給されるものに吊り合わない結果を要求された。
記録会の度に、怖くなる。
ああ、今日も祖母に殴られるかも。いや、倉庫に閉じ込められるかもしれない。
そう思うと、身体が強張り、散々の結果になるのだった。そしてやっぱり、殴られて、食事抜きになって、倉庫に閉じ込められた。
だから、今でも水泳は嫌い…と言うよりも、怖い。
まるで、背中に一生消えない印を押されたようだった。けれど、あの狂気じみた教育があったからこそ、僕はあの時、溺れていた水上紗枝を助けることができたのだ。
そう思うと、泳ぐことを憎むことに、どうしようもない後ろめたさを感じてならなかった。
「………」
手に触れられる感触があって、僕は我に返った。
見ると、水上紗枝が僕の手を握っている。いや、握っている…と言うよりも、弄んでいた。人差し指と中指を掴んで、まるでフライドチキンを裂くみたいに、広げる。痛みは無いが、なんか変な感じ。
何やってるんだ? の意味を込めて、肩で水上紗枝を小突く。
「いや…、水泳やっている人って、水かきができるって聞いたことがあるから…」
ああ、水かきか。
「でも、無いねえ…。やっぱりデマなのかな?」
デマに決まっているだろ? の意味を込めて鼻で笑うと、僕は彼女の手を払った。
…そう言えば、祖母もこの話を信じていたな。「水泳をやり込んでいると、手に水かきができるんだ」って言って、いつも僕の指を掴んで広げていた。無理な方向に引っ張られるから、結構痛かったんだ。「やめて」って言うと、「このくらいの痛みで泣き言を言うな」って頭を殴られた。そして、水かきが無いことを確認して、「努力が足りないせいだ!」って言って、僕を殴った。それだけじゃなく、近くの川まで引っ張って行って、そこに突き落とした。
ああ、また嫌なことを思い出した。
底の浅い川だから溺れることは無かったのだが、藻まみれで臭かった。たまらず岸まで泳いでいくと、「水かきができるまで泳げ」って言って、また突き落とされた。日が暮れるまで泳がされ。翌日、体内に菌が入って高熱を出した。
熱を出すなんて、情弱な証拠だ…。祖母はそう言って、また僕を殴るのだ。
「……………」
ああ、ダメだ…。これは、ダメだ。
芋づる式に、嫌なことが思い出されて行って、僕は背中に冷汗をかいた。
目を細めている間もなお浮かび続ける、忘れたい記憶。それをかき消すために、反射的に手の甲を引っ掻く。ガリガリと掻く。
「…どうしたの? 蚊に噛まれた?」
聞いてくる水上紗枝に構っている余裕は無く、僕は口を一文字に結び、手の甲を掻き続けた。
そのうち、熱を孕み始める。
「ちょっと…」
水上が僕の手首を掴んだ。
「ねえ、赤くなってるよ? ちょっと血、滲んでるし…。やめようよ」
強く引っ張られ、我に返った。
見ると、手の甲は僕の爪の形に真っ赤に腫れていて、一部の皮膚が、鰹節をまぶしたみたいになっていた。その奥の細い血管が裂けて、じわ…と血が滲み始める。
「…………」
もし、水上紗枝が止めてくれなければ、血まみれになるまで掻いていたことだろう。
背筋に冷たいものを宿した僕は、ため息をついた。
「蚊に噛まれたんなら言ってよ。私、鞄の中に薬入れてるから…」
ごめんよ…。の意味を込めて、僕は頷いた。
「傷がついてるから、今薬塗っても染みるだけじゃん…」
…うん。悪かったよ。
とりあえず落ち着きを取り戻した僕は、これ以上変なことを思い出さないよう寝返りを打ち、耳を塞ぐみたいに、彼女の胸に顔を埋めた。
もう喋らない。眠る…。
その意思を、彼女の心臓に語り掛けるように、額をぐりぐり…と擦る。
自分から寄って来るくせに、いざ僕から寄られたら、水上紗枝はこうやって、身体をびくっと強張らせる。心臓の音を高鳴らせる。そして、それを紛らわせるように、ちょっとつんけんとした声で言うのだ。
「えっち」
まあ、あながち間違いではないが…。
僕は目の前の、小さな女の子の熱に溶け込むみたいに、瞼を閉じたのだった。
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