第二章『水上紗枝』

 コンコン…と扉を叩く音で目を覚ました。

 薄目を開けると、柔らかい朝日が差し込み、一気に現実に引き戻される。水分不足からくる頭痛に頭を抱えながら身体を起こし、胸元に張り付いたTシャツを剥した。

 また、コンコン…と扉が叩かれ、その向こうから「ミヤビさーん」と、紗枝の声が聞こえた。

 時間は…八時前。

 立ち上がった僕は、はいはい…今出ますよ…の意を込めて、大げさな足音を立てながら扉に近づき、鍵を開ける。ドアノブに触れる前に扉が開いて、水上紗枝が顔を出した。

「おはよう! ミヤビさん!」

 ぼんやりとした頭にはうるさすぎる声。

 僕は「おはよう」の意味を込めて、彼女の頭を撫でた。

 水上紗枝は、尻尾を振る犬のように嬉しそうに笑った後、僕の顔を見て、「おや…」と言いたげな顔をした。

「夜更かししたの?」

 どうしてわかるのだろう?

 水上が手を伸ばし、僕の目の下を拭った。

「隈ができてる」

 まあ、そうか。そりゃわかるか。

「ちゃんと寝なきゃ。身体に悪いよ?」

 そう言う彼女の目の下にも隈が浮いている。それだけじゃない。多分、殴られたのだろう。鎖骨の辺りが青紫色に腫れていた。

 僕の視線に気づいた水上紗枝は、半歩下がり、胸元を押さえた。

「えっち」

 ああ、急に見て悪かったな…の意味を込めて、僕は頷いた。

 もちろん、水上紗枝も本気で怒っていたわけじゃなく、すぐに元の顔に戻ると、ローファーを脱いで部屋に上がった。

「ああー、暑いね。シャワー浴びていい?」

 良いよ…の意味を込めて、僕は風呂場の電灯を点けた。

「ありがと」

 水上紗枝はにこっと笑うと、その場で制服を脱ぎ出す。僕は目を逸らし、彼女の横を通り過ぎて、居間に戻った。

 女のシャワーは長い…という偏見があったが、そんなことは無く、水上紗枝はものの数分で風呂から出てきた。

 扉の前に置いておいたバスタオルで身体を拭き、僕が高校の時に使っていた短パンと、安物のTシャツを着て戻って来る。

「それで、今日は何するの? ミヤビさん」

 椅子に腰を掛けて本を読むふりをしていた僕は、ゆっくりと顔を上げる。

 水上紗枝はTシャツの袖を捲り上げ、貧相な二の腕を露出させると、小さな力こぶを作った。

「何でも手伝うし、何処にでもお供するよ」

 息を吸い込む。

「なんたって、ミヤビさんは命の恩人なんだから」

 その言葉に僕は立ち上がると、水上紗枝の額をコツン…と叩いた。

 それ、もう言うなよ…。という意味だった。

 水上紗枝は面食らったように後ずさり、そして、頬を膨らませた。

「別に言ってもいいじゃない…。貶しているわけじゃないんだから…」

 僕はそんな人間じゃないんだ…。そんなことを言われたら、気持ちが悪くてたまらない…。恩返しをして、それで君の心が満足するのならそれで構わない。僕は付き合うさ。でも、頼むから、僕のことを「命の恩人」だなんて、言語化をしないでくれ…。

 と、内心思ったが、それを言葉にすることはできなかった。

 な…、頼むよ…。の意味を込めて、彼女に縋るような視線を送る。いつもなら伝わるはずなのに、彼女は都合よく「理解できなかったふり」をして、首を横に振った。

「何言っているのかわからない」

「………」

「わからないから、これからも言い続けるよ」

 僕の方へ一歩踏み出した水上紗枝は、僕の顎を、指ではじいた。

「ね? 命の恩人の…ミヤビさん?」

 わかった。そういうことでいいよ。

 僕は頷くと、どっと疲れて、椅子に腰を掛けた。

 水上紗枝は仕切り直し、もう一度聞いてきた。

「それで…、今日は何するの?」

 僕は黙って布団の方を指した。

「ああ、夜更かししたから…」

 僕は黙って、机の上に置いてあった小説を水上紗枝に見せた。

「ミステリ小説? ああ、なるほど…」

 訳すと、「小説にはまって夜更かしをしたから、もう少し眠りたい」ということだった。

 理解した水上紗枝は「わかった」と頷いた。

「生活習慣が崩れるのはいけないけど、まあ、今日くらいはいいか。これも、恩返しだからね」

 どういうことだよ…。

 心の中でつっこんだ僕は、おもむろに立ち上がり、布団に倒れ込んだ。寝返りを打って、先日の大雨による雨漏りの痕を見上げる。

 別に誘っているつもりではなかったが、身体をずらして、水上紗枝の分のスペースを開けた。すると、彼女は、飼い猫のような俊敏な動きで、そこに飛び込んだ。勢いあまって、頭が脇腹に激突。衝撃が胃に響いて、思わず顔を歪める。

 痛みに悶える僕に気づかず、水上紗枝は額をぐりぐり…と僕の脇腹に押し付けた。

 それから、ぽろっと洩らす。

「ちょっと汗臭いね」

「…………」

 対して、水上紗枝の身体からは、僕が使っているものと同じシャンプーとボディソープの香りがした。ドキドキはしないな。ああ…僕ってこんな無難な香りの奴をつかっているのか…って、自分のセンスの無さを悲観した。

「まあでも、悪い臭いじゃないし…」

 まるでとってつけたようなフォローを入れた水上紗枝は、添えるように額を押し付けた。

「むしろ、落ち着くね…」

 反則だよ。そういうことを言うのは…。

 僕はゆっくりと右腕をあげた。そして、まるで眠っている猫を愛でるかのように、恐る恐る、彼女の頭に触れようとする…。

 その時、枕元のスマホが、ぴこんっ! と音を立てた。

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