第二章『水上紗枝』
①
コンコン…と扉を叩く音で目を覚ました。
薄目を開けると、柔らかい朝日が差し込み、一気に現実に引き戻される。水分不足からくる頭痛に頭を抱えながら身体を起こし、胸元に張り付いたTシャツを剥した。
また、コンコン…と扉が叩かれ、その向こうから「ミヤビさーん」と、紗枝の声が聞こえた。
時間は…八時前。
立ち上がった僕は、はいはい…今出ますよ…の意を込めて、大げさな足音を立てながら扉に近づき、鍵を開ける。ドアノブに触れる前に扉が開いて、水上紗枝が顔を出した。
「おはよう! ミヤビさん!」
ぼんやりとした頭にはうるさすぎる声。
僕は「おはよう」の意味を込めて、彼女の頭を撫でた。
水上紗枝は、尻尾を振る犬のように嬉しそうに笑った後、僕の顔を見て、「おや…」と言いたげな顔をした。
「夜更かししたの?」
どうしてわかるのだろう?
水上が手を伸ばし、僕の目の下を拭った。
「隈ができてる」
まあ、そうか。そりゃわかるか。
「ちゃんと寝なきゃ。身体に悪いよ?」
そう言う彼女の目の下にも隈が浮いている。それだけじゃない。多分、殴られたのだろう。鎖骨の辺りが青紫色に腫れていた。
僕の視線に気づいた水上紗枝は、半歩下がり、胸元を押さえた。
「えっち」
ああ、急に見て悪かったな…の意味を込めて、僕は頷いた。
もちろん、水上紗枝も本気で怒っていたわけじゃなく、すぐに元の顔に戻ると、ローファーを脱いで部屋に上がった。
「ああー、暑いね。シャワー浴びていい?」
良いよ…の意味を込めて、僕は風呂場の電灯を点けた。
「ありがと」
水上紗枝はにこっと笑うと、その場で制服を脱ぎ出す。僕は目を逸らし、彼女の横を通り過ぎて、居間に戻った。
女のシャワーは長い…という偏見があったが、そんなことは無く、水上紗枝はものの数分で風呂から出てきた。
扉の前に置いておいたバスタオルで身体を拭き、僕が高校の時に使っていた短パンと、安物のTシャツを着て戻って来る。
「それで、今日は何するの? ミヤビさん」
椅子に腰を掛けて本を読むふりをしていた僕は、ゆっくりと顔を上げる。
水上紗枝はTシャツの袖を捲り上げ、貧相な二の腕を露出させると、小さな力こぶを作った。
「何でも手伝うし、何処にでもお供するよ」
息を吸い込む。
「なんたって、ミヤビさんは命の恩人なんだから」
その言葉に僕は立ち上がると、水上紗枝の額をコツン…と叩いた。
それ、もう言うなよ…。という意味だった。
水上紗枝は面食らったように後ずさり、そして、頬を膨らませた。
「別に言ってもいいじゃない…。貶しているわけじゃないんだから…」
僕はそんな人間じゃないんだ…。そんなことを言われたら、気持ちが悪くてたまらない…。恩返しをして、それで君の心が満足するのならそれで構わない。僕は付き合うさ。でも、頼むから、僕のことを「命の恩人」だなんて、言語化をしないでくれ…。
と、内心思ったが、それを言葉にすることはできなかった。
な…、頼むよ…。の意味を込めて、彼女に縋るような視線を送る。いつもなら伝わるはずなのに、彼女は都合よく「理解できなかったふり」をして、首を横に振った。
「何言っているのかわからない」
「………」
「わからないから、これからも言い続けるよ」
僕の方へ一歩踏み出した水上紗枝は、僕の顎を、指ではじいた。
「ね? 命の恩人の…ミヤビさん?」
わかった。そういうことでいいよ。
僕は頷くと、どっと疲れて、椅子に腰を掛けた。
水上紗枝は仕切り直し、もう一度聞いてきた。
「それで…、今日は何するの?」
僕は黙って布団の方を指した。
「ああ、夜更かししたから…」
僕は黙って、机の上に置いてあった小説を水上紗枝に見せた。
「ミステリ小説? ああ、なるほど…」
訳すと、「小説にはまって夜更かしをしたから、もう少し眠りたい」ということだった。
理解した水上紗枝は「わかった」と頷いた。
「生活習慣が崩れるのはいけないけど、まあ、今日くらいはいいか。これも、恩返しだからね」
どういうことだよ…。
心の中でつっこんだ僕は、おもむろに立ち上がり、布団に倒れ込んだ。寝返りを打って、先日の大雨による雨漏りの痕を見上げる。
別に誘っているつもりではなかったが、身体をずらして、水上紗枝の分のスペースを開けた。すると、彼女は、飼い猫のような俊敏な動きで、そこに飛び込んだ。勢いあまって、頭が脇腹に激突。衝撃が胃に響いて、思わず顔を歪める。
痛みに悶える僕に気づかず、水上紗枝は額をぐりぐり…と僕の脇腹に押し付けた。
それから、ぽろっと洩らす。
「ちょっと汗臭いね」
「…………」
対して、水上紗枝の身体からは、僕が使っているものと同じシャンプーとボディソープの香りがした。ドキドキはしないな。ああ…僕ってこんな無難な香りの奴をつかっているのか…って、自分のセンスの無さを悲観した。
「まあでも、悪い臭いじゃないし…」
まるでとってつけたようなフォローを入れた水上紗枝は、添えるように額を押し付けた。
「むしろ、落ち着くね…」
反則だよ。そういうことを言うのは…。
僕はゆっくりと右腕をあげた。そして、まるで眠っている猫を愛でるかのように、恐る恐る、彼女の頭に触れようとする…。
その時、枕元のスマホが、ぴこんっ! と音を立てた。
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