どのくらい眠っていただろうか? 思ったほど長くはない気がする。

「…………」

 夏の日差しが目に刺さり、意識を取り戻した。

ゆっくりと身体を起こすと、全身に鬱血の痛みが走った。鼻が詰まった感覚があったので、指を突っ込み、爪を掛けつつ引く。すると、赤黒い血の塊がずるり…と出てきた。

 少しだけ、息が楽になる。

「…………」

 くそ…。あのガキ。今度会ったら憶えとけよな…。

 すっかり乾いた髪をかき上げて横を見ると、あの少女が、まだ眠っていた。

 死んで、ないよな?

 僕は恐る恐る女の子に近づくと、その顔を覗き込む。

 いじめるような味噌っかすなんだから、どんな陰気臭い顔をしているのかと思いきや、意外に顔立ちは整っていた。長いまつげに、とおった鼻筋。唇は薄く艶やか。色白いのは、川に落ちて身体が冷えているからだろうか? 右頬に赤いニキビがある。

 いや、まあ、そんなことはどうでもよくて、心臓は動いているのか…?

 僕は、倒れている少女の胸に、耳を押し当てた。

 心臓は拍動している。肺がかすかに収縮する感覚もした。

 よかった。生きてる…。

 安堵の息を吐いた僕は、少女の胸から耳を離す。

「えっち」

 突然、女の子が口を開いた。

 僕は肩を震わせ、後ずさる。小さな凹凸に踵が引っ掛かり、盛大にしりもちをついた。

 心臓の音を耳で感じながら見ると、彼女の薄い瞼が開き、黒曜石のように深い色をした瞳が、僕の方をじっと見つめた。

 あ…、しまった。って思う。

 僕は息を殺すと、熊から逃げるときのように、ゆっくりと立ち上がり、後ずさった。

 少女が上体を起こす。

 僕は踵を返し、そそくさとその場から離れようとした。

「まあ待ってよ」

 鈴を鳴らすような声に引き止められる。

「助けてくれたの?」

 年上にも物怖じしない、落ち着いた声。

「ねえ、あなたが助けてくれたの?」

 呆然と立ち尽くしていると、少女は少し眉間に皺を寄せ、手をついて立ち上がった。

「助けてくれたんでしょう?」

 僕は首を横に振った。

 少女はふっと笑う。

「頭に藻が付いてる」

 はっとして触れると、確かに、短い髪に、細長い藻が絡まっていた。

 髪だけじゃなく、ズボンの裾や、襟にも。

 少女は、やれやれ…と言いたげに肩を竦めると、背中程までの髪に絡まった藻を取り除いた。

 太ももに張り付いたスカートを剥し、気だるげに立つ。

「ありがとう。あなたは、命の恩人だ」

 その瞬間、僕は踵を返し、全力で駆けだした。

 背後から、女の子の「あ…」と聞こえたが、それを振り切って、角を曲がる。

通りに出た瞬間、車が走ってきて危うく轢かれそうになったが、それでも全力で駆け抜け、そして、もういいだろう…というところで、立ち止まった。

 せっかく乾きかけていた服も、あの一瞬で汗まみれになった。冷汗だった。

 振り返って見たが、誰も追ってくる様子は無い。

 ほっと…息を吐いた瞬間、脇腹に痛みが走った。

 小さく呻き、その場にしゃがみ込む。手で押さえても、焼けるような痛みが慢性的に続いた。

 …これ、大丈夫か? 折れていないよな? 

 いや、折れてはいないな…。どちらかと言えば、骨と言うよりも、筋肉の痛みだ。

 いずれにせよ、早く確認すべきと思い、僕は千鳥足で進み始めた。

 そうして、今に力尽きそうな足取りで進み、アパートに到着した。

 集合ポストに入っていた宗教勧誘のチラシを取り出し、にぎりつぶす。

 ボロボロの階段を上り、二階階段を上っていると、下の方から呼びかけられた。

「黒澤くん! 黒澤くん!」

 振り返ると、三十代くらいで、ジャージとTシャツというラフな格好をして、髪を後ろに括った女性が僕を呼んでいた。管理人さんだ。名前は…誰だっけ? ああ、佐藤明美さんだ。

 僕は恐る恐る、管理人さんの方を見下ろす。

 管理人さんはこくこくと頷いて、僕に手招きをした。

 階段を降りていくと、彼女は「やっと会えたあ~」と胸を撫で下ろしながら歩み寄ってきた。

「はい、これ」

 僕の胸に、白い紙を突きつける。

 黙って受け取り、眺めると、それは水道点検のお知らせだった。

「二か月後に実施するから、部屋にいてね。予定が合わないようだったら、私が立ち会うから」

 静かに頷く。

 管理人さんが僕の肩をぽんっと叩く。

「それじゃあ、よろしくね…」

 そう言うと、髪を翻し、管理人室の方へと戻って行ってしまった。

 取り残された僕は、呆然とその場に立ち尽くした。

 三秒後に我に返り、歩き出す。

 階段を昇り、部屋の扉の前に立った時、足元に置いてあった、置き配用の折り畳み式バッグが膨れていることに気づく。

 多分、昨日注文した冷凍食品や、ミネラルウォーター、洗剤が届いたのだろう。

 僕はしゃがみ込むと、南京錠のダイヤルを弄り、開錠した。

 開けてみると、案の定、注文した通りの商品が入っていた。

 火照っていた身体が、ほんの少し冷える感覚がした。

 小さくため息をつきつつ、商品を確認する。大丈夫、ちゃんと全部入ってる。

 落ち着いた僕は、それから、扉の鍵も開けるため、ショルダーバッグに手を入れた。

「…………」

 そうしようと思ったのだが、僕の肩には、なにも掛かっていなかった。

 僕の手は、ただただ、空を切るだけ。

 ああ…やっちまった。と思う。

 思い出すのは、先ほどのこと。

 溺れている女の子を助けるため、川に飛び込んだ時、脇に、放り出した…。

 僕は頭を抱えた。あの場所に戻るのは嫌だ。でも、部屋に入れないのはまずい。それだけじゃない。あのバッグの中には、スマホも、財布も入っているんだ…。

 歩き出そうとした時、頭の中に祖母の声が響いた。

『まったく、お前は馬鹿だね。ほら見たことか、余計なことをするからそうなるんだよ』

 僕は階段を降りる。

『もう諦めな。日本人がそんなに優しいと思うなよ。全部盗られたに決まってるさ。本当に、お前は馬鹿だ。学習しないのは、畜生と同じだよ? お前は豚になりたいのかい?』

 階段を降り切ると、さっき歩いてきた道を、走り出す。

「ねえ!」

 またあの声に引き止められた。

 立ちどまり、振り返ると、集合ポストの前に、先程の女の子が立っていた。

 彼女は僕のショルダーバッグを持っていて、手には、バッグから取り出した財布を握っていた。

「よかった。近くに住んでて」

 僕に近づいてくる女の子。

「ごめんね。鞄の中に入ってた保険証、見ちゃった」

 僕に、財布と鞄を渡す。

「さっき逃げられたから、もう一度言おうと思う」

「…………」

「助けてくれて、ありがとう」

 少女に差し出された財布と鞄。

 受け取った僕は、なんとなく鞄の中に手を入れてみた。指先に、冷たい感触があった。

 掴んで取り出すと、それは、よく冷えた缶コーヒーだった。

「………」

「ああ、それ、さっきのお礼」

「………」

「炭酸の方が良いかな? って思ったんだけど、おにいさん、大人みたいだし…。そっちの方が良いかな…って」

 いや、コーヒーは飲めない。だけど、それを言ってしまえば、彼女の善意を踏みにじるような気がして辞めた。そもそも、僕にそんなことを言えるはずがなかった。

「…………」

 僕は深く頷くと、缶コーヒーを軽く掲げた。「ありがとう」という意味だった。

 缶コーヒーをまた鞄に戻していると、ふと、少女の手に提げられた通学鞄が目に入る。素材的にまだ乾いておらず、微かに生臭い水が滴っていた。

 僕の視線に気づいた女の子は、「これ?」と鞄をあげた。

「落とされちゃったの。教科書とか、ノートとか、ナプキンとか、まあ、いろいろ大切なものが入っているからね…。あと、呆然と立ち尽くすのも嫌だったから、飛び込んだ」

「…………」

「でも、私、金槌だったことを忘れてた」

 そう言った女の子は、おどけたように笑った。

 だけど、能面のような顔をし続ける僕を見て、若干バツの悪そうな顔をした。

「…笑ってよ」

 生ぬるい風が、僕と二人の間を駆け抜けた。

「まあ、とにかく、中は全部やられてたね。教科書は乾かせば何とかなるかもしれないけど、ペンはもう書けないし、ノートもふにゃふにゃ。せっかく書いてた文字も滲んじゃった」

 まだ何も言わない僕。

 女の子は首を横に振った。

「ああ…、別に、あなたを責めているわけじゃないの。鞄さえあれば良いからね。うちの学校、鞄を持ってないと入れさせてくれないし…」

 僕は静かに頷いた。

 女の子は微妙な顔をしたが、まだ続ける。

「ええと、その…。とにかく、うん」

 何かを言おうと、口をもごつかせたが、言葉が出なかったのか、諦めたように頷く。

「ありがとう」

 必死になって絞り出した、感謝の言葉。

 それに報いるべく、僕が片手をあげる。

気にするなよ…の意味を込めて、女の子の肩を叩こうとしたのだが、彼女は小さな悲鳴をあげて、三歩下がった。

「…………」

 またもや、二人の間を風が通り抜ける。

 僕は片腕を中途半端に上げた状態で固まり、それは何とも滑稽な恰好だった。

 彼女も目をぱちくりとさせ、その場で固まった。はっとして、目を見開く。

「あ、ごめん…」

 そう言って、自分の頭を差し出してきた。

 そう、頭を、差し出してきた。

 そう言うことをやりたいわけじゃなかった僕は、少し手を泳がせたあと、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。

 女の子の横を通り過ぎて、階段を上る。

「ねえ!」

 女の子が言った。

「また来てもいい? お礼がしたいの?」

 その言葉には首を横に振った。

 今度こそ前を向き直り、階段を上り切ると、鞄から取り出した鍵を使って開錠する。

 扉を開けた時、女の子が何か言った気がしたが、よくわからなかった。だけど、ちゃんと聞こえていますよ…という意味を込めて、僕は扉をコツコツと叩く。

 そして、生臭くなった身体を洗うために、風呂場に向かったのだった。


 これが、一か月前に起こった出来事。

 これが、僕と水上紗枝との、最初の出会い。

 その翌日から、彼女は毎日のように僕の部屋にやって来るようになった。

何をするのかと言えば、飲み物を買ってきたり、散らかしっぱなしだった部屋を掃除してくれたり、一方的に話したり…。

二週間を過ぎれば、一緒に買い物に行ったり、図書館についてきたり…。

 正直邪魔だった。

 僕は一人でいたいのに、ふと顔を上げれば、少女…いや、水上紗枝の姿がある。僕のために、何かをあくせくと遂げようとしている。

 邪魔だし、まるで従者みたいで申し訳ないから、「帰れ」「もう来るな」って圧を掛けてみてもなんのその。翌日には何事も無かったように僕の住むアパートにやってきた。

 そして、僕のために尽くすことの免罪符のように、こういうのだ。

「これは、恩返しだから」

 恩返し…ね。

 僕からしたら、恩返しだなんて、そんな大したことをしたつもりじゃない。むしろ、その後、年下に殴られて、醜態を晒したんだ。こんな奴のどこに、返す恩があるのだろう?

だけど、人には人の価値観がある。僕からすればクソみたいなことでも、誰かからしたら…水上紗枝からすれば、大切なことだってある。道端の石ころが、宝石のように見えるみたいに、彼女にとって僕は、「救世主」のような存在になったのだ。

ミジンコのような僕が、救世主となってしまったのだ。

 本当、厄介なことに巻き込まれたよ。

 自分のことは自分でよくわかっている。自分は彼女が思うような人間じゃない。でも、彼女がその罪悪感を拭うことが出来るのなら、僕は、彼女を邪険に扱うことができなかった。

 そうして僕は、水上紗枝を川から救って一か月、彼女との縁を断ち切れずにいた。

 今日も、彼女は僕の部屋にやってくるのだ。

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