⑦
どのくらい眠っていただろうか? 思ったほど長くはない気がする。
「…………」
夏の日差しが目に刺さり、意識を取り戻した。
ゆっくりと身体を起こすと、全身に鬱血の痛みが走った。鼻が詰まった感覚があったので、指を突っ込み、爪を掛けつつ引く。すると、赤黒い血の塊がずるり…と出てきた。
少しだけ、息が楽になる。
「…………」
くそ…。あのガキ。今度会ったら憶えとけよな…。
すっかり乾いた髪をかき上げて横を見ると、あの少女が、まだ眠っていた。
死んで、ないよな?
僕は恐る恐る女の子に近づくと、その顔を覗き込む。
いじめるような味噌っかすなんだから、どんな陰気臭い顔をしているのかと思いきや、意外に顔立ちは整っていた。長いまつげに、とおった鼻筋。唇は薄く艶やか。色白いのは、川に落ちて身体が冷えているからだろうか? 右頬に赤いニキビがある。
いや、まあ、そんなことはどうでもよくて、心臓は動いているのか…?
僕は、倒れている少女の胸に、耳を押し当てた。
心臓は拍動している。肺がかすかに収縮する感覚もした。
よかった。生きてる…。
安堵の息を吐いた僕は、少女の胸から耳を離す。
「えっち」
突然、女の子が口を開いた。
僕は肩を震わせ、後ずさる。小さな凹凸に踵が引っ掛かり、盛大にしりもちをついた。
心臓の音を耳で感じながら見ると、彼女の薄い瞼が開き、黒曜石のように深い色をした瞳が、僕の方をじっと見つめた。
あ…、しまった。って思う。
僕は息を殺すと、熊から逃げるときのように、ゆっくりと立ち上がり、後ずさった。
少女が上体を起こす。
僕は踵を返し、そそくさとその場から離れようとした。
「まあ待ってよ」
鈴を鳴らすような声に引き止められる。
「助けてくれたの?」
年上にも物怖じしない、落ち着いた声。
「ねえ、あなたが助けてくれたの?」
呆然と立ち尽くしていると、少女は少し眉間に皺を寄せ、手をついて立ち上がった。
「助けてくれたんでしょう?」
僕は首を横に振った。
少女はふっと笑う。
「頭に藻が付いてる」
はっとして触れると、確かに、短い髪に、細長い藻が絡まっていた。
髪だけじゃなく、ズボンの裾や、襟にも。
少女は、やれやれ…と言いたげに肩を竦めると、背中程までの髪に絡まった藻を取り除いた。
太ももに張り付いたスカートを剥し、気だるげに立つ。
「ありがとう。あなたは、命の恩人だ」
その瞬間、僕は踵を返し、全力で駆けだした。
背後から、女の子の「あ…」と聞こえたが、それを振り切って、角を曲がる。
通りに出た瞬間、車が走ってきて危うく轢かれそうになったが、それでも全力で駆け抜け、そして、もういいだろう…というところで、立ち止まった。
せっかく乾きかけていた服も、あの一瞬で汗まみれになった。冷汗だった。
振り返って見たが、誰も追ってくる様子は無い。
ほっと…息を吐いた瞬間、脇腹に痛みが走った。
小さく呻き、その場にしゃがみ込む。手で押さえても、焼けるような痛みが慢性的に続いた。
…これ、大丈夫か? 折れていないよな?
いや、折れてはいないな…。どちらかと言えば、骨と言うよりも、筋肉の痛みだ。
いずれにせよ、早く確認すべきと思い、僕は千鳥足で進み始めた。
そうして、今に力尽きそうな足取りで進み、アパートに到着した。
集合ポストに入っていた宗教勧誘のチラシを取り出し、にぎりつぶす。
ボロボロの階段を上り、二階階段を上っていると、下の方から呼びかけられた。
「黒澤くん! 黒澤くん!」
振り返ると、三十代くらいで、ジャージとTシャツというラフな格好をして、髪を後ろに括った女性が僕を呼んでいた。管理人さんだ。名前は…誰だっけ? ああ、佐藤明美さんだ。
僕は恐る恐る、管理人さんの方を見下ろす。
管理人さんはこくこくと頷いて、僕に手招きをした。
階段を降りていくと、彼女は「やっと会えたあ~」と胸を撫で下ろしながら歩み寄ってきた。
「はい、これ」
僕の胸に、白い紙を突きつける。
黙って受け取り、眺めると、それは水道点検のお知らせだった。
「二か月後に実施するから、部屋にいてね。予定が合わないようだったら、私が立ち会うから」
静かに頷く。
管理人さんが僕の肩をぽんっと叩く。
「それじゃあ、よろしくね…」
そう言うと、髪を翻し、管理人室の方へと戻って行ってしまった。
取り残された僕は、呆然とその場に立ち尽くした。
三秒後に我に返り、歩き出す。
階段を昇り、部屋の扉の前に立った時、足元に置いてあった、置き配用の折り畳み式バッグが膨れていることに気づく。
多分、昨日注文した冷凍食品や、ミネラルウォーター、洗剤が届いたのだろう。
僕はしゃがみ込むと、南京錠のダイヤルを弄り、開錠した。
開けてみると、案の定、注文した通りの商品が入っていた。
火照っていた身体が、ほんの少し冷える感覚がした。
小さくため息をつきつつ、商品を確認する。大丈夫、ちゃんと全部入ってる。
落ち着いた僕は、それから、扉の鍵も開けるため、ショルダーバッグに手を入れた。
「…………」
そうしようと思ったのだが、僕の肩には、なにも掛かっていなかった。
僕の手は、ただただ、空を切るだけ。
ああ…やっちまった。と思う。
思い出すのは、先ほどのこと。
溺れている女の子を助けるため、川に飛び込んだ時、脇に、放り出した…。
僕は頭を抱えた。あの場所に戻るのは嫌だ。でも、部屋に入れないのはまずい。それだけじゃない。あのバッグの中には、スマホも、財布も入っているんだ…。
歩き出そうとした時、頭の中に祖母の声が響いた。
『まったく、お前は馬鹿だね。ほら見たことか、余計なことをするからそうなるんだよ』
僕は階段を降りる。
『もう諦めな。日本人がそんなに優しいと思うなよ。全部盗られたに決まってるさ。本当に、お前は馬鹿だ。学習しないのは、畜生と同じだよ? お前は豚になりたいのかい?』
階段を降り切ると、さっき歩いてきた道を、走り出す。
「ねえ!」
またあの声に引き止められた。
立ちどまり、振り返ると、集合ポストの前に、先程の女の子が立っていた。
彼女は僕のショルダーバッグを持っていて、手には、バッグから取り出した財布を握っていた。
「よかった。近くに住んでて」
僕に近づいてくる女の子。
「ごめんね。鞄の中に入ってた保険証、見ちゃった」
僕に、財布と鞄を渡す。
「さっき逃げられたから、もう一度言おうと思う」
「…………」
「助けてくれて、ありがとう」
少女に差し出された財布と鞄。
受け取った僕は、なんとなく鞄の中に手を入れてみた。指先に、冷たい感触があった。
掴んで取り出すと、それは、よく冷えた缶コーヒーだった。
「………」
「ああ、それ、さっきのお礼」
「………」
「炭酸の方が良いかな? って思ったんだけど、おにいさん、大人みたいだし…。そっちの方が良いかな…って」
いや、コーヒーは飲めない。だけど、それを言ってしまえば、彼女の善意を踏みにじるような気がして辞めた。そもそも、僕にそんなことを言えるはずがなかった。
「…………」
僕は深く頷くと、缶コーヒーを軽く掲げた。「ありがとう」という意味だった。
缶コーヒーをまた鞄に戻していると、ふと、少女の手に提げられた通学鞄が目に入る。素材的にまだ乾いておらず、微かに生臭い水が滴っていた。
僕の視線に気づいた女の子は、「これ?」と鞄をあげた。
「落とされちゃったの。教科書とか、ノートとか、ナプキンとか、まあ、いろいろ大切なものが入っているからね…。あと、呆然と立ち尽くすのも嫌だったから、飛び込んだ」
「…………」
「でも、私、金槌だったことを忘れてた」
そう言った女の子は、おどけたように笑った。
だけど、能面のような顔をし続ける僕を見て、若干バツの悪そうな顔をした。
「…笑ってよ」
生ぬるい風が、僕と二人の間を駆け抜けた。
「まあ、とにかく、中は全部やられてたね。教科書は乾かせば何とかなるかもしれないけど、ペンはもう書けないし、ノートもふにゃふにゃ。せっかく書いてた文字も滲んじゃった」
まだ何も言わない僕。
女の子は首を横に振った。
「ああ…、別に、あなたを責めているわけじゃないの。鞄さえあれば良いからね。うちの学校、鞄を持ってないと入れさせてくれないし…」
僕は静かに頷いた。
女の子は微妙な顔をしたが、まだ続ける。
「ええと、その…。とにかく、うん」
何かを言おうと、口をもごつかせたが、言葉が出なかったのか、諦めたように頷く。
「ありがとう」
必死になって絞り出した、感謝の言葉。
それに報いるべく、僕が片手をあげる。
気にするなよ…の意味を込めて、女の子の肩を叩こうとしたのだが、彼女は小さな悲鳴をあげて、三歩下がった。
「…………」
またもや、二人の間を風が通り抜ける。
僕は片腕を中途半端に上げた状態で固まり、それは何とも滑稽な恰好だった。
彼女も目をぱちくりとさせ、その場で固まった。はっとして、目を見開く。
「あ、ごめん…」
そう言って、自分の頭を差し出してきた。
そう、頭を、差し出してきた。
そう言うことをやりたいわけじゃなかった僕は、少し手を泳がせたあと、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
女の子の横を通り過ぎて、階段を上る。
「ねえ!」
女の子が言った。
「また来てもいい? お礼がしたいの?」
その言葉には首を横に振った。
今度こそ前を向き直り、階段を上り切ると、鞄から取り出した鍵を使って開錠する。
扉を開けた時、女の子が何か言った気がしたが、よくわからなかった。だけど、ちゃんと聞こえていますよ…という意味を込めて、僕は扉をコツコツと叩く。
そして、生臭くなった身体を洗うために、風呂場に向かったのだった。
これが、一か月前に起こった出来事。
これが、僕と水上紗枝との、最初の出会い。
その翌日から、彼女は毎日のように僕の部屋にやって来るようになった。
何をするのかと言えば、飲み物を買ってきたり、散らかしっぱなしだった部屋を掃除してくれたり、一方的に話したり…。
二週間を過ぎれば、一緒に買い物に行ったり、図書館についてきたり…。
正直邪魔だった。
僕は一人でいたいのに、ふと顔を上げれば、少女…いや、水上紗枝の姿がある。僕のために、何かをあくせくと遂げようとしている。
邪魔だし、まるで従者みたいで申し訳ないから、「帰れ」「もう来るな」って圧を掛けてみてもなんのその。翌日には何事も無かったように僕の住むアパートにやってきた。
そして、僕のために尽くすことの免罪符のように、こういうのだ。
「これは、恩返しだから」
恩返し…ね。
僕からしたら、恩返しだなんて、そんな大したことをしたつもりじゃない。むしろ、その後、年下に殴られて、醜態を晒したんだ。こんな奴のどこに、返す恩があるのだろう?
だけど、人には人の価値観がある。僕からすればクソみたいなことでも、誰かからしたら…水上紗枝からすれば、大切なことだってある。道端の石ころが、宝石のように見えるみたいに、彼女にとって僕は、「救世主」のような存在になったのだ。
ミジンコのような僕が、救世主となってしまったのだ。
本当、厄介なことに巻き込まれたよ。
自分のことは自分でよくわかっている。自分は彼女が思うような人間じゃない。でも、彼女がその罪悪感を拭うことが出来るのなら、僕は、彼女を邪険に扱うことができなかった。
そうして僕は、水上紗枝を川から救って一か月、彼女との縁を断ち切れずにいた。
今日も、彼女は僕の部屋にやってくるのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます