⑤
一か月前。今と変わらず、暑い日だった。
静かな路地。黒いアスファルトから熱気が湧きあがっていた。鼻を掠めた香ばしい土の匂いが、なんとなく、死の臭いなのではないか? と思った。そして、その臭いに引かれるようにして、救急車のサイレンの音が近づいてきて、僕の横を通り過ぎていく。細い路地だというのにスピードを出したまま、交差点に差し掛かり、曲がって見えなくなった。
段々と聞こえなくなるサイレンの音を右耳から左耳に流しつつ、僕は大学に行くべく、歩を進めた。
坂を登り切ると、少し息を切らしながら右に曲がる。
暑い道を避けたくて、僕は遠回りになることを覚悟で脇に逸れた。
日陰のある細い道を進み、川沿いに出る。
そこは、自転車二台がギリギリ並んで通れるほどの狭い道で、ガードレールも存在しない。先日の台風のせいか、川の水面はいつもより高く、街灯に貼り付けられた「この川であそんではいけません」という紙に説得力を持たせていた。
水面の水気を攫って吹きつけた風は、ひんやりと気持ちよかった。
街路樹が僕を覆うように枝葉を広げ、さわさわと揺れる。
世界の終わりみたいに暑い日に見つけた爽やかな道に、僕は肩の力を緩めながら歩いていた。
その時だった。
右手の川の水面から、バシャンッ! と白い水柱が上がった。
鯉でも跳ねたのかと思い、目を向ける。濁った水面で水しぶきをあげていたものを見た時、身体中に滲んだ汗が、氷のように冷たくなった。
反射的に立ち止まる。
高校生くらいの女の子が、溺れていた。
艶やかな黒髪が、昆布のように顔面に張り付いて、少女の視界を奪っている。前が見えないことに、彼女はパニックを起こし、手当たり次第に手をかいていた。手が水を打ち、飛沫を上げる。跳ねた水が彼女の顔に掛かり、さらなるパニックを誘発させた。暴れるたびに水を飲み込んで、排水溝が詰まるような音が聞こえる。
ごぼ、ごぼ、ごぼ。
茫然と見ていた僕は、喉が詰まるような感覚で我に返った。
はっとして見ると、対岸に高校生と思われる、男女のグループがあった。皆、「きゃははは」とはしゃぎながら、溺れる少女にスマホのカメラを向けている。
ああ、なるほど。
僕は一瞬で状況を理解した。
最近の若者は、過激だな…。
巻き込まれてもいけないので、僕はそっぽを向いて歩いていこうとした。
三歩歩いたところで、また立ち止まる。
少女のもがく声。
頬を伝う汗。
対岸の高校生の、下品な笑い声。
容赦なく首筋を焼く陽光。
バシャバシャと跳ねる水。
もがく声、笑い声、水の音。
火照った身体。
こういう時、祖母ならどう言うだろうか?
『早くその場を離れな。あんな下品な集団に関わったらいけないよ』
こんなところだろうか?
僕は自分で想像した祖母の声に背中を押され、また歩き始める。
また、立ち止まる。
『最近の子どもは泳ぎ方も知らないのか。本当に貧弱だね。死んだって自業自得だよ』
祖母ならきっと、こう言うだろう。
水が跳ねる。
女の子の口から、「ああっ!」と声が洩れた。
次の瞬間、僕はショルダーバッグを放り出すと、川の方を向き直り、地面を蹴っていた。
走って勢いをつけて、いつの日か世界陸上の中継で見た走り幅跳びを模倣して、跳びだす。
きっと、今の僕を見て、祖母はこう言うだろう。
『馬鹿じゃないのかい?』って。
次の瞬間、どぷん! と、世界が水に包まれていた。ズボンとシャツが水を吸って、ずんっと重くなる。筋肉を引き絞るようにして手をかくと、川の中央でもがき苦しむ少女の方へと泳いでいった。耳の奥でずっと泡が弾けている。陸地の男女の笑い声なんて聞こえない。
お前のためじゃない。ただ、汗を流したかっただけだ。
そうやって、自分の行為を正当化して、溺れる少女の背後に回り込み、細い腹に腕を回した。
祖母に水泳を習わされていたことが、初めて役に立った。
パニックになっている少女は、ごぼごぼと言葉にならない悲鳴を上げ、僕にしがみつこうとした。それをぐっと力を込めて制し、背泳の要領で顔を上に向けさせた。
そのまま、岸まで泳いでいって、梯子を使って少女を道路まで引き上げる。
少女は口から、飲み込んだ水を藻と一緒に吐き出すと、糸が切れた人形のようにその場に倒れこんだ。ぐっちょりと濡れた髪の毛が、まるで打ち上げられたわかめのようだった。
制服のボタンがはじけ飛び、少女の白い胸が露わになっていた。乳房の中央に、ナイフで刺されたような、くちゃっとした傷跡が見える。
誰かに、刺されたのかな?
喉の奥から湧き上がった疑問を飲み込んで、はだけた制服を閉じ、胸と傷跡を覆い隠す。
くそが…。
ぺっ! と口の中に入った水を吐いて、頬の水を拭う。
笑いながら見ていた男女は、突然現れた僕に目を丸くしてその場に突っ立っていた。しかし、無意識のうちにスマホのカメラを向けている。
「なにやってんすか?」
男子の一人が、へらっと笑って言った。
「おにいさん、その子の知り合いですか?」
…知り合いなら何だよ。
僕は無視をして、シャツを絞る。生臭い水が滴り、跳ねた。
股間の辺りからも水が滴る。これじゃあ、お洩らししたみたいだ。
とりあえず身軽になった僕は、しゃがみ込み、青白くなった少女の頬をぺちぺちと叩いた。湿っているのでなかなかいい音がする。
何度か叩いていると、少女のまつげがぴくっと動く。良かった、死んではいないな。
「おにいさん、邪魔しないでよ!」
女子の誰かが言った。
「その子、落とし物を取りに川に飛び込んだだけなんだから!」
だったらなんで溺れてるんだよ。自分が泳げるかどうかくらいの判断が着くだろ。
「あーあ、おにいさんのせいで、落とし物拾えなかった~」
わざとらしくもう一人が言う。
川の下流の方を見ると、確かに、何か大きいものが浮いているのが見えた。
遠目だとわかりにくいけど、あれは、通学鞄だった。
なるほどね。
「お兄さん悪者じゃん」
その言葉を無視して、もう一度川に飛び込む。
青く濁った水の中を泳いでいって、ゆったりと流れていく大きなものを掴んだ。
懐かしい感触…。引き寄せて見ると、案の定、通学鞄だった。
なるほどね。
無事通学鞄を回収した僕は、また、梯子を使って陸に上がった。
ざらついたアスファルトに手をつき、立ち上がろうとした瞬間、水浸しになった僕の前に、誰かが立った。
顔を上げると、当然、高校生らだった。
男子の一人が指の関節を鳴らした。
「こいつ、まじでなに?」
「しらね。正義面してるのが一番むかつくわ」
「おにいさん、殴っていい?」
「いいんじゃね? こいつ一人だけだし」
少し離れた場所で、女子らがくすくすと笑いながら、こちらにスマホのカメラを向けていた。
僕は水を滴らせながら立ち上がると、鞄を掴み、気を失っている女の子の方へと歩いて行く。
肩を掴まれた。
「おい、無視すんなよ」
その手を振り払い、女の子へと一歩踏み出す。
次の瞬間、再び肩を掴まれ、無理やり振り返らされた。
僕の視界に、ゴツゴツとした拳が飛び込んでくる。
反射的に顔を引いたが、遅かった。
ガツンッ! と、鼻先に激痛。赤い火花が散って、視界が歪んだ。
踏みとどまることができず、しりもちをつく。息をする間もなく、顔面に蹴りを入れられ、熱したアスファルトに倒れ込む。
鼻の奥にどろり…とした感触があって、地面に赤い液体が滴った。
思わず鼻を押さえた僕に、男子らは笑った。
「こいつだっせ」
また、拳を振り上げる。
殴られた…と感じる間もなく、僕は気絶した。
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