一か月前。今と変わらず、暑い日だった。

 静かな路地。黒いアスファルトから熱気が湧きあがっていた。鼻を掠めた香ばしい土の匂いが、なんとなく、死の臭いなのではないか? と思った。そして、その臭いに引かれるようにして、救急車のサイレンの音が近づいてきて、僕の横を通り過ぎていく。細い路地だというのにスピードを出したまま、交差点に差し掛かり、曲がって見えなくなった。

 段々と聞こえなくなるサイレンの音を右耳から左耳に流しつつ、僕は大学に行くべく、歩を進めた。

 坂を登り切ると、少し息を切らしながら右に曲がる。

 暑い道を避けたくて、僕は遠回りになることを覚悟で脇に逸れた。

 日陰のある細い道を進み、川沿いに出る。

 そこは、自転車二台がギリギリ並んで通れるほどの狭い道で、ガードレールも存在しない。先日の台風のせいか、川の水面はいつもより高く、街灯に貼り付けられた「この川であそんではいけません」という紙に説得力を持たせていた。

 水面の水気を攫って吹きつけた風は、ひんやりと気持ちよかった。

 街路樹が僕を覆うように枝葉を広げ、さわさわと揺れる。

 世界の終わりみたいに暑い日に見つけた爽やかな道に、僕は肩の力を緩めながら歩いていた。

 その時だった。

 右手の川の水面から、バシャンッ! と白い水柱が上がった。

 鯉でも跳ねたのかと思い、目を向ける。濁った水面で水しぶきをあげていたものを見た時、身体中に滲んだ汗が、氷のように冷たくなった。

 反射的に立ち止まる。

 高校生くらいの女の子が、溺れていた。

 艶やかな黒髪が、昆布のように顔面に張り付いて、少女の視界を奪っている。前が見えないことに、彼女はパニックを起こし、手当たり次第に手をかいていた。手が水を打ち、飛沫を上げる。跳ねた水が彼女の顔に掛かり、さらなるパニックを誘発させた。暴れるたびに水を飲み込んで、排水溝が詰まるような音が聞こえる。

 ごぼ、ごぼ、ごぼ。

 茫然と見ていた僕は、喉が詰まるような感覚で我に返った。

 はっとして見ると、対岸に高校生と思われる、男女のグループがあった。皆、「きゃははは」とはしゃぎながら、溺れる少女にスマホのカメラを向けている。

 ああ、なるほど。

 僕は一瞬で状況を理解した。

 最近の若者は、過激だな…。

 巻き込まれてもいけないので、僕はそっぽを向いて歩いていこうとした。

 三歩歩いたところで、また立ち止まる。

 少女のもがく声。

 頬を伝う汗。

 対岸の高校生の、下品な笑い声。

 容赦なく首筋を焼く陽光。

 バシャバシャと跳ねる水。

 もがく声、笑い声、水の音。

 火照った身体。

 こういう時、祖母ならどう言うだろうか?

『早くその場を離れな。あんな下品な集団に関わったらいけないよ』

 こんなところだろうか?

 僕は自分で想像した祖母の声に背中を押され、また歩き始める。

 また、立ち止まる。

『最近の子どもは泳ぎ方も知らないのか。本当に貧弱だね。死んだって自業自得だよ』

 祖母ならきっと、こう言うだろう。

 水が跳ねる。

 女の子の口から、「ああっ!」と声が洩れた。

 次の瞬間、僕はショルダーバッグを放り出すと、川の方を向き直り、地面を蹴っていた。

 走って勢いをつけて、いつの日か世界陸上の中継で見た走り幅跳びを模倣して、跳びだす。

 きっと、今の僕を見て、祖母はこう言うだろう。

『馬鹿じゃないのかい?』って。

 次の瞬間、どぷん! と、世界が水に包まれていた。ズボンとシャツが水を吸って、ずんっと重くなる。筋肉を引き絞るようにして手をかくと、川の中央でもがき苦しむ少女の方へと泳いでいった。耳の奥でずっと泡が弾けている。陸地の男女の笑い声なんて聞こえない。

 お前のためじゃない。ただ、汗を流したかっただけだ。

 そうやって、自分の行為を正当化して、溺れる少女の背後に回り込み、細い腹に腕を回した。

 祖母に水泳を習わされていたことが、初めて役に立った。

 パニックになっている少女は、ごぼごぼと言葉にならない悲鳴を上げ、僕にしがみつこうとした。それをぐっと力を込めて制し、背泳の要領で顔を上に向けさせた。

 そのまま、岸まで泳いでいって、梯子を使って少女を道路まで引き上げる。

 少女は口から、飲み込んだ水を藻と一緒に吐き出すと、糸が切れた人形のようにその場に倒れこんだ。ぐっちょりと濡れた髪の毛が、まるで打ち上げられたわかめのようだった。

 制服のボタンがはじけ飛び、少女の白い胸が露わになっていた。乳房の中央に、ナイフで刺されたような、くちゃっとした傷跡が見える。

 誰かに、刺されたのかな?

 喉の奥から湧き上がった疑問を飲み込んで、はだけた制服を閉じ、胸と傷跡を覆い隠す。

 くそが…。

 ぺっ! と口の中に入った水を吐いて、頬の水を拭う。

 笑いながら見ていた男女は、突然現れた僕に目を丸くしてその場に突っ立っていた。しかし、無意識のうちにスマホのカメラを向けている。

「なにやってんすか?」

 男子の一人が、へらっと笑って言った。

「おにいさん、その子の知り合いですか?」

 …知り合いなら何だよ。

 僕は無視をして、シャツを絞る。生臭い水が滴り、跳ねた。

 股間の辺りからも水が滴る。これじゃあ、お洩らししたみたいだ。

 とりあえず身軽になった僕は、しゃがみ込み、青白くなった少女の頬をぺちぺちと叩いた。湿っているのでなかなかいい音がする。

 何度か叩いていると、少女のまつげがぴくっと動く。良かった、死んではいないな。

「おにいさん、邪魔しないでよ!」

 女子の誰かが言った。

「その子、落とし物を取りに川に飛び込んだだけなんだから!」

 だったらなんで溺れてるんだよ。自分が泳げるかどうかくらいの判断が着くだろ。

「あーあ、おにいさんのせいで、落とし物拾えなかった~」

 わざとらしくもう一人が言う。

 川の下流の方を見ると、確かに、何か大きいものが浮いているのが見えた。

 遠目だとわかりにくいけど、あれは、通学鞄だった。

 なるほどね。

「お兄さん悪者じゃん」

 その言葉を無視して、もう一度川に飛び込む。

 青く濁った水の中を泳いでいって、ゆったりと流れていく大きなものを掴んだ。

 懐かしい感触…。引き寄せて見ると、案の定、通学鞄だった。

 なるほどね。

 無事通学鞄を回収した僕は、また、梯子を使って陸に上がった。

 ざらついたアスファルトに手をつき、立ち上がろうとした瞬間、水浸しになった僕の前に、誰かが立った。

 顔を上げると、当然、高校生らだった。

 男子の一人が指の関節を鳴らした。

「こいつ、まじでなに?」

「しらね。正義面してるのが一番むかつくわ」

「おにいさん、殴っていい?」

「いいんじゃね? こいつ一人だけだし」

 少し離れた場所で、女子らがくすくすと笑いながら、こちらにスマホのカメラを向けていた。

 僕は水を滴らせながら立ち上がると、鞄を掴み、気を失っている女の子の方へと歩いて行く。

 肩を掴まれた。

「おい、無視すんなよ」

 その手を振り払い、女の子へと一歩踏み出す。

 次の瞬間、再び肩を掴まれ、無理やり振り返らされた。

 僕の視界に、ゴツゴツとした拳が飛び込んでくる。

 反射的に顔を引いたが、遅かった。

 ガツンッ! と、鼻先に激痛。赤い火花が散って、視界が歪んだ。

 踏みとどまることができず、しりもちをつく。息をする間もなく、顔面に蹴りを入れられ、熱したアスファルトに倒れ込む。

 鼻の奥にどろり…とした感触があって、地面に赤い液体が滴った。

 思わず鼻を押さえた僕に、男子らは笑った。

「こいつだっせ」

 また、拳を振り上げる。

殴られた…と感じる間もなく、僕は気絶した。

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