「ねえ、スーパー寄って行っていい?」

「………」

 僕は首を横に振った。

「いいからいくの」

 僕の意思を無視して、水上は腕を引っ張り、交差点の角にあった小さなスーパーに入った。

 コンビニより一回り大きいくらいのスーパーだったが、夕方と言うこともあり、たくさんの客がいた。そのほとんどが主婦だった。横には幼い子供がいて、各々、母の裾を引っ張り、「ねえ、お菓子食べたい」とか「あれ買って」、「今日はハンバーグがいい」なんて訴えている。

 平和の象徴のはずの、微笑ましい光景。

 それなのに、なんだか腹立たしく思うのはなんでだろう…。

 ぼんやりとしていると、水上が袖を引っ張った。

「カレーにしていい?」

 出来の悪いコンピューターみたいに固まる。

「カレーは嫌?」

 首を横に振る。

 水上紗枝は安堵したような顔をした。

「それじゃあ、カレー作るね。辛口でいい?」

 首を横に振る。

「じゃあ、中辛?」

 首を横に振る。

「甘口だね。わかった」

 頷いた水上は、僕の手を握ると、香辛料売り場へと歩いて行った。

 沢山の種類のカレー粉が並んだ商品棚。水上は「ええと、バーモンドは…」と呟きながら指を動かし、右下にあったものを手に取った。

「あった。ミヤビさんって、甘口が好きなんだね」

「…………」

 少し考えてから、うん…と頷いた。

 祖母が甘口のカレーが好きだった。一度、買い出しに行かされた時、間違えて辛口を買ってしまったために、殴られて倉庫に閉じ込められたことがある。以来辛口にはトラウマがある…とは言えなかった。わかってくれるわけがない。

「私も甘口が好きだね。辛口って、舌が痛くなるでしょ」

 同意…の意味を込めて頷く。

「お肉は何にする? 牛肉?」

 頷く。

「わかった。じゃあ、買うね。野菜はもう、ジャガイモ、ニンジン、あと、玉ねぎでいいよね? これが王道だ。他に欲しい具はある?」

 首を横に振る、

「わかった」

 頷いた水上紗枝は、迷いのない手つきで牛肉、ジャガイモ、ニンジンに玉ねぎを籠に入れると、レジの行列に並んだ。

 目の前に、若い母親が並んでいて、その足元には四歳くらいの女の子がいた。

女の子は、母親と離れまい…とでも言うように、母のスカートの裾を掴んでいる。母は「もうー、ひっぱらないで」と、言いながらも、娘の手を離すようなことはせず、その小さな頭を愛おしそうに撫でていた。

 なんだか、腹立たしく思えた。

 順番が回ってきたので、僕は財布から二千円を取り出し、紗枝に渡した。

 受け取った彼女は、買い物かごを台に置き、「お願いします」「レジ袋要りません」「あ、ポイントカード持ってます」と、慣れた声で言っていた。それだけじゃない。顔見知りの店員さんだったようで、「毎日暑いですねえ」なんて世間話もしていた。

 その空気がなんだか居心地が悪くて、僕は先に袋詰め台の方へと行ってしまった。

 そうして買い物を終えて、外に出ると辺りは薄暗くなっていた。

 西の山が、血が滲むかのように赤くなっている。

 僕は黙って手を伸ばし、水上紗枝の右手から、商品が入ったエコバッグをとった。

 すかさず、彼女が僕からエコバッグを奪い返す。そして、「渡さないよ」とでも言うように、左手に提げてしまった。

「体調、大丈夫?」

 ああ、そういうことか。

 大丈夫だよ。何回言ったらわかるんだよ…の意味を込めて、食い気味に頷いた。

 水上紗枝はため息交じりに笑うと、僕の脇腹を小突いた。意外に痛く、思わず身を捩る。

「うそつき」

 彼女は僕の方を見ないまま、僕の頬をぺちぺち…と叩いた。

「顔、青くなってる」

 まあ、そうなんだろうな…って思い、自分の頬に触れる。スーパーのクーラーで冷えたのとは違う、生々しい冷たさがあった。

「お葬式、一緒に行こうか?」

 そういう水上紗枝の頬は、赤く染まっていた。夕陽に当てられたためか、それとも、他の理由があるのかは、わからない。

 彼女の問いに対して、僕は静かに首を横に振った。

 君は来ないでいいよ。いや、多分、僕も行かないのだと思うけど。

「…そう」

 水上紗枝は何を考えているのかわからない顔をして頷いた。

 再び前を向き直り、スキップでもしそうな勢いで歩く。

「カレー、楽しみにしていてね」

 僕は頷いた。それから、無理して笑ったけれど、なんだか、頬が千切れるかのような感覚があった。

 肩を並べて十分ほど歩き、僕が暮らしているアパートに辿り着いた。

 今に足元が抜けそうな階段を上り、二〇二号室の扉に鍵を差す。その鍵には、水上に貰ったイルカのストラップがついていた。

 鍵を開けて中に入ると、まず電気をつけて、それから、窓を全開にした。家賃二万…とわけありげな部屋だが、それは、ここが築四〇年という今に潰れてもおかしくない築年数のためであって、決して幽霊が出るようなことはない。日当たりや風通しだってよかった。

 淀んだ空気が一層されると、水上紗枝が持参したエプロンを身に着け、ガスコンロの前に立った。僕一人なら、あそこのツマミを捻ることは一生無いだろう。

「じゃあ、作るから」

 何か手伝うよ…。の意味を込めて、彼女の横に立つ。けれど、やんわりと手で制された。

「ここ狭いから、危ないの。ミヤビさんは座って待っててね」

それに…と言って続ける。

「これは恩返しだから。なるべく、ミヤビさんの手は煩わせたくないし…」

 恩返し。

 そう言われてしまえば、僕は彼女にとやかく言うことができず、黙って下がった。

 机の椅子に腰を掛けると、本棚から小説を抜いて、ぱらり…とめくる。

 読んでいる内に、肉を炒める香ばしい音、湯が煮える音…、そして、カレー粉が溶けて食欲をそそる良い匂いが漂い始めた。

 胃が鳴る感覚を覚えつつ顔を上げると、キッチンに立つ水上が見えた。

 彼女は背中まである髪を後ろで括り、額に汗を滲ませながら鍋をかき混ぜていた。たまに目に入るのか、手の甲で拭っている。言っちゃ悪いが、たかが料理だ。それなのに、あんなに苦しそうな表情をされると、胸に来るものがあった。

 なんだか、申し訳ないなあ…って。

 タイミングを見計らい、僕は壁に立てかけてあった折り畳みテーブルを広げて置いた。

 台拭きで拭いたその上に、カレーの皿が置かれる。

「ごめん、福神漬け買ってなかったね」

 いいや、気にしないよ…の意味を込めて、首を横に振った。

 コップにミネラルウォーターを注いだら、向かい合って座った。

「それじゃあ…」

 彼女の声を合図に、手を合わせる。

「いただきます」

「…………」

 いただきます…の意味を込めて、僕は軽く頭を下げた。

 スプーンを掴むと、ご飯と一緒に掬い、口に運ぶ。同じメーカーの、同じルーを使っているというのに、祖母がつくるものとは全く味が違った。なんなんだろうな…。具材か? 煮込み方か? それとも、僕が気づかない隠し味でもあったのだろうか?

 まあでも、それを声に出して聞くことはせず、胸の内に仕舞う。

 向かいでは水上紗枝が、ずっと一人で「美味しいね」「野菜を細かく切って見たの」「はちみつを入れてみたの」としゃべっていた。

 僕は、わざとらしく笑うと、ただただ、頷く。

 食事を終えると、僕が皿洗いをした。その間、水上は僕の部屋を軽く掃除していた。それが終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていて、網戸には小さな虫がくっつく様になった。

 それから、小説の続きを読んだ。水上は学校の宿題をこなしていた。

 時間が過ぎ、八時を回った。

「じゃあ、ミヤビさん、私、もう帰るから」

 すくりと立ち上がった水上は、勉強道具を鞄に詰め込み、立ち上がった。

 僕は、気を付けて帰れよ…の意味を込めて、頷き、それから、彼女の頭、肩、頬の順に撫でてやった。彼女は嬉しそうに頬を赤らめ、猫のようにすり寄ってきた。

「それじゃあ、帰るね」

 二人で玄関に向かう。

「まあ、大丈夫だとは思うけど、余ったカレーは、寝る前にでもお皿に移して、冷蔵庫に入れてね。この季節じゃ腐りやすいから」

 わかったよ…と頷く。

 ローファーを履いた水上は、コンコン…とつま先でタイルを叩き、背筋を伸ばした。

「じゃあ、また明日」

 うん。

 ドアノブに手を掛けた水上は「あ…」と洩らし、僕の方を振り返った。

「一応言うけど…、あんまり、気にしないでね…」

「………」

「申し訳ない…とか、後ろめたい…とか、思わないでね」

 そう言った水上は、僕の薄い胸を小突いた。

「ミヤビさんは、当たり前のことをしたんだから」

 手を下した彼女が、ぴょんっと、可愛らしい動作で半歩下がる。後ろ手で扉を開けた。

「これは恩返しなんだから…」

 静かに、頷く。

「おばあさんのお葬式に行くなら、また言ってね。私が付き添うから」

 うん…。多分、行かないだろうな…。

「それじゃあ、また明日。今日も楽しかったよ」

 名残惜しそうに手を振った水上は開いた扉から外に出て行ってしまった。

 扉がバタン…と閉まる。取り残された僕は、おもむろにサンダルを履いて外に出た。

 通路の柵から身を乗り出して見ると、彼女はもう階段を降りて、向かいの道路へと出ていた。薄暗がりの中、こちらを見る僕に気づき、手を大きく振った。

「さよーならー」

 可愛らしい声が、闇に響く。

 僕も軽く手を振ってから、部屋に戻った。

 部屋にはまだカレーの匂いが充満していた。家庭的…というか、温かみのある香りに、なんだかほっとする。

 さて…、とりあえず、洗濯ものでも取り込もうか…。

 そう思い、サンダルを脱いで部屋に上がろうとした…その時だった。

 ピコン…って、机の上に置いたスマホが鳴った。

 水上じゃない。彼女はスマホを持っていない。

 彼女以外に、僕のスマホにメッセージを入れてくる者…と言えば、伯父さんに限られた。

 恐る恐るスマホに近づき、覗きこむ。やっぱり…、伯父さんだった。

「……………」

 恐る恐るメッセージアプリを開く。

 夕方ごろに届いた、『おばあちゃんがしにました』…というメッセージの下に、『おつやをおこないます』『おそうしきはみっかごです』というメッセージが続く。そして、今しがた届いた、『なるべくはやくへんしんください』の文字。

 祖母が死んだ…。

 改めて、その事実を突きつけられたとき、僕は北極の中に放り込まれたときのように、身震いをした。

 どうしようかな。帰ろうかな? 特急電車に乗れば二時間だ。時間的にも、値段的にもいけない距離じゃない。それに、今は夏休み。バイトは内職だし…、「いそがしかったです」は言い訳にはならないだろう。でも、行きたくないんだよ…。

 どうせ、葬儀に参列するのは、祖母のことが好きな奴らだ。

 きっと、何も知らない親戚らは、祖母を「女手一つで、孫を立派に育て上げた、素晴らしい母親」と褒めたたえるのだろう。

でも、それは外面だ。

僕の中の祖母は、名誉が大好きで、恥が嫌い。気に入らないことがあればすぐに暴力を振るい、か弱い孫を倉庫に閉じ込めるような、鬼のような存在だった。

 大っ嫌い…と言うよりも、怖い存在なのだ。

 そんな人の葬式に参加して、祖母に尊敬のまなざしを向ける者たちからの、感動的な口上を浴びるなんて御免だ。気持ちが悪くてたまらない。

 とはいえ、葬儀に出席しないと、死んだ祖母が化けてでるような気がしてならなかった。

 ああ、行きたくない。でも、行かなきゃだめだ。でも、行きたくない。また怒られる。ぼこぼこに殴られる。倉庫に閉じ込められる。

 ああ、どうしよう。どうしよう。

 どうすればいいかわからず、僕は頭皮に爪を押し当てて、ガリガリと掻いた。

ガリガリ、ガリガリ…掻き続ける。

「………」

 どうする? 本当にどうしよう…。

 ガリガリ…ガリガリ…。

 どうしよう…、どうすればいい?

 ガリガリガリ…ガリ…。

 次の瞬間、頭皮の一部に、焼けるような痛みが走った。我に返った僕は、電気に触れたみたいに手を離し、覗き込んだ。

案の定、中指に抉れた皮膚と毛がこびり付いている。

 遅れて、その熱くなった部分に、生温かい血が滲むのがわかった。

 ああ、またやっちまった…。そう思った僕はうなだれ、椅子に腰を掛けた。もうすっかり、葬式に行く行かない…の悩みは彼方に葬り去られていた。

 絆創膏…いやだめか。頭だから。

ほんと、なにやってるんだろ…。

 感情をぐちゃぐちゃにしつつ、ふと机の上を見ると、小さな紙が置いてあった。

 ゴミだろうか…? と思い、手を伸ばし、それを掴む。ひっくり返して見ると、それは水上からの手紙だった。

 内容はなんてことない。

『カレー、美味しかったですか?』

 ただ、それだけの内容。

 僕は少しだけ悩んだ後、ペン立てからボールペンを抜くと、彼女の文字の下に、「美味しかったですよ」。そして、これを書くかどうか悩んだが、「ありがとう」と書いた。

 また、机の上に伏せておく。

 左胸の奥で暴れていた心臓は落ち着きを取り戻していて、僕は安堵の息を吐き、俯いた。ちょうどその時、額から血が伝う。

 ほんと、情緒不安定だな。自分は…。まあ、これでも、マシになった方か。

 水上紗枝に会うまでは、もっと酷い生活を送っていたからな…。

「………」

 僕はおもむろに手を動かし、机の上の紙に触れた。

 水上紗枝に出会ったのは、祖母が死んだ今日より、一か月前のことだった。

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