『おばあちゃんがしにました』

 図書館での勉強を終えて、いざアパートに帰ろうと歩き始めたところに、そのメッセージは送られてきた。

 僕は立ち止まり、スマホの画面を、じっと見つめていた。

 おばあちゃんが、しにました。

 読み間違いじゃなく、ちゃんとそう書かれている。その、まだスマホに慣れていないような平仮名だけの簡潔な文章は、僕の理解を鈍らせた。

 おばあちゃんが、しにました。

 お祖母ちゃんが、死にました。

 頭の中でそうやって変換してやっと、理解する。

「…………」

 祖母が、死にました。

 ああ、死んだのか…。なるほど、死んだのか…。この三日間音沙汰なしだったから、どうしているのだろう? とは思っていたが、死んだのか。息が止まったってことだ。

 あの人でも死ぬんだな。まるで、日本の公用語が、スワヒリ語にでもなった気分だ。

「なにやってんの?」

 横から声が聞こえて、僕は肩を跳ねさせた。

 スマホをポケットにねじ込むと、なんてことないような顔をして振り返る。

「うん? ミヤビさん?」

 そう言って首を傾げていたのは、ポロシャツとスカートを身に纏った女の子だった。

 眠たげな瞳に、通った鼻筋。唇は薄く、ギラリと光る陽光に照らされて、肌が白く光っている。制服が合っていないと思えるくらいに線の細い体格をしていて、背中まである黒髪は、生ぬるい風に吹かれて、美しく揺らめいていた。

 近くの高校に通う、水上紗枝。

 一見、知的な印象を抱かせる容姿をしているが、彼女は唇を尖らせて、幼さを感じさせる口調で言った。

「なによお、急に隠して…。そんなに都合がわるいわけ?」

 その言葉に、僕は息が速くなるのを感じながら、首を横に振った。ごめんよ…という意味だ。

 水上紗枝は、肩を竦めた。

「ミヤビさんの おばあちゃん、死んだの?」

「……………」

 やっぱ見られていたか…。

 僕は顔を顰めながら頷く。

「母方のおばあちゃん?」

 首を横に振る。

「じゃあ、お父さんの方か…。ってか、そう言えば、前にミヤビさん、離婚してるって言ってたね。ごめんごめん」

 いや、そんなことは言ったつもりはない。質問攻めにあった時に頷いただけだ。

 その瞬間、まるで熱中症になった時のように、視界が歪み、耳の奥に水が溜まったかのような感覚がした。足もとがおぼつかなくなり、傍にあった電柱に背をもたれる。

「あ…、大丈夫?」

 水上紗枝が手を伸ばし、僕の腕を掴んで支えた。

「気分、悪いの?」

 その質問に、僕は首を横に振った。そんなわけないだろう? って意味だった。

 息を一つ吸い込んで立ち上がると、心配そうに見つめてくる水上紗枝の頭をぽんっと叩く。彼女はまんざらでもないような顔をして頷いた。

「帰ろっか」

 その言葉を聞いて、僕はため息を一つ吐いて、歩き始めた。

 だけどダメだ。お腹の中でカロリーが燃焼不良を起こしているみたいに、足に力が入ったり、入らなかったり…。歩けてはいるけれど、歩けているとは言えない、何とも間抜けな歩みになってしまった。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

 紗枝が僕の横に並んだ。

 僕は直射日光で熱された塀に手をつくと、食い気味に頷いた。大丈夫だよって、意味だった。

 そのまま、今に不時着しそうな飛行機のように、身体を揺らしながら歩き始める。だが、いつもなら、金魚の糞のようについてくるはずの紗枝がついて来ていないことに気が付いた。

「…………」

 なんだ…? と思い立ち止まり、振り返る。

 夕方で、通りの向こうから西日が差し込んでいる。その血のように赤い光を背にしながら、水上は頬を膨らませていた。

「………………」

 何だよ…。何が言いたいんだ…。

 水上紗枝を邪険に扱ったくせに、いざ不機嫌になった彼女を見た瞬間、僕は胸をすくような不安に襲われ、その場に立ち尽くした。

 僕の横を、バイクが通り過ぎる。

 そのエンジン音と熱風に煽られて、バランスを崩し、そのまましりもちをついた。

 痛い…というか、熱い。立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。

 コツコツ…とローファーの靴底がアスファルトを叩く音がした。

 顔を上げると、口を一文字に結んだ水上紗枝が立っていて、「ほらいわんこっちゃない」とでも言いたげな目で、僕を見下ろしていた。

 黙って、僕に手を差し出す。観念した僕は彼女に手を伸ばした。

 僕の手首を掴み、引っ張る。よろめきながらも僕を立たせた水上は、僕を軽く抱きしめ、汗が滲んだ背中をぽんぽん…と叩いた。

「大丈夫だよ」

 まるで赤子をあやすかのような言い方に、僕は「ごめん」の意味を込めて頷く。

「ほら、帰ろう」

 やっぱり、足には力が入らなかったから、水上紗枝に支えてもらいながら歩き始めた。

 暑い、とにかく、暑い。夕方だというのに、暑い。

 連日うだるような猛暑が続き、四国の何処かの県では、観測史上最高温度を記録したらしい。街角の温度計を見ると、四十五度となっていた。直射日光のせいなのだろうけど、そのくらいはあってもおかしくない、とろけるような世界だった。

 テレビの気象学者は、ラニーニャ現象のせいだ…と言っていたが、地球温暖化の影響も少なからずあるのではないか? と思う。歩いていれば、どこのエアコンの室外機からも熱風が噴き出していて、傍を通るだけで淀んだ空気が僕たちの足元を舐めた。いつもならうるさいはずの蝉も、日射病に掛かったかのように静かだった。その静けさが逆に、この暑さの異様さを際立たせているような気がした。

「暑いね…」

 歩きながら、水上紗枝がそう洩らす。

 僕は「そうだな」の意味を込めて頷いた。

「ミヤビさんの、おばあちゃんてさ…、どんな人だったの?」

 水上が聞いてくる。

「優しい人?」

 僕は首を横に振った。

「じゃあ、楽しい人?」

 楽しいも優しいも、区別が無いだろ…って思いながら、首を横に振る。

「それじゃあ…、怖い人?」

 こく…と頷いた。

「そっか、最低な人?」

 それにも、僕は小さく頷く。

「そっか」

 水上紗枝は嬉しそうに頷いた。

 僕のポケットの中で、スマホが震える。多分、伯父さんからだ。きっと、通夜とか、葬式の日程を送ってきたのだろう。いや…、最近スマホを持ったばかりのおじさんが、そう言った細かいことを送れるだろうか?

「…………」

 まあ、どうでもいいや。

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