第35話 温かな光

 唇が、吐息が震える。

 自分は幽霊だと言うのに。

 でも、揺が傍で見守ってくれるから、きっと出来る。


「私ね。記憶がなかった頃、成仏できないのはなんでだろうって考えてたの。

きっと誰に殺されたか分からないから、真実を知りたいからだってそう思ってた。

多分その通りで、私の未練はほぼ晴れてる。

私に、標君を呪う気持ちはないの」


 揺は何度も聞いた言葉を口にする。

 夏樹の意思に迷いは無い。いつだって優しいのだ。


「……ただ、殺されて悲しかったし、時を戻せるなら戻したいけど。出来ないことも分かってるよ」

 そう、私は。

「私は、死んだ自分を、戻れない自分を受け入れるのはとても早かったの」

 ヒュッと恵美が息を呑む音が聞こえる。

「揺君と話した時にはもう意思は決まってた。

私は……自分の人生に未練はなかった。」


 クッションを抱いたままふわりと浮き上がった。

 家族の輪を抜けて、揺の隣に移動する。

 そのままふわふわと浮かんでは沈んでいる。

 家族の目からは、ゆらゆらふわふわとクッションが移動しているように見える。

 恵美の震えた指先を翔吾が握った。

 死んでからの夏樹の笑顔の裏側をいきなり見せつけられている。


「生きている時は毎日ちゃんと生きてたよ。

学校行ったり勉強したり、友達と話したり。長谷川夏樹という人生を謳歌していたの。

でも……たまに虚しくなる時があって。

ただ夜の空を見ているだけで、黄昏に染まる屋上から街を見下ろすだけで満たされるような、そんな時があったの……。

こういうの、諦感って言うんだっけ」

「お姉ちゃん……?」

「けど、私はこういう私を父さんに、母さんに、真菜に言ったことはなかったよね。

私は多分……ありのままを認めて欲しかったんだと思う。」

 しゅたりと着地して、少しづつ家族に近づいていく。

 一歩一歩、確実に歩みを進める。

「ごめんね、こんな娘で。

私は優しいとか人気とか言われてるけど、自分に自信がなかったの。大きな執着も感情豊かさもなかった」

「大丈夫よ」

 母が一歩歩み寄る。

「夏樹が自信が無いなら、私達が認めるから。

貴方は間違いなく私の、私達の自慢の娘よ。

たとえ諦めが多くても、違う世界を見ていたとしても、私の娘なことに変わりなんてないんだから」

「お母さん……」

「だから、生きて欲しかったの。

……どうか、幽霊のまま過ごすにしても、次の人生を生きるにしても、幸せでいて欲しいのよ」

「ありがとう……」

「そうだぞ、夏樹。そもそも夏樹がどこか違う視点を持ってたのは分かってたし」

「え」

「なんとなく、ねえ……?」

「私もそういうことあるし。お姉ちゃんの妹だからね」

 真菜は、恵美は、翔吾は目を合わせた後、悪戯を企むようににひっと笑った。

「だから、何も心配いらないんだからね!」

 ああ、温かい。

 愛する家族の笑顔を見て、夏樹の瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

ーーああ、何も心配なかったんだ。

ーーそうか。私は……大好きな人達にありのままを認めてほしかったのか。

 やっと気づけた。

 幽霊になることでようやく望みに気づけた。

 溢れる涙を手の甲で拭っていると、後ろから揺が肩に手を置くように手を伸ばしてきた。

「夏樹先輩、結構自信ないよな。自己肯定感が低いのに不安定感がない珍しい人な気がする。

でも結構大丈夫なものなんだな……こっちが励まされた」

「ゆらぐ君……」

「俺も先輩の二面性にはそりゃ驚いたけど、嫌いになんてならねえよ。

夏樹先輩は俺にとって優しくて、放っておけない先輩だから。ありがとう、感謝してる」

「こちらこそ、ありがとう……」

 ぎゅっとクッションを抱えて、破顔した。

 その時、ぱぁぁっと優しい光が夏樹を包み込んだ。

 夏樹は、揺は、その光が眩しく思えて一瞬目を瞑った。

 やがて目が慣れてきて、それを心地好いものと認識できるようになってきた。

「これは……!?」

「温かいな……」

「えっ、何が起きてるの!?揺君、説明して!」

 長谷川家の面々は相変わらず見えないので、状況の把握が出来ない。

「ええと、夏樹先輩を優しい光が包み込んでます……。すげえ、初めて見た……」

「そっか、私、成仏できるんだ」

「そうみたいだな。長谷川さん。夏樹先輩が成仏できそうです」

「!! そうか……」

「もう行っちゃうのね……」

「そんな、お姉ちゃん。やっと会えたのに……」

 認めると同時に寂しがって、唇を噛む。

 一度死に別れて、昨日改めて死を悼んだ。

 なんども別れを体験して分かっているはずなのに、再びの別れが寂しくてたまらない。

「大丈夫だよ。分かり合えたから。

私達はずっと家族だよ。いつだって見守っているからね」

「うん…!」

「夏樹、ありがとう」

「夏樹先輩、良い家族だな。正直羨ましいよ」

「でしょー。

私はここの家の子で幸せだったよ」

「ありがとう、夏樹」


 改めて夏樹は振り返って揺に向き直る。

「ゆらぐ君。ありがとう、お陰で成仏できるみたい」

「良かったな。安心したよ。向こうの世界でも元気でーー」

「私は改めて自分の心と向き合って気づいたことがあるの」

 揺の言葉を遮って、言葉を紡ぐ。

 夏樹が割り込むのは珍しい。揺はぱちくりと目を瞬かせた。

「気づいたこと?心の中の声に気づいたのか」

「うん。一つは、大好きな家族にありのままを受け入れて欲しい。これはもう叶ったよ。

あと二つ、私の願いに気づいたの」

「それは……?」

「長谷川夏樹という人生をなかったことにしたくない。

親しい人に私という思い出を抱いて、囚われずに先に進んで欲しい」

「そうだよな。周りの人は忘れないと思う。俺もそうだよ」

 こんな優しくて、影響の強い人を誰が忘れるものか。

 良い意味で思い出に残り、彼らは先に進むだろう。

「ありがとう。最後の一つはね、ゆらぐ君だよ。

やっぱり心配なの。ゆらぐ君のこれからを近くで見守っていたい。

私が長谷川夏樹であるうちに、そばに居たいの」

「夏樹先輩……。嬉しいけど……」

「分かってるよ。ゆらぐ君も一人の自立した人だし。あれこれお節介焼くべきじゃないよね。

でも、私にゆらぐ君を見守らせて欲しい。

大丈夫だよ。これからあの世のことも見てきて、選択肢を広く持つからね。

そしてこれから私自身のこともよく考えてくるからね」

「そうしてくれな。

夏樹先輩は人のことばかりだから。

向こうで広い世界を見て、そっちが良いって思ったら遠慮なくそうしてくれな」

「もう、最後まで甘えようとしないんだから」

「どれだけ懐が深いんだよ。もう充分、甘えさせてもらったよ」

 だから最後だけは甘やかしたいと、そっと夏樹の頭を撫でるように手を動かしてからそっと離れた。


「ありがとう。

じゃあお父さん、お母さん、真菜、ゆらぐ君。

行ってきます!いつまでも元気でね」


 花咲くような笑顔を浮かべ、ぶんぶんと腕を振る。


 やがてーー抱えられていたクッションは力を失い、床に落ちた。

 長谷川夏樹は、温かな光に包まれ、やがて姿を消した。


 ぎゅっと揺は拳を握った。

「夏樹………」

 寂しいと母は唇を噛んだ。

「……これで良かったんだよ恵美。

夏樹が前を向いて進んで、自分の意思で先に行くから」

「そうよね」

「揺君!」

 真菜が近寄ってきて、ぎゅっと揺の両手を握った。

「!?」

 驚いて目をぱちくりさせていると、真菜が顔を覗き込んでいる。

「ありがとう!揺君のお陰でまたお姉ちゃんに会えたよ!ちゃんと話せたから嬉しいよ」

「ううん。俺のこの力が役に立てて何よりだよ」

「揺君。私からもお礼を言うよ。本当にありがとう」

「ありがとう、揺君」

「そんな、お礼を言われることなんて……」

 兄が夏樹を殺したのに。

「夏樹は、揺君を責めないでって言い残して言ったからね。大丈夫だよ」

「ありがとうございます……」

 揺は深深と頭を下げた。

「で、揺君。お姉ちゃんが戻ってきたら宜しくね」

「……え」

 頭を下げた揺の頭上から降ってくる楽しそうな声。

「お姉ちゃんが気にしてたもん。恋の兆しかは分からないけど、放っておけないんでしょ!

幽霊ライフ続くなら揺君のとこ来ると思うんだよね!来たらよろしくね!」

「私からも宜しくね、揺君」

「真菜さん、長谷川さん……。勿論此方からもお願いしたいですけど、成仏したままの方がいいですって;」

「まあ決めるのは夏樹なので」

「お父さんまで……;」

「何にせよ、ありがとうね」


 長谷川家の者達は温かくお礼を言った。

ーー夏樹先輩。人って温かいんだな。

ーー夏樹先輩に出逢うまで分からなかったよ。


 揺は改めて礼を重ねて、長谷川家を後にする。

 やがて独りになった時に、少し泣いた。

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