第29話 涙

 最初は兄とふたりで話をしたい。

 揺の申し出に夏樹は快く頷いた。

 揺が心配になるけれど、彼にとって大切な兄だ。ちゃんと向き合わせてあげたい。

 けれど何かあったらいけないからと、屋上の外側の裏側に浮いて待機していた。つまり、隠れながらも話し声は全部しっかりと聞こえていた。

「夏樹先輩」

「ゆらぐ君……ゆらぐ君、手は大丈夫?」

 涙は止まらない。けれど後輩の大怪我を心配して声を掛けた。

「大丈夫……。でも痛いなこれ。早めに病院に行こうかなとは」

「そうしてね」

 でも先に兄を楽にしなければ。

 死後の世界に逃げ込むのではなく、ちゃんと向き合わせて楽にさせないと。

ーー出来るのか……?

 怪我のせいなのか、状況の悪さからか背筋に冷や汗が伝った。

 標の壊れぶりが想定以上だった。

 自殺はなんとか止めたが、なにか手を打たないとまた死にかねない。


「夏樹……」

 標は呆然として夏樹のいる方向を見ていた。

 黒くて長い髪、清楚な制服。真っ直ぐと見つめてくる瞳からは大粒の涙が溢れている。


「どうして……俺が夏樹の姿が見えるんだ?俺は霊感が全然ないのに。今までは夏樹の姿は全然見えなかった」

「標君、今は私が見えてるの…!?」

「なんでだろな。夏樹先輩の祈りが通じてとか、因縁の相手だからとか…?」

 理由はよく分からない。

 けれど、今は標も夏樹の姿が見えて話が出来る。

 揺が心強さを感じていると、標が口を開いた。


「夏樹……。本当にごめんな。謝って赦される事じゃないのは本当に分かってるよ。だけど……殺してごめんなさい」

「ほんとだよ。思い切りが良すぎるよね。

ちゃんと話し合ってほしかったし……信じてほしかったよ。

殺されて悲しかった……!!」

 ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。

 真っすぐと犯人を見据えて訴えた。

 そのひたむきな視線に、強さに、標は直視が出来ない。

「……そうだよな。ごめん……」

「……でも、私も爪が甘かったなって思う。標君の気持ちを見誤って……隙を見せちゃったから……。

もっと分かってあげられれば良かった。

分かってもっと寄り添えてあげられたら……今でも一緒に笑っていられたのかな」

「夏樹……」


 嗚呼、やはり残酷だ。

 なんて優しいんだろう。一度でも疑った自分が呪わしい。


「夏樹……。揺との会話は聞いてたか?」

「全部聞いていたよ」

「お願いだ……。このまま、死なせてくれ」

「! 兄貴!」

「……標君。理由を聞かせて?」

 勿論看過できない。論外だ。

 しかし今度はちゃんと対話をして理解して、寄り添いたい。

 一度は失敗したけど、今度は失敗したくない。

「……俺は、もうだめだから。自分が怖いんだ。

俺は自分で救いの手を跳ねのけた……。救われちゃいけないんだ。

何十年か後に幸せになるかもなんて、考えられない……!そんなこと許されない……!

それなのに、同じことを繰り返しかねないんだ。

俺は自分自身に逆らえない。盗みを繰り返して人を手に掛けて……。自分を護るためなら何でもできるクズだ。

揺の事だって、あれだけ守ろうって頑張ってたのに、殺気まで放って……。今だって怪我までさせて……。

もう何も考えたくないよ……。死なせて……」

「兄貴、こんなボロボロの状態なのに、人を救おうとするなよ……!俺の怪我なんていいから」

「……ゆらぐ君。標君にとって、弟を守って大事に出来ることが誇りなんだよ」

「夏樹先輩……」

 なんとなく解った。

 標にとって、揺は最後の砦なのだ。

 自分以外に唯一大切に出来るのが弟の揺なのだ。

 だからそれすらも失くしてしまえば、標は本当に何も分からなくなってしまう。

 そして、一瞬でも境遇を呪ってるから、標はそれを強く恐れて、だからこそもう終わらせたい。

「……ゆらぐ君が私と関わりがあることが分かって、目の前が真っ暗になったよね」

「ああ……あの朝の事は、あの衝撃は今でも強く覚えているよ」

「だけど、標君はゆらぐ君を殺さなかった。

標君は頭が切れるから、追い詰められる事は重々分かってたはずだよ。

大丈夫、最後の理性はちゃんと持ってるよ」

「その理性すら、なくなりそうなのに……?」

「大丈夫。だから標君は、これからは自分を大事にして、もっと見据えて……。

そして、自分の心と向き合って、弱い自分に打ち勝ってほしいよ」

「打ち勝つ……」

 これ以上先を望めと言うのか。

 敷かれたレールから降りて、新しい道を、これまで以上の苦難の道を歩けというのか。

 それはきっと、ここで死ぬことより辛い事だ。


「標君が死のうと思ってる事、予想出来てたよ」

「えっ……」

「殺意を持つ人に揺君がマークされてたのに襲撃すらされなかったのは、犯人が標君だったからなんてもう分かってるよ。

ちゃんと大事にしてたから殺せなかったんだよね。

そして破滅するのが分かってたから……。だから、思い出作りしてたんだよね?」

 最近帰りが遅かったのは、最後に楽しいことをして思い出を作っていたからだ。

 いつ終止符を打ってもいいように生きる事を諦めて未練をなくしていた。

「あと、俺ら昨日の夕方に兄貴の部屋入らせてもらったんだよな……。

生活感がなくなるくらいまで片付けられて、正直ぞっとしたよ。

ああ、これは自殺考えてるなーって思ってたよ」

 その時に標の罪を確信した。

 兄が夏樹に何をしてしまったのか理解してしまった。

 だからこそ何としてでも止めると決めていた。

「……参ったな。二人はそこまでお見通しか……」

「流石にナイフを持ち込んでくるって思ってなかったから、すげえ痛えことになってるけどな。

兄貴、下見てみ」

「下……?」

 がしっと揺に手首を掴まれながら、下を覗き込む。

 丁度夏樹を突き落として見下ろしたのと同じ景色だ。

 けれど、下には何人か人がいた。

 そして視界の中の大部分を占めるのは、濁った白、白、白。


「え、先生と、なにあれマット?」

「担任にお願いして、先生達に体育館倉庫のマット持って待機して貰ってる。

飛び降りて死にそうだなーって思ってたもんで」

「昨日から思ってたけど、ゆらぐ君は担任の先生を都合良く使い過ぎだよね」

「そろそろ怒られそうだけどな。人命優先だからきっと分かってくれるだろ」

「……そっか……」

 すとんと腑に落ちた。きっと自分が何をやっても阻止されるだろう。

 最後の逃げ道は塞がれ、潰されたのだ。

 あれ、顔が湿っている。

 嗚呼、泣いているのか俺は。


 これは死ねないのが悲しいから?これから苦難の道を歩むのが確定しているから?

 それとも……二人が俺の命を救おうとしてくれているから?


 分からない。俺には自分の心がもう分からない。


 けれど一つだけ分かる。

――ああ、泣くの久しぶりだな……。

 夏樹を殺した時も、罪を自覚した時も泣かなかった。

 両親の重荷が辛かった時も、いつの間にか泣くことを忘れていた。


 やっと素直な感情を出せた気がする……。

「う、うう……」

 目をこすって涙を耐えようとしてしまうけど耐えられない。

 いや、もう抑えなくていいんだ。

「う……」

 声も溢れて止まらない。

「うわああああん……!!」

 低い声なのに、大人の体格と声なのに。

 標は声を上げて子供のように泣きじゃくった。

 大人に頼る事を知らない少年が起こした悲劇だった。

 心の内も何も分からないのに、感情が爆発して、ただただ、泣いた。


 揺も夏樹も、ただただそれを見守っていた。

 良かった……。

 ひとつ安堵する。最悪の事態は免れたのだ。


「つ……っ」

 揺が顔をしかめ、どっとその場に座り込んだ。

 脂汗が落ちて仕方ない。

「ゆらぐ君、顔真っ青だよ……!」

 つられて夏樹の顔色まで真っ青になる。

 手の大怪我を放置していたから、限界に近付いているのだろう。

 

 一通り泣いて落ち着いた標は、自分の下着のシャツを裂いた。

 そのまま揺の手に巻き付けて結び付けた。

「兄貴……」

「ほんと、無理やりすぎるんだよ……。物理かよ」

「兄貴に似たんだろ。幽霊からこうして守ってくれてただろ」

「ごめんな。病院行こうな」

「ああ」


「標君。……これから苦難の道だと思うんだけど。

……私は、自首してほしい」

「ああ、そう言われるだろうなって思ってたよ。

死ぬのも阻止されて……俺に赦されるのはそれくらいだろうし。

これ以上罪を重ねるのも止めたいから……」


 正直言ってとても怖い。

 これから待ち受けている運命が恐ろしくて仕方がない。


 でも、全て身から出た錆だ。

 放置していたからこそ錆び切ってしまった。

 その錆は大きく広がって無関係の者まで手に掛けてしまった。


 そして原因は家庭環境であり、自分にも大きく責任があると揺は心に刻んだ。

「俺がいるよ、兄貴……。最後まで付き合うから」

「……ああ、ありがとな…。揺……」


 夏樹の申し出に、今度は標は頷いた。

 秋の救いの手とは比べ物にならないくらいの茨の道だ。

 けれど、そうする以外に標の心を救う算段はもうない。


 もう止めて、救ってあげないといけない。


「……ありがとう、標君。聞き届けてくれて。」

「夏樹。……化けて出てくれてありがとうな」

 ああ、こんな風に思えるようになるなんてな。

「どういたしまして。

多分私を殺したことはずっと心に圧し掛かるとは思うんだよ。

だったら罪は償っておいた方がこの先前を向いていけるかなとは」

 逆に償わない方が心から幸せになれるなら、誰も毒牙にかからないなら別の道も視野にあったかもしれない。

「本当に夏樹は人の事ばかりだよな……」

「本当に。人の良い先輩だよな」

「もう二人とも」


 兄弟そっくりだ。

 そろそろタイムリミットだろう。

 屋上で何が起こっているか気になった教師の一人が駆け上がってくる足音が聞こえてくる。


 その後、土居揺は救急車で病院に運ばれた。

 同日に土居標は弟と学校の教諭に付き添われ、警察に自首をした。

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