第28話 手に掛けられない存在

 そして現在に戻る。

 語られた過去を耳にして、揺はあまりの状況の酷さに震えた。

 嗚呼、嗚呼。

 盗癖の事も、両親との間にあったことも何一つ知らなかった。

 俺がゆったりと休んでいる間に、守られている間に、兄貴はこんなに苦しんでいたのか。

 もう最後の方には分別すらつかなくなってしまったのか。

 悔しさに唇を噛み締めた。少しだけ鉄の味がした。


「………、これが真実だよ。

悪いな、揺。信じてもらってたのに……俺はとても醜いんだ。

夏樹を、……救ってくれようとした人を手に掛けて、何食わぬ顔をして過ごしてきたんだ」

「ああ……。本当に莫迦だよ、兄貴。

なんで夏樹先輩を殺したんだよ。脅したいとかそんなんじゃないこと分かってたはずだろ!?呼び出したのも通院を勧めたのも、兄貴を救いたいからだろ!?なんで殺しちゃうんだよ!!」

「……ああ、分かってた。……と、思うんだけど。夏樹を心から信じ切れてなかったかもしれないな。

夏樹に任せて俺が全部解決出来るたかっていうと怪しかったから……。全部背負う覚悟はなさそうだったし。

だからって話を聞いてくれたのに殺すのは最低だって話だよな。解ってるよ。……解ってるんだよ……」

 頭を掻きむしる。分かっていたんだ。自ら救いの手を壊した事くらいは。

「でも、盗みを働いたときの意識がなくなるような感覚を、……こみ上げてくる破壊衝動を、俺は抑えきれなかった。

心の底ではそれを望んでたのかもと思うくらいは。それくらいには俺はもう自分が分からないよ。

少なくとも、殺意はあったと思ってる」

 夢心地で薄れゆく意識の中でも、皮手袋を嵌めて指紋が付かないようにして犯行を行うくらいの知性はあったのだ。

「俺は人でなしだよ。少なくとも揺に尊敬して貰えるような人間じゃない」

「………それでも、兄貴は俺の兄貴で、憧れだ」

 だから、全部知っていたい。兄の苦しみを、葛藤を教えてくれ。

 未だ憧れだと、苦しみを知りたいと口に出せば、標は嬉しそうに微笑んだ。

 やがて標は語り始める。


「……ただただ俺は、怖かったんだ」

「何がだ?周りに発覚することが?盗みが明らかになることが?」

 やはり声は荒くなってしまうが、深呼吸を交えながらなんとか話を続けようと自分を律する。

 夏樹は信じ切って貰えずに殺された。穏やかに話したはずなのに。

 俺はちゃんと説得が出来るだろうか。

「その二つもとても怖かったよ。確実に大学に行けなくなるし。それよりも……。

……俺は優等生を演じるうちに、あいつらが敷いたレールから逃れなくなってた。

母さんに、父さんに……逆らうのが、怖かった」

「兄貴………」

 それほどまでに両親の圧は標を縛り付けていたのだ。

 善悪の区別すらつかなくなるほどに。分別すらつかなくなるほどに。

 思わず揺は兄に掴みかかった。

 ぐいっと襟を掴み上げて、真正面から兄の瞳を見据える。

「莫迦、大莫迦……っ!!

盗みだって人殺しだって、消えないのに。そのうち発覚するだろ。

知った人がいたら全部殺してたのかよ……!?」

「……そうかも」

「っ!?」

 真っすぐと向き合った標の顔は、今にも泣きそうで崩れ落ちそうで、けれど壊れた部分を無理やり継ぎ合わせているようなちぐはぐさがあった。

「もう、何もかもが分からないんだ。

ああ、でも……。一つだけ強く思ってることがあるんだ」

「それは……?」

「……俺は、決して救われてはいけないってこと、だよ。

だってそうだろ?救おうとした手を跳ねのけて、最悪の裏切り方をした。

こんな俺は救われちゃだめなんだよ。

治療なんてしてマトモになったら普通の家庭を築けてしまうし。

だから、決めたんだよ」

 標は無理やりに口角を上げて。


「この罪を隠し通して隠し通して……毒親に縛られながら苦しみながら地面を這いずり回ってやろうって」

「は……?」

「俺がそうやって立ち回り続ければ、揺一人くらいは家から出せるだろうしな。

それはそれで微かな救いだな」


 思わずぱっと手を離した。

 標は僅かに態勢を崩したが、まだ立ち続けている。

 訳が分からない。

 その場に倒れ込みそうになるのをなんとか足を踏ん張って耐える。


「兄貴、言ってる事分かってるか……?

整合性も理屈も何もなくなってるぞ……?」

 言ってることの辻褄が合わない。

 救われたくないと言いつつ、隠し通せばとりあえず今の儘の道は維持できるし……。

 今の生活が地獄だと思っているならどうして抜け出そうとしなかった。

 どうしてこんな風に追い詰められてなお、俺を救おうとする。

 どうしてこんな状態で笑えるんだ。

 何より――こんなに心が壊れていて、どうして今まで平静を装ってこれたんだよ。


「……整合性はないかもしれないな。

だけど、俺にとっては大事な事だったから」

 ぽたり、熱いものが揺の瞳の中から零れ落ちた。

 自分の愚かさを思い知って、頭を思いっきり殴りたくなった。


「俺も莫迦だよ……。なんで、兄貴がこんなに苦しんでるのに気づけなかった……っ!!

今の立場に胡坐かいて、俺だけしんどいしんどいって周りを見ようともせずに!ただ兄貴に護られて!」

 俺だってあいつらと同罪だ。

 俺の弱さが、甘さが、見通しの甘さが大事な家族兄貴を追い込んだ。

 何よりも直接追い詰めた家族毒親を決して許さない。赦してたまるものか。


「……だから、夏樹が揺の傍にいるって聞いたとき、俺は絶望したよ」

「…………」

「なあ、俺は普段通りだったか?……多分そうだよな。俺に辿り着くまでに日にちあったもんな」

「……ああ、普段通りだったよ」

 普通に夏樹に挨拶して、あまつさえ協力も申し出て応援していたくらいだ。

 夏樹に思い出した記憶を打ち明けられるまで、兄が犯人だなんて思いもしなかった。

「……良かったのか悪かったのか、もう分かんないな」

 夏樹を殺してから今日まで、普段通りに過ごせてきた。

 捜査に来た警察を見ても顔色を変えない。

 報道を見ても心は乾いたまま。

 同級生との話題に出てきても、周りと同じように返すだけ。

 ほぼ学校を欠席することなく日常を過ごせてきた。


 そんな俺自身が、俺は怖かったんだ。

 善悪の区別もつかない人間になり果ててしまったから。

 そんな自分自身に失望しながらも、救われてはならないから維持し続けた。のに。


「夏樹が傍にいるなら、俺が犯人だってもう告発されているはずだ。

それなのに揺はいつも通りだったから、夏樹には死んだときの記憶がないんだなって思ったよ」

「あの一瞬でそこまで読んでたんだな」

 流石、頭が切れる。

「だけど、時間の問題だったのは分かってたよ。

未練が何かは分からなかったけど、解消しているうちに記憶だって戻るだろうし。

殺された事に対する未練なら、俺が報復に遭うかもくらいは思った」

 寧ろそれを望んでいるように安らかな表情で微笑んだ。

「夏樹先輩はそんなこと望んでねえよ。そりゃ自分がなんで死んだか、誰が殺したかは強く知りたがっているけど。

呪い殺したいとかは思ってないってはっきり言ってたし、俺はそれを信じてる」

「……本当に、夏樹は残酷だな」

 普通に笑って手を差し伸べてきただけでも、自分の醜さが光に照らされてまざまざと見せつけられるのに。

 死んでなお、幽霊になってもなお、俺を恨んでくれないのか。

 トドメを刺してくれないのか。


「気づいていたかもしれないけど。前の休日に揺と、一緒にいるであろう夏樹を街で見かけたよ。

一瞬だけ……二人がいなければって、願ってしまったよ」

「………」

「自分自身に絶望したよ。俺はもうここまで来ちゃったんだって。

誰よりも守りたかった揺にまでそんな事を思うなんてな」

 あの日、感じた鋭い殺気は標だったのか。

 全てに合点が行き、揺は息を吐いた。

「……でも、もう揺も高校生だし。

夏樹が一緒だったとはいえ、ここまでたどり着けるんだから。俺の保護なんていらねえよな」

「そうだな、俺はもう庇護されなくても大丈夫だ。大丈夫だから」

 だから、もう楽になってくれ。

 警察に自首して、罪を償いながらカウンセリングして、まともに物を考えられるようになってくれ。

 家にいる日々地獄から解放されてくれ。


「もう、いいよな」

「ああ……」

 標が取り出したのは銀色に光り輝く美しいナイフ凶器で。

「……!?」

「もう、いいんだ」


 俺は解放されていいんだ。

 さよなら、揺。

 唇だけ動かして別れの挨拶をすると、そのまま標は、自らの喉元目掛けて一気に振り下ろした。


「っ、がぁっ……!!」

 悲鳴を上げたのは揺だ。

 両手でナイフを包み込み、右手でナイフを掴み、左手で切っ先を押さえた。

 ぼたぼたぼたと巨大な赤が滴り落ちた。


「揺……、なんで」

「なんでだと?決まってるだろうが。兄貴を死なせたくないからだよ!!

自殺なんて、すんなよ!!いなくなったら悲しいだろうが!!

逃げんなよ!!」


 熱い赤は、標の顔にも飛び散った。

 嗚呼、揺。俺なんかのために怪我なんてしなくてもいいのにな。

 力を入れてナイフを取り返そうとするが、揺の力は強い。

 じたじたともみ合いになる。


 それでも標は、揺を傷つけようとしなかった。

 他の誰を傷つけても殺しても、弟は。揺だけは――。

 それだけは貫いたからこそ揺は無事だったし、標は最後の矜持を貫けた。


 揺は力強く蹴りを叩き込んだ。

 標は地面に叩きつけられた。

 大怪我をした揺は痛みに顔をしかめながら、ナイフをしっかりと握りこんでいた。


 ふわりと風が吹いた。

 茶色の瞳に大粒の涙を沢山携えて、殺された張本人が屋上に降り立った。


「……夏樹……」


 尻もちをついて、逃げ道すら奪われた標は、現れた人物に対して、ただ名前を呼んだ。

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