第7話 漫画家、アシスタントを採用する
** naoyuki side **
隣で小西が「ご、ご主人さまと専属メイド……」などとつぶやいているが、尚之は無視する。
先程、尚之は人形のように美しい少女の鼻から鼻水が垂れるのを見た。
そしてそのギャップがおかしくてつい笑ってしまった。
すぐに取り繕ったが年頃の少女に対し失礼なことをしてしまったと反省した。
尚之の瑠々に対する印象としては、とにかく忙しく表情が変わる娘である。
緊張し、青ざめ、泣いて、笑って、鼻水を垂らす。
今日だけでもずいぶんとたくさんの種類の表情を見た気がする。
そしてその表情全てが絵になる。
母親のように女優でもやればさぞや人気が出るだろうに、と尚之は考える。
では異性として魅力を感じるか、と問われればそれは別の話だ。
尚之は思考の理解できない女性には心が動かないという性質がある。
そして朱鷺川瑠々の性格は、尚之には全く理解ができないの一言であった。
面接にメイド服を来てくる時点で、尚之にとっては宇宙人だ。
あのメイド服に対する思いの重さには、畏れすら感じると言って良い。
突然メイドになりたいと言い出したときにはしばらく思考を放棄してしまった。
しかし理解できないからと言って嫌いというわけではない。
彼女の礼儀正しく、素直で、献身的な一面は人間として好ましく感じた。
仕事場に通いたいと言われたときは困惑したが、彼女なら家族ともトラブルにならないだろうと判断し許可した。
ともあれ、アシスタントの採用は無事にまとまった。
最後に契約書を交わすだけだが、その前にやっておかねばならないことがある。
通いになるなら、尚之の母親である秋穂にも許可を取っておかなければならない。
尚之は一行を一階の秋穂の部屋まで案内する。
階段を降り薄暗い廊下を進み一階の最奥まで進むと秋穂の部屋がある。
ノックするとドアからのそっと目付きの悪い中年女性が顔を出した。
「何?今忙しいんだけど」
「ちょっと連絡事項」
「何よって、ん?麻里江ちゃん?」
「あらっ?
「え、なんで麻里江ちゃんがここにいんの?」
「古彫先生こそなぜここに?」
「そりゃここあたしん家だもの」
「まあ!すごい偶然だわ。私の方はかくかくしかじかで」
「なるほどね。このメイドちゃんが麻里江ちゃんの娘さんなのね。それでその娘さんが尚之のアシスタントになると」
そういって秋穂は瑠々の全身を頭から爪先までじっくり眺める。
「あの、はじめまして!朱鷺川瑠々です」
「はい、初めまして。娘さん、母親に似てエッジの利いたキャラしてそうね」
「ふふ、どうかしらねえ」
どうやら秋穂と瑠々の母は知り合いだったようだ。
ちなみに古彫誉というのは秋穂のペンネームである。
そして皆が気になっていた問いを尚之が二人に投げかける
「母さんたちどういう関係?」
「ああ、私が麻里江ちゃんの初主演ドラマの脚本を担当したのよ」
「演者もスタッフも全員無名のB級深夜ドラマだったわね。脚本は良いのに企画と演出が最悪で」
「麻里江ちゃんが私に無茶苦茶にしてやりませんかって交渉してきたのよね」
「ふふ、私がアイデア出して古彫先生が即興で脚本書き直して、やる気なかったスタッフの尻叩いて、あれは楽しかったわね」
「麻里江ちゃんはすっかり有名人になっちゃって」
「古彫先生だってドラマやってればもっと有名になってたわよ」
「私は元々サブカルのほうが好きだったし。ていうか、尚之が生まれて双子も生まれてドラマの方はやってらんなかったのよね」
その後母同士でしばらく話し込んでいたが、尚之が強制的に話を終わらせた。
その後、朱鷺川瑠々と交わした契約は以下の通り。
勤務時間は平日は午後5時から午後9時まで、休日は午前9時から午後4時まで。
作画があるときは基本入ってもらい、片付けは作画のない日で瑠々の都合のいいときに入る。
時給は1500円からで、成果次第で昇給・ボーナスもあり。
以上。
仕事には翌日の土曜日から入れると言われたのでそうしてもらう。
瑠々とその母を玄関で見送った後、小西が興奮した様子で尚之に語りかけてきた。
「いやあ、驚いたね。まさか朱鷺川瑠々が朱鷺川麻里江の娘だったなんて」
「美人でお嬢様で姓が朱鷺川なら考えれば気付く話でしたね」
「うん。しかしとんでもない美少女だったね。メイド服姿、色んな意味でヤバかったなぁ。ドジっ子感も演出してたし。僕面接部屋出るとき、ついお金払いそうになっちゃったよ」
「小西さん、彼女未成年ですからね。手は出さないで下さいよ」
「千本柿先生、メイドっていうのはね、触れると溶けちゃう生き物なの!手を出すなんて論外だよ!」
「そすか」
「それに手を出すなはこっちのセリフ!千本柿先生、朱鷺川さんのこと専属メイドにしちゃうなんてさ!僕羨ましくて憤死寸前だよ」
「そんなモノ雇った覚えはありません。というか小西さん、俺がリモートでって言ったのに彼女が通いになるよう誘導してましたよね」
「ん?何のこと?」
「編集部でキープしておきたい感じですか」
「まあねえ。先生も見たでしょ、サンプル」
「どちらかといえば、イラストレーターかアニメーター向きな気がしますが」
「僕、漫画編集者だし」
「俺は変な誘導はしませんよ」
「千本柿先生はあの娘に漫画の描き方だけ教えてくれればいいよ」
「教えられることは教えるつもりですが」
「今度から打ち合わせは千本柿先生の家でやろうね」
「デビューさせるなら別のアシ見つけてからにしてくださいよ」
「わかってるって」
どうやら小西は彼女を漫画家にさせたいようだ。
尚之のアシとして通わせておけば、コンタクトが取りやすいと考えたのだろう。
尚之としては当面のアシさえこなしてもらえれば、彼女の将来について関知するところではない。
そんなことより今は机の上の原稿を仕上げなければならない。
小西と別れた尚之は自室に戻り、静かに作業に戻るのだった。
** ageha side **
午前1時。
漫画家である姫小路揚羽は自宅であるマンションの仕事場で作画作業をしていた。
作業中の原稿は自分のものではなく、同期作家の千本柿笑午のものだ。
先日揚羽は笑午からアシスタントの依頼をされ、揚羽はそれを引き受けたのだ。
笑午の作品は美しく、正直作画をしていて楽しいと揚羽は感じる。
最近心が不安定だった揚羽にとっては、確かに良い気分転換になる作業だった。
作業が一段落し、仕上げたページをクラウドにアップロードする。
作業部屋を出て寝室に入るとベッドには夫が寝ていた。
夫は今年で36歳になる金髪碧眼の端正な顔立ちをした外国人で、元はIT企業のCEOであった。
彼は仕事で日本に来ていたときに街を歩いていた揚羽に一目惚れし、プロポーズした。
揚羽は「全財産捨ててパンツ一丁で同じことをしてくれたら考えるわ」といって彼を一蹴した。
つもりだった。
しばらくして、彼が再び揚羽の前に現れた。
聞けば彼はパンツと靴とコート、そして日本行きのチケット以外を親族に譲渡し、ここに来たのだと言った。
そして彼はコートと靴を脱ぎ捨てパンツ一丁になり、再び揚羽にプロポーズした。
揚羽は自身の言ったことを撤回するのは大嫌いだ。
そして初志貫徹する男は嫌いではない。
その日から揚羽は彼と同棲を初め、その後手続きを済ませて正式に結婚した。
彼は今、日本の企業に再就職して働いている。
夫は揚羽を溺愛しているが、揚羽が夫を好きかと言われれば恋愛感情は抱いていない。
夫は優しくて顔もよく甲斐性もあり色々と相性も悪くないが、ときめきは感じたことがない。
揚羽が今までで男に対し心を揺らしたのは一度きりだ。
それは、新人賞の授賞式で千本柿笑午に誘われた夜のこと。
もしもあのとき結婚していなかったら、揚羽はきっと笑午と関係を持っていた。
でもそうならなくてよかったと揚羽は思っている。
笑午と付き合っていたら、彼と自分の才能を比較し勝手に自滅していた気がするからだ。
プライベートのパートナーは仕事と無関係な方が自分の性に合っていると揚羽は思う。
とはいえ、打ち切りのときは話の分かる人間に愚痴りたかったので笑午に甘えてしまった。
夫も笑午と飲みに行くと言ったらいいよと言ってくれた。
あのとき負の感情を吐き出したおかげで、ずいぶんと気持ちの整理ができた。
なので、揚羽は笑午に感謝しているし、できるだけ力になりたいと考えている。
後日、そんな笑午から新しく追加のアシスタントが決まったと連絡があった。
その人物は女子高生で、本人の希望で笑午の仕事場に通いになるという。
誠に勝手な話だが、どこかモヤモヤとしたものを感じてしまう揚羽なのだった。
** naoyuki side **
尚之が朝起きてクラウドを確認すると、人物のみペンを入れて上げておいた原稿がいくつか綺麗に完成していた。
詠海と揚羽がずいぶんと頑張ってくれたようだ。
スケジュール的にはまだ厳しいが、少しずつでも完成に近づくと気持ちが楽になる。
今日から新人のアシスタントが入ることになっている。
高い画力があり、部屋の片付けもしてくれるという好人材だ。
突拍子のない性格をしているところが少々不安ではあるが、人手が増えるのは素直にありがたい。
本日は土曜日なので新人アシスタントは午前9時から仕事開始の予定になっていた。
現在は午前8時。尚之は彼女を迎える前に朝食を取ってしまおうとリビングに降りた。
リビングにはほぼ家族全員が集まっていて、件(くだん)の新人アシスタントもいた。
なぜいる、と尚之は思ったが早く来すぎたところを家族に捕まったのだろうと認識する。
リビングに入ると幾人かの家族が気づいておはようと挨拶してくる。
母の秋穂と上の妹の詠海はまだ寝ているのかリビングにはいないようだ。いつものことではあるが。
新人アシである朱鷺川瑠々も尚之に気がつき、座っていたソファから慌てて立ち上がり、彼に挨拶をする。
「千本柿先生、おはようございます!」
瑠々が大きな声でそう言い、深々と頭を下げる。
家族の前で先生はやめて欲しいと本気で思ったが、名前呼びや名字呼びと比べたら自然な気もするので訂正はしないでおく。
今日の瑠々の格好はお嬢様らしい襟付きのワンピースだ。
メイド服では無かったので尚之は少し安心した。
「おはようございます。朱鷺川さん、早いですね」
「あの、何時に来てよいか迷いまして……」
尚之が瑠々と言葉を交わすと義姉の文香が参加してきた。
「瑠々ちゃん、なんと朝7時に駐車場に来とっとうよ」
「はい?」
尚之は予想外の情報を聞いて、つい文香に強めの聞き返しをしてしまった。
しかし約束の二時間前に来るのはいくら何でも早すぎる。
そこに尚之の父の尚久も参加する。
「私が新聞を取りに行ったら見知らぬお嬢さんが立っていてね。事情を聞いたら尚之のアシスタントというので屋敷に上がってもらったんだ。家から一人で歩いて来たと言うので驚いたよ」
「は?一人で歩いて?」
また強く聞き返してしまった。
履歴書にあった住所ならおそらく歩いて一時間以上はかかるはずだ。
とびぬけた美貌のお嬢様が一人で歩いて良い時間と距離ではない。
「朱鷺川さん、あなたの通勤についてですが、時間と手段に問題があります。その認識はありますか?」
「はいあの……私……なるべく早く行こうと思って……」
「ここには始業時間の15分前に来てもらえれば大丈夫です。それと移動には送迎車かバス等を使ってください。始発の時刻に不都合があれば始業時間を遅らせてかまいませんので」
「はいあの……申し訳ありません……」
瑠々が顔を青ざめさせ今にも泣きそうな顔で謝罪する。
尚之はため息をつきたくなった。
改善はして欲しいがそこまで落ち込んで欲しい訳では無い。
どうやってフォローを入れたものか考えていると、祖母の滝乃が口を挟んできた。
「待ちな。話を聞けばこの子は尚之に弟子入りしたって言うじゃないか。だったらこの娘がなるたけ早く来ようするのも当然だよ。弟子ってのは師匠が起きる前に稽古場に来て掃除なりしておくのが仕事だからね」
「いや弟子っていうかアシだし……」
確かに指導は行うつもりであるが、師匠と弟子などという大げさなものにするつもりはない。
というか、今は掃除をさせるぐらいなら原稿をやってもらいたい。
ガチガチの上下関係の中で生きてきた滝乃には現代のライトな師弟関係を説明するのは難しそうだ。
掃除という単語を聞いて尚之の兄の尚哉も話に入る。
「尚之、彼女が掃除などの家事をやってくれるというのは本当か?」
「まあ、そういう話にはなってる」
尚之の答えを聞いた尚哉が「そうか」と言って瑠々の前に立つ。
「朱鷺川さん、私は来月から単身赴任でここを出ることになります。不器用な尚之の下で働くのは大変でしょが、この家のことどうかよろしくお願いします」
兄がそう言って彼女に頭を下げる。
尚之は自分が不器用なつもりは無かったが、兄と比べれば確かに不器用なので反論はしない。
「あの、不束者ですがあの、私……先生とお屋敷のために精一杯、頑張ります!」
兄に挨拶されると瑠々が頭を下げ妙な返事をする。
ともあれ、先程まで暗く沈んでいた瑠々が祖母と兄の言葉で気を持ち直したようだ。
尚之が安堵していると、そこ妹の光理も入ってくる。
「ユキ君、御飯食べるでしょ?瑠々ちゃんと話してていいよね」
「いや飯はいい。今日は少し早く仕事始める」
せっかくアシスタントが早く来たのだからなるべく早く作業を初めたい。
飯は腹が減ったらカップ麺でも食べれば良いだろう。
「なんでよーー!私瑠々ちゃんとまだ全然話してないのに!!」
光理は夜遊びと食事を作る文香への無礼を父親に叱られ1ヶ月の謹慎を命じられている。
娯楽に飢えている彼女にとって、女優の娘という存在は格好のエンタメコンテンツのようである。
「瑠々ちゃんもユキ君がごはん食べないつったら心配するよね?ね?ね?」
「あの先生、私早く来すぎて……あの、ご迷惑をおかけしました。私の事は気になさらず先生はお食事をお召し上がりになって下さい」
瑠々が今にも泣きそうな表情で食事を勧めてくる。
こちらは早く仕事がしたいのになぜそんな顔をするのか意味がわからない。
というか、光理の好奇心いっぱいの猫目がイラッとくる。
そして最後に姪の鈴々が瑠々の足にしがみついた。
「りりもるるちゃんとおはなしする!」
「わっ」
瑠々がどうしましょうという目で尚之を見てきた。
尚之は軽くため息を付いた。
「では私は朝食を取りますので、朱鷺川さんはもう少し待っていて下さい」
「は、はいっ、かしこまりましたっ!」
応答の文言がおかしい気がするが尚之はスルーする。
尚之がダイニングテーブルで朝食を取っている間、ソファ側では光理が瑠々を質問攻めにしていた。
尚之は気になったが、こっちに座れというのもおかしいので黙って朝食を食べた。
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