エンジョイメント

小狸

短編

「駄目人間は駄目人間らしく平身低頭へいしんていとうして堅実に努力し、万里一空ばんりいっくうの精神を持って、点滴穿石てんてきせんせきの機をつかめ。」


一念発起いちねんほっきで何かを成し得ようとするなど傲慢である。」


「現実を見ろ。」



 と。


 そんな発言が、炎上していた。


 週末のエックス、旧ツイッターの話である。


 Xなどそもそも言葉のめのような場所なのだから、いちいち真に受けることの意味もないのだけれど、世の中には多様な人間がいる。そしてその多様な在り方は今現在、文字通り「多様性」という言葉によって認められている傾向にある。だとしたら人の言葉をいちいち真に受けてしまう人間がいても、不思議ではない。


 これでも柔軟に言い換えた方で、本文はもっと苛烈な表現であった。


 それこそ、特に「駄目人間」という表現についてはより過激で、テレビでは絶対報道できないような放送禁止用語も当然のように、ツリー状にして熟々つらつらと述べられていた。


 さる資産家の公式アカウントである。


 名前は、流石に伏せさせてもらおう。


 個人情報の取り扱い云々うんぬんでとばっちりを受けても堪らない。


 その文章は、普通、普遍より若干下、所謂いわゆる「弱者」と呼ばれる人間を、言葉という名のやいばの下に唾棄し、蹂躙じゅうりんし、蹴りつけるような内容であった。


 小莫迦ばかにするとか、あざけるだとか、最早もはやそういう次元ではない――完全に下に見て、表現していた。


 賛否両論であった。


 賛否よりも、賛の方が多かったのは、なかなかどうして今の世の闇だと言える。


 誰しも、自分は普通だと思いたいものである――とは、しばし集合論的に分析されるが、それは少し違うと、私は思う。


 これは持論だけれど――誰しも、自分は普通よりだと思いたいものである――の方が、より現状に近いのではないか、と思う。


 普通より少し上。


 この少し上、というところが味噌である。


 上ということは、必然的にその下に積み上がる「下」という対照的概念が誕生する。


 誰かより上である、というよりも、誰かが下にいてくれる――というその安心感は、普通や平均から突出できない、我々のような人間にとっては、至宝だろう。


 無意識に、人は人と比べているのである。


 なんて、そんな風に言えれば格好がつくのだろうが――残念ながら私は、心理学や社会学を専攻していた訳ではない。そういう風に人間を見る術を、習ってはいないのである。


 門外漢は黙って、傍観している他ない。


 成程、その資産家のポストの返信欄は阿鼻叫喚――地獄の様相を呈していた。


 言いたいことを、言いたい人が、言いたいように言っていた。


 まあ、言いたいことは分からないでもない。


 ただ、皆、眼前に人がいるということを――画面の前に人がいるということを忘れているのではないか――と、一観測者としての私は思う。


 目の前に人がいないから増長し、冗長するのである。


 まあ今回の場合は、文言が文言であった。


 資産家という立場は――本人の言い方を借りれば、現時点では確実な人生の「成功者」である。


 少なくとも彼は、自分のことをそう思っているようだ。


 本文には「私は自分のことを成功者だと思っているが」などという言葉があり、思わず目をつむりたくなった。


 勿論もちろん、悪い意味で、である。


 地道な努力を続けること――そして、芽吹き、花が咲き、奏功そうこうすることを「待つ」こと。


 まあ、「言うはやすく行うはかたし」という言葉が示す通りである。


 その「待ち」が出来る者というのは、かなり限られる。 


 何故なぜならば、人生というものは、常に動き続けているものだからである。


 個体ではない、流体なのだ。


 だからこそ――「待ち」をしている余裕など、大概の人間にはないのだ。


 選挙の投票用紙を読まずに捨てる有権者が、そうであるように。


 現在の総理大臣を知らない大人が、そうであるように。


 日々の生活に余裕などなく、未来より現在、明日よりも今日、今日よりも今、どうやって生きるかを模索している人間が大多数というのが、今の日本の現状である。


 


 それこそが、キーワードであるように、私は思う。


 何事にも余裕は必要である。


 期限ぎりぎりで提出する時の焦燥感を、別に味わう必要はないのだ。


 まあそれこそ「言うは易し」の典型であろう。


 そんな余裕を作れるのであれば、日本人はもっと豊かになっているというものだ。大抵の人間は、日常に余裕などない。学校に行き、勉強をし、進学をし、就活をし、就労をし、通勤をし、育児をし、家事をし――やることなすこと盛りだくさんである。しかもそれらが必ずしも上手くこなすことができるとは限らないのが、世の厳しいところである。


 やはりその資産家は、「余裕のある」人間ではあるのだろう。


 「成功者」とは、敢えて言うまい。


 成功とは何か――という定義の話にもつれ込むことになってしまう。端的に言うのなら、成功する秘訣ひけつは、幸せになることを諦めること、だという持論があるが、またその話は今度しよう。


 余裕が無ければ享受できないもの、というのは、いくつかある。


 そんな中には、多分、小説――私の執筆するような通俗娯楽小説も、含まれているように思う。


 極論言えば、小説が無くとも世は回る。


 しかし小説を読む余裕が無ければ、世は空回りすると、私は思うのだ。


 だから――ああ、結局、自著の宣伝のようになってしまうが――ぜひ、本を読んで欲しい。


 最悪読まなくとも良い、買って欲しい。


 いつかそれが、貴方あなたの余裕になる。


 それが、いち小説家としての、私の願いである。




《Flaming Enjoyment》 is the End.

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