2日目

同じ病室。同じベッドの上で、依子は一冊のノートを開いている。そこに白衣を着た貴久が入室してくる。



貴久:こんにちは。今日は、体調はどうでしょうか?


依子:(少し間を置いて)貴久先生、で、合っているかしら?


貴久:は、はい! ええ、そうです! 貴久です! (ノートを見て)もしかして、日記を……?


依子:ええ。言われた通り書いてみることに……したのでしょうね。昨日の私はそう書いたみたい。なんだか……不思議な感覚だわ。日記を読んでいると、もう一人の自分と対話しているような、不思議な気持ち。


貴久:不思議な気持ち、ですか。


依子:はい。でも嫌じゃない。昨日の私が残してくれたから、今日あなたの顔を見たとき、あなたの名前を呼ぶことができたのだから。日記って、凄いわね。今日も、明日の私のために、必ず書くわ。先生、ありがとう。


貴久:そんな、お礼を言われるほどのことはしていません……。でも、僕の名前を呼んでくれたことは、とても嬉しかった。僕の方こそお礼を伝えないと。ありがとう、依子さん。



貴久は依子のいるベッドの横に、昨日と同じように椅子に座る。



貴久:それで、今日はお互いのことをもっと知ることが出来たらと思っているのですが、どうですか? 何か話したいこととか、他にありますか……?


依子:ええ、ええ、そう日記に書いてあったから、色々と考えてみたんです。考えたのだけれど……ごめんなさい。やっぱり、思い出せることは何もなくて。


貴久:そうですか……いえ、いいんです。過去のことは。思い出せないならそれで。それなら今のあなたを教えてください。何がしたいとか、何が食べたいとか。可能な限り僕もお手伝いしますから。


依子:それじゃあ、絵を描きたいです。日記を読んでいて思ったのだけれど、文字だけじゃ先生の顔を覚えていられないし、特徴を書き残すにも限界があるみたいで……。文章を読んでどんな顔をしているか想像するのも楽しいんだけれど、折角なら自分が見たままのあなたを残しておきたいの。


貴久:(驚いた顔をして)絵、ですか? いいですけど、写真ではなくて、絵がいいんです?


依子:そうです。昨日部屋を……この病室を少し見て回っていたんだけれど、画材道具を見つけたの。しばらく使っていなかったみたいなのだけれど、少し手入れをしたら使えそうだったから。それに、写真より絵の方が、あなたのことをよく観察することが出来るし、長い時間、あなたといられるでしょう? そうしたら、もしかしたら、私の記憶にそのほんの小さな断片だけでも残るんじゃないかと思ったの。……あ、もし先生が嫌と仰るなら、無理にとは言わないわ。


貴久:嫌だなんて! ……わかりました。時間ならいくらでもありますから。


依子:よかった! じゃあ少し待っていてくださいね。



キャンバスと鉛筆を用意する依子。慣れた手つきで鉛筆をカッターナイフで削っていく。その様子をぼんやりと眺めている貴久が依子に声をかける。



貴久:慣れているみたいですね。


依子:え? ああ、そうなのかしら。確かに……はじめての割には上手に削れているのかもしれませんね。


貴久:もしかしたら……記憶を失う前は、絵を描くことがお好きだったのかもしれませんね。


依子:そうかもしれませんね。記憶は消えてしまっても、手は覚えているのかもしれない。さあ、しばらく動かないでじっとしていてくださいね。



静かな病室に、紙をなぞる音が響く。ふと、依子が口を開く。



依子:本当に不思議だわ。初めてじゃないみたい。まるでずっと昔から描き続けているような……。先生が言っていたこと、あながち間違いじゃないのかも。


貴久:昔は絵を描くことが好きだった……?


依子:そう。自分では思い出せないけれど、こうして手には感覚が残っている。思い出せないだけで、忘れてはいないのかもしれない。少し……そう思ったの。


貴久:なるほど。


依子:ここに来る前の私を知っている人は、今どうしているのかしら。幸せに暮らしているかしら。悲しい思いをしていないかしら。私は……記憶を失くした私は、彼らを傷つけてしまったのではないかしら。私は……!


貴久:依子さん、やめましょう。そこまでにしましょう。大丈夫です。あなたがかつて大切に思っていた人は、きっと今幸せですよ。そう信じましょう。だから、今は絵を描くことに集中しましょう。


依子:ごめんなさい、取り乱してしまって……。


貴久:いいえ、気にしないで。今日はこれくらいにしておきましょうか?


依子:待って、もう少しで……よし。出来ました。これできっと、明日あなたの顔を見たとき、確信をもって名前を呼べる。先生、今日は長い時間付き合ってくださってありがとうございました。


貴久:い、いや……。依子さんの気が済んだのならそれで……。


依子:ええ。ありがとう。それじゃあ、また明日。……来てくださいますか?


貴久:勿論。また明日。



貴久が病室を去った後、依子が一人呟く。



依子:初めてじゃない。絵を描くことも……あの人を描くことも……?







同じ病室。時刻は午後11時ごろ。依子は窓から外の景色を眺めている。



依子:忘れるから生きていける……。聞いたことがある気がする。絵を描いたことも、きっと初めてじゃなかった。このペンだこもきっと、過去の私……。手掛かりが欲しい。過去の私を知るための記録が。



病室の扉をノックする音が響く。依子が短く返事をすると、貴久が部屋に入ってくる。



貴久:こんばんは……。依子さんから直接呼び出されるなんて、何かありましたか?本当はこの時間に立ち入ることは許されていないのですが……。


依子:ごめんなさい。いけないことだとはわかっていたんだけれど……どうしても今日の記憶が消えてしまう前に知りたいことがあって。


貴久:それは……なんでしょう?


依子:ここに来る前の私を知りたいんです。絵を描いたときに感じた懐かしいという気持ちが、偶然ではないような気がしたから。


貴久:懐かしいと感じたのですか……。


依子:ええそうです。あなたを描いたことが、初めてではないのではないかと感じたのです。この手が覚えていたというべきでしょうか。もう少し、あと少し、きっかけがあれば、何かを思い出せるような気がするのです。だから、もう少しだけ、話を、あなたと、したくて。


貴久:(返答に困っている)



突如、依子が苦し気な声を上げてその場に蹲る。



貴久:(依子に駆け寄り)依子さん……!


依子:ごめんなさい……。これ、夜に成長するんです。普段は薬で眠っているから痛みを感じることもないのですけど……。寝てしまったら、今日のことも忘れてしまうから。


貴久:日記に記しておけばいいじゃないですか。それではだめなのですか?


依子:だめです。今しかないと思うから。ただの勘ですけれど、でも、今日がいい。お願いです。どうせ短いだけの命です。哀れな女の最期の我儘だと思って、聞いてはくれませんか?


貴久:……わかりました。日付が変わるまで。


依子:(顔をあげて)ありがとう……! こっちに、過去の私が大事にしていたらしいものが仕舞われているんです。一緒に見ていただけますか?


貴久:……わかった、一緒に見よう。



本棚に仕舞われていた本を数冊取り出し、各々読み始める。しかし、二人が求めているような情報は出てこない。いずれ、二人は眠気に抗えず、そのまま眠ってしまう。

眠ってしまった依子の様子を見て、先に起きた貴久はそっと席を外す。大事そうに鞄を抱えて部屋を後にする。

しばらくして依子が先に目を覚ます。病室には既に貴久の姿はない。しかし、ベッドの下に一枚の写真が落ちていることに気付く。



依子:この写真……誰のかしら? 私のものではない……。これ……私? 隣の人は……誰かしら。



依子、枕元のスケッチブックと日記が目に入り、中を確認する。



依子:貴久……この人が……。どうしてだろう、懐かしい感じがする。この人は、私の……。

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