1日目

木造のやや古びた印象を受けるが掃除の行き届いた小さな病室。開けられた窓から入り込んだ風がカーテンを靡かせている。窓のすぐ横に設置されたベッドに落ちた暖かな日差しが、清潔な白いシーツを照らす。ベッドの反対側の壁に取り付けられた本棚には、数冊の小説が仕舞われている。

ベッドの上、依子が静かに本を読んでいる。

やがて扉が開き、白衣に身を包んだ貴久が病室に入ってくる。カバンを持ち、少し落ち着かない様子で依子を見て口を開く。



貴久:ええっと……こんにちは。今日は、体調はどうでしょう?


依子:こんにちは。今は大分いいわ。ところでごめんなさい、お会いしたことがあったかしら?


貴久:ああ、ああ、そうですね、そうでした。すみません、いきなり不躾でしたね。はじめまして、カウンセラーをしています、貴久といいます。今日からあなたの担当になりました。よろしくお願いします。


依子:貴久さん、はじめまして。(少しおかしそうに笑いながら)不躾だなんて思っていませんよ。そうだったんですね、今日からよろしくお願いします。依子です。


貴久:ええ、よろしく。その……頼りなく見えるかもしれませんが、何でもお話してくださいね。僕はあなたのカウンセラーなので……。



(貴久はそう言ってベッド脇の椅子に遠慮がちに腰かける。カルテのようなものを取り出し、俯いたまま口を開く。)



貴久:それで、体調は、今は大分いいとおっしゃいましたが……。


依子:(植物の蔓がはみ出した右腕を庇いながら)ええ、痛み止めが効いていますから、見た目ほど酷くはないの。ふふ、初めて見た人はみんな同じ顔をするわ。それもそうよね、でもどうしようもないみたい。最初の頃は慣れなかったし、痛みで眠れない日も続いた。自ら死んでしまおうと思ったこともあった。血管を、皮膚を引き裂いて、花を咲かせるのよ。不思議な病ね。記憶喪失も症状のひとつだって。日に日に思い出せないことが増えていくの。ああでも、悲しいことばかりではないのよ。この植物、可愛らしい花をつけるの。白くて小さな可愛らしい花なのよ。何の花なのかしら。実をつけたりはするのかしら。


貴久:(少し困ったような様子で)そうですね、可愛らしくて、綺麗で、向日葵みたいだ。(少しの沈黙の後、依子を見つめ)依子さん、強がっていませんか?


依子:どうして……?


貴久:なんとなく、わかります。僕は……カウンセラーですから。依子さん、どうか強がらないでください。僕がここに来た意味がなくなってしまいます。僕は依子さんの不安や孤独をやわらげるためにやってきました。他人に対して壁を作って自分を守ろうとしたくなる気持ちはわかります。だけど、どうか、僕にだけは、本心でぶつかってくれませんか?ほんの数日の間だけです、秘密は必ず守ります。だからどうか、お願いします。


依子:(少しの間逡巡した後)本当は、怖くて怖くて堪らないんです。もう花も見たくはありません。今すぐにでもこの蔓全て毟り取ってしまいたい。私の記憶を養分に吸い取っていく、この悪魔の植物を、焼き払うことができたならと、ただそれだけ考えています。もう、この施設に来る前の記憶はほぼありません。大切だった人の顔も、好きだったものも、お気に入りの本も、思い出すことが出来なくなってしまいました。毎日毎日、何かを失って、でももう何を失ったかもわからない。私自身が誰なのかもわからなくなっていく。依子という名前だって、ここの看護師がそう呼んでくれるから、私もそう名乗っているだけなんです。先生、忘れるって、本当に怖いことですね。忘れるほどに、私は孤独になっていきます。でも、先生、死ぬってそんなものでしょうか。


貴久:(彼女の話を真剣に聞いている。しばらくしてから)依子さん、今日から僕たち、互いに少しずつ知っていくためにたくさん話をしましょう。好きな本のこと、好きな食べ物のこと。なんでも、ね。さっきも言った通り、僕は君の孤独や不安をやわらげるためにここに来ましたから。


依子:でも、話をしたところで明日にはあなたのことも忘れてしまうわ。意味がないです、そんなこと。


貴久:そんなこと、やってみないとわかりやしません。明日のことなんて明日になってみなければわからないんです。もしかしたら奇跡が起きて、記憶を保っているかもしれないし、病だって治っているかもしれない。そんなうっちゃるような態度で……まるで君らしくない。そうだ、記憶が消えてしまうのが怖いって言うのなら、日記をつけてみるのはどうでしょう? 明日の自分に書置きしておくんです。そうすれば忘れても大丈夫でしょう。


依子:書置き……。


貴久:そうです。君は忘れることを酷く恐れているみたいですが、人間なんて案外忘れっぽい生き物ですよ。だから何も心配することはないんです。僕だって忘れます。寧ろ、忘れるから生きていけるんです。人生は大抵、苦しくつらいことの方が多い。そんな思い出をなんでもかんでも抱えていたら、いつか重みで立てなくなってしまいますから。


依子:忘れるから、生きていける……。そんなものでしょうか……。


貴久:ええ、そうです。そんなものですよ……どうかしましたか?


依子:あ、いいえ。素敵な言葉だと思って。不思議ですね、先生。私、あなたの前だと何故だか安心して、沢山話してしまう。看護師や医者の先生にだって、あんな風に思いを語ったことなんてなかったのに。自然と言葉が口から出てくるの。まるでずっと前から親しい友人のよう。なんだか少し、心が軽くなった気もするわ。


貴久:そうでしたか、それは……いえ。少しでも依子さんの不安や恐怖がやわらいだのなら、僕としても本望です。それじゃあ、今日はこの辺りで。あまり楽しい時間ではなかったかもしれないけど……明日からはもっと、互いを知っていきましょうね。僕も準備をしておかないと。


依子:ええ、私も……。


貴久:それじゃあ依子さん、また明日。


依子:……また、明日。

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