2.Samurai Girl

大阪。それはマニラ、南京に続く極東の一大都市であり、日本の首都である。少なくともアメリカ人やアメリカ合衆国からすれば唯一の日本の首都であってほしいところはある。実際は空港駅から鉄道で一時間程乗った先の京都に皇室が居住地を構えているが、三権や省庁は大阪に集まっている。人の行き交いはサンフランシスコの比どころではなく、ネオンが光り自動車はエンジンを唸らせ、雑踏の声はまさしくアジアの人口過密地域に訪れた実感をひしひしと沸き立たせた。サンフランシスコも大都市ではあるが、ここと比べるととても静かだ。まるで大道芸人と静かなトランペッターのようである。


まず何よりも必要なのは、任務上これから暮らしていくこの街を感じとることだ。引っ越しすると決めたら必ず物件の下見をするように、どのような場所か、どんな店や風景があるのか、どこに裏道があるのか。活字や写真、地図記号だけでは分からない情報を五感をもって考えるのだ。長期間外国に潜入する諜報員にとっては、この街と国全てが「職場」であり、「敵地」でもある。「知っている」と「知らない」の差は犬死にと凱旋の運命を分けるのだから。もし有事の際に陥っても同盟国の領内だからまだ安全ではあるが、念には念を押すべきだろう。


日本には首都が二つ存在しているが、もう片方の首都である東京は今もアメリカと英国、ソ連による占領が続いている。中国もその誇りあるメンバーだったが今は影も形も消して撤退した。東京の一部分を囲むように壁が聳え立ち、その中には「社会主義のユートピア」が建設されているらしい。職場柄もあって当地で出版された日英二訳の雑誌を見ることはあったが、作られた幸せとはこのようなものなのかとある意味で学びになった。社会主義の実態が何たるかというのは東欧からの情報で十分理解できる。東東京も素晴らしい発展をしていると聞くが噂だけでは予想がつかないし、正直こちらの方が豊かだろう。実際に大阪は何でも揃っているように見えた。車の運転席が右側であることとタコを食べる文化があるのには面食らったが、そのような子細を除けば不足はない印象を抱いた。最新式のオートバイは二人乗りのカップルに爽快感を与え、地下鉄、バス、船舶、飛行機、そして公私共に鉄道が走り、庶民には手の届かないような高額化粧品や高級魚が並ぶデパートの横で市民が愛用する商店街が賑わいを見せる。生活のるつぼだ。



大道芸人でも寝る時は静かであるように、この大都市も夜空た朝靄に包まれている時間帯は喧騒どころか自分以外の弾む息以外に聞こえるのは鳥のさえずりくらい。東の果てよりゆっくりと腰を上げた太陽は分かたれた日本列島を照らし始めた。


それにしても、閑散とし過ぎではなかろうか。アンは日本に降り立ち始めて違和感を抱いた。



(え、ここだよね)



指令通りに空港から降り立ち、指定のホテル、大阪の夜景を一望する部屋を借り、そこで手紙を広げる。出国前に上官のワーウィックから受け取った封筒だ。曰く、三日後、梅田付近で営業している喫茶店「LUCE」にて六時に本日から協力する仲間と合流するように。何か言われた際には合言葉を唱えれば手荒なことにはならないので問題はないはず、とのこと。現地に来てはみたのだが、あまりにも静かである。まるで写真のように時が止まっている錯覚に陥りそうになった。



「もしも~し...」



小声で少し周囲に呼びかけてみたが、当然返答はなかった。



(ま、逆に返事でもされたらそれこそ一大事なんだけどね)



こんな人気のない時間帯に声をかけられるということは、即ち気づかれている現状と一致する。諜報員、俗に言うスパイ......それに連なる仕事人として致命的な失敗だ。



「え、ここだよね......うん、間違いない」



メモに記載された内容にもう一度目を通した。ここに来るまで何度も忘れないように脳に刻み込んだ情報は他人に理解できないように暗号としてタイプライターで打ち込まれているが、内容は違わず把握している。つもりだ。 


今まで凪いでいた空から産まれた風に右の頬を撫でられ、つられて目の前に建てられた一軒の喫茶店を見上げた。安直な感想になるが、とても洒落た店構えだ。正直ロサンゼルスやマイアミ、ワイキキで流行していてもおかしくはない。流行りにおいて店構えは重要だ。


じっと待つのも、さりとて彷徨くのも怪しさを増すばかりだと判断し、来た道を戻ろうと足を逆方向に向けた瞬間だった。


眼。


真っ黒で、吸い込まれてしまいそうな左目とぴったり合わさった。しまった、と血の気が引いた刹那、後ろにいた相手はアンの首根っこを掴み裏路地に引っ張っていく。左手だけ、しかも同年代にも見える女性だというのに岩のような握力で絞められた、どこからそんな力が湧いているのか?目が潤み、呻き声が掠れながら出てきた。たちまち裏路地の勝手口から建物の中に連れ込まれ、ダンと大きく鈍い音と共に床に倒された。


動揺と戦慄がアンの思考を塗り潰す。謎の女は彼女の右腕を背中側に引っ張り、捻り上げた。



「痛い痛い痛い痛い!!!」



腕と関節を極められた激痛にもがくと、後頭部に冷たく重い何かが当たった。



『動くな』



滑らかだが、凛とした芯のある声だ。音の響きから日本語だということも何となくながら理解できたが、肝心の内容が見当もつかない。アンは英語しかわからない。



『何処の差し金だ』



後頭部に当たっているのが銃口であることが分かると、アンはたちまち気が動転した。



「ま、待って、私は...」


『英語......やはりアメ公か』



拘束された右腕がじわじわと体の内から悲鳴を上げる。



「痛い、待って、お願い」


『喚くな、答えろ』





『はい、そこまで。離すんだ、真央』



アンから手が離れた。全身を圧迫していた痛みが少しずつ和らぎアンは解放されたが、状況が把握できず呼吸は絶え絶えのままである。



「え、何、誰...」


『彼女から離れるんだ。命令だ』


『しかしコイツは...』


『落ち着きなさい、情報は共有されている。彼女は私達の味方だ』



男の声と女の声、くぐもった会話が続いた。男がこちらに歩み寄った。



「君、大丈夫かい?」



英語だ。訛りのない、本国の人間が聞いて違和感のない英語。どっと疲れが体に溜まった。



「あ、ありがとうございます......助かりました」



情けない醜態を晒すことになってしまったが、男は気にも留めなかった。



「うちの者が大変失礼した。あの娘は特に警戒心が強いから、手荒な方法に先走ってしまう。怪我は?」



自分と同じ話し言葉であるだけでこうも安心できるとは思いもよらず。



「大丈夫のようだね。こら、真央。君も謝りなさい』


『......』



彼女はだんまりを決め込んでいる。



『全く、己の過ちを認めなければ何もなし得ないと言っているだろう』


「あ、あの。私は気にしてないので」



アンは日本についてはあまり知らないが、かつての戦争についてはよく知っている。日本が三つに分かれることになった戦争。日本に上陸している海兵隊の勇姿を、写真越しで何度も目を通した。1944年6月6日、あの日から日本人はアメリカを蛇蝎の如く、いやそれ以上に憎んでいる。東京にはためいた星条旗を、そして一望したときにあらわになった焼け野原を、日本人は片時も忘れていない。彼らはその笑顔の中に般若の形相を隠しているのだ。黒目、そして光に反射し煌めく黒髪の少女が実力行使に出たのも頷けた。



「そうかい?君は優しいね......そうだ。こんなところで立ち話もなんだ、良ければ何か出すよ。こう見えてここのマスターもやってるんだ」


#


アンティーク調テーブルの上にコーヒーが二つ、そして散乱された資料。桂はそれらを素早くまとめ、縦横を正し隅に固めた。カフェインの刺激と優しさを混ぜ込んだ匂いが控え室全体に漂う。


「成程、集合時刻に合わせて来てみたら・・・・・・か。いやはや、本当に申し訳ない」


「いえ、こちらの不手際もあるので・・・」


「でもね、これ午後六時って書いてる」


「え」



気を紛らわせるための少しの雑談で時間把握ミスが発覚した少し後に、桂は右耳に手を当てた。インカム越しに誰かと通話している。先程までいた少女、真央と呼ばれていたが、その彼女がいないので、見張りに出ているのだろうと推測した。



『有り難う。引き続き目を光らせておいてくれ...


...さて、アン・アームストロング君。改めまして、ようこそ「ひかり」へ。歓迎しよう」



声のトーンが一段階下がり、場の空気も併せて張り詰めていった。ワーウィック・フェイスフル長官に報告するときと同じ空気だ。アンは膝の上に置いていた両手をぎゅっと握り締めた。

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