The His Note ~分かたれた極東の島国~

Divertissement

1.My sister in the city by the bay

アン・アームストロングはデヴィットソン山、ゴールデン・ゲート・ブリッジ、そしてアルカトラズ島が見えるサンフランシスコの家に生まれてからというものの、家族からはあまり歓迎されていないのだという現実をひしひしと感じて生きてきた。


父は地元カリフォルニアの政治家としての仕事に注力しており、家庭のことなぞ気にかけることはほぼなかった。彼が喜んで家族に話しかけたことと言えば、下院選挙で当選したのを開票日の夜に急いで家に戻ってきた時くらいだった。別に家族に愛想を尽かしているのではないことは誰もが承知していた。浮気なんて脳裏に浮かびそうにもない程の生真面目な人という彼の数少ない友人による評価は誰もが納得するものだった。彼はほとんど自分の私腹を肥やすような金遣いはしなかったし、家族に必要なものは最新式の掃除機から評判の良い塾に通わせるための資金まで多くが家庭に還元されてきたのだ。アンが学校の勉強に全くついていけてなかったのである。だが、片手で数えられるくらいしか家庭に戻ることは少なく、また家族と面を合わせることも、合わせようという意思もほとんどなかった。寧ろたまに帰ってきた時に話しかけようとすると目を合わせずに冷たく「後にしてくれ」の一言で片付けられてしまうのであった。最後に父と笑顔で語らいを交わしたのはいつだったか、いつの間にかその疑問すらも他の記憶の山に埋もれてしまった。


母は厳格なクリスチャン、プロテスタントだった。その徹底さは南部の人間も息を飲む程で、日曜の教会礼拝は例え体調を崩していたとしても欠かすことはしなかった。どうやら元々の出身は名家の一人娘であったらしく、礼拝は実家にいた頃から続く習慣だったそうだ。その習慣は自分達姉妹にも襲いかかってきた。一度友達と遊ぶ約束を優先して日曜の礼拝を怠ったことがあるが、その晩の母の怒り様は何があっても忘れそうにない。青筋が立つというのを人生で初めて見たのもその時だった。また、母は絵に描いたような愛国者でもあった。これもまた昔の出来事になるが、父が日系人収容の仕事に携わることが決まった際は声が弾んでいた。幼いアンにとっては全く理解できるような簡単な話ではないのだが、時折母の口から出てくる「ジャップ」なる者はとても恐ろしく卑しい存在であるというのは何となく分かるようになった。何にせよ、母は海の向こうで君臨する三人の独裁者―フランク・キャプラの映画でレッテルを貼られたヒトラー、ムッソリーニ、天皇よりも恐ろしい存在だった。


押し付けがましい母、仕事に忙殺されている父と比べると、アンの姉は理想的な保護者だった。学校に行く支度から夕食の買い出し、そして相談事まで何でもやってくれた。今思うと中々倒錯している節もあったのでは、と考えてしまう。


小学校に通う間、バス停に向かうまでの道のりは然程遠くはなかったが、その短い間の片時も姉と手を握っていた。羞恥心が湧き始めたのは5年生になってからだ。別に迷子になんかならないよ、などと訴えてみたものの「そうは言うけど、貴女小さい頃バスを間違えたじゃない」とはぐらかされ逃れることはついぞできなかった。


中高に進学してからはそれなりにモテたからか何度か告白されたこともあったが、堪らなかったのは家に帰ってからであった。いつの間にか知らないが相手のことを知り尽くしているのである。



「あの子浮気してるからダメ」


「アイツは単純に性格が悪すぎる」



それでもアンにとって姉は大切な家族だった。学校や友達の家から帰るといつも姉がいてくれたし、彼女がおやつを作っている時の音と匂いに包まれながらレコードを聞いたり雑誌を読む時間は憩いだったし、その後透き通るような紅茶を二人分のカップに注いで色んな話をするのもお気に入りの午後の過ごし方だった。何よりも姉は決して嘘をつくことはなかった。仕事で忙しいのを誤魔化す父や矛盾を高圧的に隠す母と違い、姉の目は常に真っ直ぐアンを見つめていた。彼女は嘘をつかなかった。



「私は、貴女のことが大切なの」


「どうしたの、急に」


「貴女は私のこと、好き?」



たまにこのような会話が差し込まれるため、いつものこととして受け流すように返答した。



「嫌いじゃないよ」



姉は微笑んだ。顔が少し紅い。



「良かった」


「なら、お願いがあるの」



「貴女だけは、無事でいてね。いつまでも」



これは、いつの会話だっただろうか。


#


そんな姉が失踪したという知らせを伝えられた時も、アンは動揺こそしたが十分に信じることができた。瞬間にアンの直感はピンと張ったのである。彼女なら自分の行方を自ら眩ませることはしないだろうと、逆にその場で動揺し喚く父母が疎ましく感じるくらいに勘が冴えていた。


事務的な声色で隠しきれない気の滅入りを見せながら、報告のために実家のドアを叩いた男はCIAから来た、と自分を紹介した。曰く、姉は日本に潜入中突如として行方を眩ませたとのこと。いつも公文書ばかり見ている父の目は焦点が定まらず、母は姉を失ったと早まったのか慟哭に臥していた。だがアンも言われずとも姉が死んだとは信じられなかった。


数年前、失踪する前のことだが、姉は日本に赴く最後の瞬間に家に帰ってきた。父母はいないものとして無視され、姉はアンに対してのみ言葉を残した。



「大丈夫、お姉ちゃんは必ず帰ってくるから。良い子にしてるんだよ?」



思春期を過ぎたばかりの妹に向ける言葉ではないのだが、いつも聞くような、優しく、そして透き通る声は今も耳に残っている。わかった、と適当に返したら、姉は控えめに見ても美人と形容されるような顔ににっこりと笑顔を浮かべてアンの頬にキスをしたのも忘れたことはない。あの柔らかな唇の感触は今も残っている。


#


〖...アジア大陸の東側にあり、何千にも数えられる島々で国を形成している。四つの大きなプレートの上に位置するため地震がよく起こる。国土はほとんど緑に包まれ、国民は米と魚をよく食べる...〗


学校のロッカーで眠っていただけで、その後無惨にも燃えるゴミになるだけだった地理の教科書よりも少しだけ詳しいガイドブックの文面に飽きてしまい、窓越しに空を見た。雲海の白と空に広がる淡い青が混ざり合い、また混ざりきることなく幻想を生み出している。これは翼を授かるか飛行機に乗らないと分からない優越を秘めた満足感を与えてくれる。青の向こう側から、少しずつ朱が見える。染まっていく。本に目を戻す。目的地となる空港のすぐ隣には、首都であることを示す赤の二重丸が印字されていた。その部分を何となく指で撫でた。


何故姉と同じ道を歩むのか、父には理解されず母はただ嘆き、友人には不思議がられた。キャビンアテンダントかニュースキャスターにでもなるイメージが強かったのだ。だが、姉の無念を記憶の彼方に消してしまいたくはなかった。大学を出て、東海岸に行き、そして長く気が詰まるような面接と試験を繰り返し、ようやくここまでやってきた。任務を受けたその日、直接の上司であるワーウィックは厚みのある、くぐもった声で彼女に向けこう述べた。そもそもとして潜入する人間が仲間同士で同じ場いる機会も少ないという事実がある分、その一言一句が脳に刻まれた。



「日本は"竹のカーテン"の最前線だ。君の手に、世界の命運はかかっている」



それだけだった。日本に行って何をするのか、何が目的なのか、いつまでいるのか。それは現地で通達するようだ。空っぽな激励とはいえ、アンにとってはいよいよあの時の姉と同じステージに立てたことで少しだけ心が身軽になったように感じた。上官には申し訳ないことをした、という後悔と罪悪感もある。彼はかつて姉の上司でもあり、またあの日姉の「訃報」を伝えに来てくれた人間でもあったからだ。だが譲れなかった。


紙コップに残りかけのコーヒーをぐっと飲み干し、フゥ、と嘆息がもれた。因縁の地が眼下に見え始めた。あの島々が墓標になるのか、それともまた故郷の象徴たる金門橋を見ることができるのか。それは分からない。今はただ、姉に叫びたい気持ちで一杯だった。



ー見ててね、お姉ちゃん。私、頑張るから。



『皆様、シートベルトは緩みの無いようしっかりお閉め下さい。当便は間もなく大阪国際空港に到着致します。リクライニングは戻し、化粧室のご使用はお控え下さい......到着予定時刻は現地時間にて二月十三日八時十二分、気温は現在九度、晴れの模様です...』

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