第4話

 小説を読むのは結構好き。


 でも、人と楽しみ方がきっと違うのを、知っている人はあまり多くない。


 それは言うなれば、虫を観察しているようなものなのかな。


 あまりにも自分と違いすぎる生き物だから、親近感も、愛着も、当然共感も湧いてこない。興味は湧いてくるけれど、それは自分が知らないことを情報として知るみたいな、いうなれば好奇心に近いものだ。


 だって、小説の中の登場人物たちは、誰も彼も心を表現するのに身体を使うから。


 恋する女の子はみんな、胸がドキドキするそうだ。


 緊張した主人公は、息が苦しくて血が身体を巡るのを感じるって。


 悲しくなると、涙が零れるっていうけれど、私は自分が涙を流すことすら自分で気づけないんだけど。


 まあ、共感なんて、どだい無理な話なんだよね。


 だから私は、自分とは違う、ヒト科生物の解説書としてそれを読む。


 悲しいと涙を流すらしい。


 嬉しいと笑顔になるらしい。


 動揺すると目が泳いで。


 焦ると呼吸が浅くなる。


 人間ってそういうもの、私とは違う、そういうもの。


 そして、人は痛いと、たくさんの反応を見せてくれる。


 とてもとてもたくさんの。


 「あ、


 隣のゆうりが声を上げて胸を押さえだしたから、そう声をかける。


 顔は歪んで、眉間に皴が寄って、首筋に汗が落ちる。


 胸を抑える手もがたがた震えて、あらら、こいつは重症かなとかるく笑う。


 「ナースコール押す?」


 私がそう問うと、ゆうりの首ががくがくと縦に揺れる。さっきから息がかひゅかひゅと、どこか壊れたような音を立てている。……今回は、肺かな、これは。


 「ういうい、ほら、がんばれー。看護師さんすぐ来るし」


 そうやって軽く肩に手を添えてあげたなら、わなわなと震える手が、私の指に縋りつく。


 看護師さんが来るまでの数分間、そうやって、ぼんやりと時間を過ごしていた。私の隣で、掠れたように苦しみ藻掻くゆうりをただ眺めながら。


 そんな彼女の声と姿を、ただ飽きもせずに私は脳に焼き付けていた。



 ※



 「あんた、苦しいとかないでしょ」


 初対面でそんな失礼なこと言われたのは初めてだし、初対面でそんな図星なことを言われたのも初めてだった。


 思わず反射的に手が出てしまったのは、私なりの正解へのご褒美だ。


 私は生まれてこの方、自分を不幸だなんて思ったことは一度もない。


 多分、その不幸を定義する感覚が死んでいるから。


 痛みというものを持たない私の身体は、そもそも不幸が定義できない。


 感覚がないことを、クラスでからかわれても、私の胸は何一つ痛まない。


 病気も怪我も、他の人はやたらと心配してくれるけど、私としてはいたってどうでもいいものだ。


 人間のストレス、不安、不調に、どれもかれも身体の痛みを通してでしか、人は知ることができないらしい。


 人前に立つと、手が震えてしまう男の子が、私のクラスにいたけれど、私ならまず手が震えていることに自分自身で気づけない。気づいたところで、そこに沸き起こる感情もありはしない。


 人を殴ることに葛藤もなく、人に殴られることへの恐怖もない。だってそこに感情の一つだってありはしないから。頭痛も、肩こりも、胃痛も、筋肉痛も、私とは結局無縁のものだ。世の中ではこれで悩んでる人が社会のほとんどだって言うんだから、ないなら、ないほうがいいんだろう。


 そんなことを、私の隣で痛みに喘ぎ続けている少女を見て、しみじみとそう想う。


 「あんた苦しいとか感じてないでしょ」


 そうだよ。


 「笑みが薄っぺらい、どんな状況でも笑えるからでしょ」


 そのとおりだよ。


 「あんたは明るくて笑ってんじゃない。いつでも笑えるから笑ってんだ。他人が笑ってると反応いいから、機械的に笑ってるだけでしょ」


 本当に、その通りだよ。


 看護師の峯ちゃんが大慌てで病室に入ってきて、酸素マスクの準備を始める。ゆうりの口からはぼたぼたと血が零れ始めていた。そして、それが彼女の肩に添えていた、私の手につくのをそっと眼で見止める。


 処置の間、邪魔だろうと想って手を引っ込めた。


 しばらく落ち着くまで時間がかかるだろうし、今回孔が空いてるの肺だから、場合によっては手術とかもあり得るし。血抜きとか結構大変らしいしね。


 なにしようかな、なんてそんなことを想う。


 彼女の痛みに共感してあげらる人なら、峯ちゃんみたいに慌てたり、そうでなくても心配したりしてあげられるんだけど。


 私にそんなことはできないし、する資格もない。


 痛みを知らない私が、痛みの中で苦しんでいるゆうりを慮る権利もない。


 他人と私は違うから、誰にも私のことはきっと解られることはないだろう。


 ゆうりは、その他人の中でも群を抜いて、解りあうこともないんだろうなって、そんなことを考えた。


 「ねえ、あかねちゃん。、そのまま握っててね」


 左手でベッドの反対側の小説に手を伸ばしかけていたら、峯ちゃんがそんなことを言っていた。


 それ? と少し首を傾げて、辺りを見回してみた。


 それに私は気づかない。


 それに私は気づけない。


 処置の邪魔になったら悪いと想ってゆうりから引いた手は、私とゆうりのベッドの間にぶらんとぶら下がっていた。


 ただその手はベッドの下に落ちるようなことはなくて、ちょうど、真ん中あたりで、もう一つの手に握られて繋がれていた。


 私の方は握っているつもりはなかったから、今、力を込めているのはゆうりの方だ。


 ベッドとベッドの間で、ぶらんと力なく垂れている私の手を、ぎゅっと握って繋ぎ止めている。そんなことにも私は気づかない。


 「私が握ったら、ゆうりの手を潰しちゃうよ。力加減とかわかんないし」


 子どもの頃、人を殴って、顎の骨を外させたことがある。ちなみに、その時は私の手の骨も粉々になっていた。


 私は痛みを知らないから、自分のものも、誰かのものも。


 「それでもいいから、握ってて。大丈夫、ゆうりちゃんはそこんとこ間違えないよ」


 峯ちゃんは必死になってゆうりの処置を続けながら、そんなことを言ってくる。医療関係者としてどうなんだろ、根拠のないこと言っちゃうのはさ。


 仕方ないから、垂れているゆうりの指を私の手でできるだけゆっくり掴んだ。


 どれくらいなら力加減なら、その手を握りつぶさないかなんてわからない。


 どれくらい触れあえば、その心を安心させられるかなんてわからない。


 わからないまま、その手を小さく握りしめた。


 その間もゆうりは泣き叫びながら、血を吐いて、息を掠れらせてただ必死に痛みと戦っているだけだった。


 握った指の感覚も、置き所も解らないまま、私はそうやってただ抗っている二人を見ていることしかできなかった。

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