第3話

 私と両親は、もう随分長いこと離れて暮らしてる。


 今の私の生活拠点はある大学病院の病室だ。


 私の対応にノイローゼ気味になった母親のためと、私に何かあったとき緊急で対応するために、私はこの病室から高校に通ってる。


 看護師さんたちは優しいし、医者もなんだか最近、孫をみるおじいちゃんのような顔してる。血のつながった人間より、他人のほうが優しいのも、なんだかおかしな話だろう。


 ま、仕方ないけどね、私がこんな病気に侵されている以上、どうしようもない部分がある。それか、私がこんな病気を背負っていたとしても、周りに気を使えて感謝も絶えない人間だったら、少しは違っていたのかな。


 右手の孔が膿まないように一応処置してもらった跡を眺めながら、そんなことを考えた。


 もう夜もすっかり更けたそんな頃。


 ベッドで独りスマホを弄っていたら、病室のドアがガラって開いた。


 軽く視線を向けて、なんだあんたかとスマホへと視線を戻す。


 「おっつー」


 「なんだ、あんた今日こっち?」


 「そーなのだ、まーたさ、腰やっちゃったよ」


 「腰はやばいね、てか湿布くさ。はは。おじいちゃんみたい」


 「なんだとぅー。うらー、おじいちゃん臭をくらえー。うりうり」


 「また腰壊すって、大人しく寝ときなよ」


 他愛のないやり取りを繰り返して、私の隣のベッドに顔なじみの同級生が腰を下ろす。


 私の数少ない話し相手であり、病院生活仲間でもある。それにしても嫌な仲間だけど。


 柊 あかねという女だ。


 私と同じく、原因の不明の難病。ただ、私と違って、前例はいくつかあるらしい。


 『無痛症』と呼ばれるものだ。


 読んでの字の通り、痛みを全く感じない。


 痛覚。


 圧覚。


 温覚。


 冷覚。


 こと触角と呼ばれる、ありとあらゆる事象を先天的に感じることができないらしい。


 なにそれ天国じゃんと、初対面の時に言い放ったら、笑顔のまま無言で拳が飛んできた。


 まあ、当たり前と言えば、当たり前だけど相応に苦労はしているらしく。無神経だったのはまあ、認めざるおえないかな。


 痛みがないと、どう生きていくうえで困るのか。


 「まず、普通に何かにぶち当たっても気づかないよねえ」


 例えば、足の小指を机の脚にでもぶつけたとしよう。


 大概の人は痛いと思って即座に足をひっこめる。考えなくても身体が勝手に、咄嗟に指が傷つかないよう力を込めて固くする。


 でも、柊あかねには、それがない。


 なんの加減もなく、なんの制止もなく、ただ自然と足が動くスピードを維持したまま、ぶつかっても気にせず足を動かし続ける。


 「だから、私、机にぶつかっただけで、足の指の骨が折れたりすんの」


 人間の反射はなんだかんだよくできていて、火傷しそうな時は咄嗟に腕が引っ込むし、物にぶつかりそうなときはそれとなく身体にブレーキを掛けている。ただ、そういうのは全部神経から『痛い』って反応がくることが前提だ。


 痛みに気付かないから、例えば腕の筋肉が疲弊して限界を迎えても、あかね気にせずその腕を使ってしまう。普通の人が、立てないほど足が痛くて動かせないような状況でも、あかねは平気で足が動かせてしまう。


 痛みとは本来、いうならばブレーキで、それがあることで、スピードが出過ぎないよう安全を保つ側面があるわけだ。


 でも、あかねはそんなの感じられない。


 「マラソンしてたらさ、突然視界がぐるんって回るわけ。何かと思ったらさ、足が疲労骨折してんのよ、ふくらはぎからぽっきーんって」


 「夜中に勉強しててさあ、ぼーっとしてて、ふと気づいたら突っ伏した時に腕にペンが刺さってたこととかあったなあ。結構ずっぷり、宿題が血に染まってたね」


 「意外とやばいのが、風邪とか熱中症ね、あれも痛みだからさあ要するに。ぶっ倒れるまでわっかんないの。何回小学校の頃、それで病院担ぎ込まれたか」


 「一番の笑い話がさあ、突発的に血ぃはいて、そんで病院行ったら、胃潰瘍だったこととかあるんだよね。しかも原因がストレスってわけ。ストレス感じてることもわかんないの、自覚もないの、すごくない?」


 そうやって語るあかねの顔はいつも明るい。底抜けで人好きがして、誰もがこいつのその笑顔に絆される。


 ただまあ、それが本当に、底がない笑顔だってことは、ある程度近い人間しかしらないけど。


 痛みがない、ということは。


 直接的にストレスを実感することがない、と言い換えることもできる。


 痛みに煩わされることもなく、思考や処理は常に明快で、痛みから湧いてくる感情と戦う必要すらないわけだ。


 だからこいつの笑顔は常に絶えない。


 薄っぺらで、苦脳もない、無理もない、そんな笑顔。笑顔に裏がないんじゃなくて、裏を持つということが、あかねにはそもそもできない。


 そんな私たちが、何の因果か……多分、同年代が一緒に過ごせるようにって、病院側の配慮だろうけど……同じ病室で結構な時間を過ごしている。


 私の方は常にいるけど、あかねもしょっちゅう、検査や怪我の処置でこの病院を訪れる。症状によっては入院もざらだから、最近はほとんど同室のルームシェアみたいになっている。


 今日も、そんな感じの流れだった。


 「で、クラスのそいつがさ、ケツ触ってきてたわけ。私に感覚がないって知ったうえでね。で、当然私は気づかないんだけど、隣にいた子が突然ハッとして、そいつに向かって叫び出してさ。なんでか、その子が泣きだすんだよ、私の方が困惑しちゃってさ」


 あかねの言葉を聴きながら、適当に相槌を打っておく。眼はスマホのゲームの画面を追ったまま。


 「なんか、いたたまれなくなったから、とりあえずその男子の腰を蹴っ飛ばしたら、勢い強すぎてさ。思いっきりこけちゃったよねえ。いやあ、やるなら拳にするべきだった」


 「毎回想うけど、なんであんたすぐに人のことぶん殴るわけ? 私との初対面でも殴ってきたし」


 「ふっふっふ、人の痛みに共感できない女子なもので」


 「ドヤ顔で、うまいこと言ったみたいな顔するんじゃねーよ」


 「えー、クラスで言ったらみんな笑ってたのになー。ちょっと引きつった顔で」


 「……反応に困って笑ってるだけでしょ、それ」


 柊あかねは間違いなく、私とは対極の人間だ。


 途方もないほどの痛みを抱える私と、それらが一切ないからっぽの世界にいるあかね。


 恐らく一生、わかりあうことなどない。


 そんなことを考えた。


 ただその後に、どうにも自嘲の笑みが零れていた。


 じゃあ、誰とならわかり合えるというんだろう。


 こんな痛みを、こんな苦しみを、生きているだけで漫然と続く苦痛を、死ぬまで終わることのない壊れてしまいそうになるような、恐怖を。


 私は一体、誰とならわかり合えるっていうんだろう。


 『あんたは世界で一番、自分が不幸だとでも想ってるんでしょう?』


 うん、そうだよ。


 少なくとも、私が見てきたなかで私以上に不幸な人に私は未だに出会ったことが無いんだから。


 わざとらしくついた溜息に、柊あかねは何も知らぬ軽薄な顔で、にやにやと笑って私を見ていた。

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