笑いのチョコレート

振矢瑠以洲

笑いのチョコレート

「最近、コメディーのドラマや映画を見ても、テレビでお笑いコントを見ても、落語を聞いても全然笑えないんだよな」

「どうしてそんなに笑いたいと思うの」

「だって笑うことは心に良いって言うじゃない。免疫を上げて身体に良いって言うじゃない。だからストレスにも良いのかなと思って」

「そんなにストレスになるようなことがあるの」

「最近課長が変わったんだけど、その課長が超パワハラでね。みんな毎日神経がピリピリしているね。毎日毎時間課長の罵声を聞かされている感じだね。俺なんかも時々怒鳴られるけど、まだ少なくて良いほうだよ。新人なんか毎日怒鳴られているよ。俺なんかもこんなにストレスを感じているのだから、毎日怒鳴られている人は相当ストレスを感じていると思うよ」

「そうかストレス解消に笑いたいというわけだな。それじゃこれ試してみない。一見何の変哲もないチョコレートだけど。まあだまされたと思って、これを食べてからお笑い番組でも見てごらん」

 友人は板チョコが五枚入った箱を渡してくれた。


 家に帰ってテレビの電源を入れると、お笑い番組が放送されていた。ちょうどいつも一番面白くないと思っていた二人組のお笑い芸人が、お笑い芸をしているところであった。スタジオ内の客席に座っているエキストラとしての観客は普通に笑っていた。エキストラとしての仕事はできるだけ自然に笑うことだと思われる。このようなつまらないお笑い芸で自然に笑っているのだから、エキストラとしての仕事はさぞかし大変に思えた。おそらくリハーサルというものがあったのだろう。いまつまらないお笑い芸をしている二人組の場合は、リハーサルでは他のグループよりも多くの時間を要したように思われる。

 夕飯時なので、外に食べに行こうと思ったが、ちょうど友人からもらったチョコレートが目に入った。箱から一枚取り出して食べ始めた。空腹だったせいか板チョコ一枚をあっという間に食べてしまった。

 テレビでは例の面白くない二人組がお笑い芸を続けていた。が、突然世界が変わってしまった。あの二人組のお笑い芸が、可笑しくてしょうがない。スタジをのエキストラの観客が笑っていなときも、可笑しくて笑いが止まらない。笑ってこれほど眼から涙が流れたことがない。

 お笑いのメンバーが変わる度に、おかしさの度合いが増して行った。今までこれほど笑ったことがあっただろうか。二時間の間笑いっぱなしであった。コマーシャルの間も可笑しくて笑いっぱなしであった。お笑い番組が終わりに近づいた頃、笑い過ぎて疲れてしまったのか、猛烈な眠気がやって来た。無意識のうちにテレビの電源を消してしまったらしい。無意識のうちにベッドに向かっていたらしい。いつの間にか深い眠りにおちいっていたらしい。


 翌日会社に行く時例のチョコレートを鞄の中に入れていた。会社に行くと、いつものように朝から課長の怒鳴り声が鳴り響いていた。課長のデスクの前で、新人社員が泣きそうな顔をして下を向いて、課長の怒鳴り声からなるお説教を聞いていた。

 鞄から書類を出した時、間違ってチョコレートも一緒にデスクの上に置いてしまった。そのチョコレートが課長の眼にとまったようだ。

「おい、不細工社員、そのチョコレート一枚こっちによこせや。4枚もあるんだから一枚くらいいいだろう」

 板チョコ一枚を手に取ると、課長は包を無造作に破り取って、中身のチョコレートを食べ始めた。朝食を食べていなかったのか、飢えた野獣のように板チョコ一枚をあっという間にたいらげてしまった。

 課長は依然として課長のデスクの前に立っていた新人社員を見るといきなり笑いだした。

「おい新人社員なぜまだ立っているんだ。可笑しくてたまんないよ」

 課長の笑い声を聞いたのは、この課のだれもがおそらく初めてだろう。課の誰もが驚きの表情を隠せなかった。

「おい痩せっぽち新人。お前が立っていると柳がヒョロヒョロ立っているみたいだな」

 課長の笑いは止まらないどころか、ますますエスカレートしていく感じだ。

「おい不細工社員さっきのチョコレートもう一枚食べていいか。なかなか美味いじゃないか。実は今朝朝飯を食べてなくてね。心配するなよ同じようなチョコレートあとで買ってくるから」

 課長は、自分で言った「朝飯を食べてない」が、可笑しかったようで、そのことでも笑い始めた。笑いでしばらく身体の震えが止まらなかったようで、身体の震えが鎮まったところで、板チョコの包を無造作に破って、チョコレートに貪りついた。

「チョコレートをもらって、こんなこと言うのも何だが、不細工社員は本当に不細工だな」

 失礼なことに課長はひとの顔をまじまじと見ながらまた別の笑いを始めた。そんなに不細工と言うなら徹底的に不細工になってやろうと思った。まず人差し指を鼻の穴の間にあてて押し上げて、豚のような鼻にした。課長の笑いはますますエスカレートしてきた。眼に涙が溜まって今にも溢れそうだ。眼をつり上げて狐のような眼にしてみせた。課長のエスカレートした笑いとともに眼から大きな涙の粒がこぼれ落ち頬をつたって床に落ちた。課長はお腹を押さえて椅子を揺すりながら、さらに笑いをエスカレートさせていった。お尻を課長の方に向けてフリフリをした。課長はひとのお尻を指差して、今までに出さなかったような変わった声で笑い始めた。お尻をさらに大きく揺すりながらフリフリしてやった。課長は今まで出したことのないような声でさらにその笑いをエスカレートさせた。

さらにお尻を大きく揺すろうとした時、勢い余って放屁してしまった。課長は人間の声とは思えないような異常な笑い方を始めた。眼が白目になってしまった。その人間の声とも思えないような笑い声はしばらく続いていたが、突然止んだ。異様な沈黙が訪れた。課長は頬が机にへばり付いた状態で横を向いていた。口が大きく開いたままで涎がたれていた。眼が白目だった。


 翌日出勤すると、課長の席は空席になっていた。課長は急きょ入院することになったらしい。極稀であるが、世の中には、笑うという経験をしないで人生を過ごしてしまう人がいるらしいのである。課長はその珍しい人間になるらしい。笑う時には笑う時の身体の動きや声帯の動きがあるらしい。笑う時の骨の動き筋肉の動き声帯の動きというものがあるらしい。課長の骨の動き筋肉の動き声帯の動きのほとんどは怒りのときの動きがほとんどであったようだ。課長は今まで一度もしなかった笑いの動きをしたことになる。そのことが大きな原因であったのだろう。まず笑いで顎が外れてしまった。頬の筋肉が切れてしまった。声帯が大きく損傷を受けてしまった。聞いたところによると課長の入院はかなり長くなるようだ。というより職場復帰はほぼ不可能に近いとさえ言われている。ということは課長は変わるということである。とにかくその日は出社時から退社時まで怒鳴り声など一切なかった。


 その翌日出社すると、辞令が貼り出されていた。思いがけず課長職がまわってきたらしい。とにかく職場を怒鳴り声ではなく、笑い声の溢れる職場にしようと思った。ただ例のチョコレートなしに、笑いを起こらせなければならない。これは確かに難しいことである。だが課長になったからにはこの技術を絶対に身につけなければならないと思う今日この頃です。

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笑いのチョコレート 振矢瑠以洲 @inabakazutoshi

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